第3話 始まりの始まり

「どうする?さっそく温泉に行くか?」

 そんなことを訊いてきた雄二だったが、すでにバッグの中から入浴セット一式を取り出していた。


「俺は晩飯の後で良いよ。二泊するんだし、これからいくらでも入れるからな」

 晩飯の時間までそれほど余裕がないから、それなら食べた後でゆっくりと温泉を堪能したい。


「そっか、じゃあ俺は一人で入ってくるぜ。どんな温泉かたっのしみー!」

「晩飯までには戻って来いよ」

「りょーかい!」

 スキップしながら部屋を出ていった雄二。

 するとすぐに廊下で誰かと話している声が聞こえてきた。多分、恭子か朱莉か、その両方だろう。二人も温泉に先に入りにいこうとしていて、ちょうど雄二と会ったってとこか。

 こうなってくると、俺だけ行かないというのは少し寂しい気持ちになってくる。

 いや、我慢してから入る方がきっと気持ちいいはずだ。

 俺は自分にそう言い聞かせて、NHKしか映らないテレビを見つめて気を紛らわせた。



「いやあ!ここはほんとに穴場の宿だな!料理は美味いし、露天風呂も最高だった!」

 少し酒が入ってご機嫌な雄二。


「少々、いや、かなり山奥で来づらいのが難点だけど!」

「そういうことを大声で言うなって…」

「ヨークも早く入って来いよ!めちゃくちゃ良い温泉だったぞ!」

「お前に言われなくてもこの後に行くよ。俺だってずっと我慢してたんだからな」

「我慢なんてしなくて良いのに。どうせ俺たちの貸し切りなんだしな!……貸し切りだよな?他に客はいないって婆さん言ってたよな?」

 何故か急に大人しくなる雄二。


「そう言ってたな。どうした?誰か他のお客さんに会ったのか?」

「いや…気のせいだとは思うんだけど…。なんかちょっとな…」

 どうにも雄二にしては歯切れが悪い。


「すまん。俺の気のせいだ」

「いや、気になるから」

 知らずに入って誰かいたら驚くだろう。


「なんかな…誰かの視線というか気配というか…。あれ?他に誰か入ってんのか?って思っただけで、実際には誰もいなかったって話だ。まあ気にすんな」

「お前霊感とかあったっけ?」

「しらん。幽霊とか今まで見たこともない」

「じゃあ気のせいだろ」

 こんな山奥で怖い事を言わないでほしい。



 男湯と書かれた暖簾をくぐって脱衣所に入る。

 いくつかの衣類を入れる籠が置かれていたけど、他に誰かが入っているような様子はない。

 雄二がいらないことを言うもんだから、どうも警戒してしまう。


 扉を開けて外へと出ると、そこは山奥の寂れた温泉宿とは思えない立派な露天風呂があった。

 飛び石を渡って湯舟に向かう。

 この周りだけが開けた場所にあるのか、宿を覆うように生えていた木々は無く、空には満天の星が煌めいていた。

 備え付けられている洗い場で体を洗い、ゆっくりと湯舟に浸かる。

 少し熱いくらいだったけど、温泉ならこれくらいでなくちゃと思う。

 ふぅと大きく息を吐く。今日歩いてきた疲れがそこから抜けていくような心地よさを感じた。

 広い湯舟から立ち昇る湯気。それを温泉と同じ高さの目線から見るのが好きだ。自分がその一部になったような気がして、温泉の効能が全身に染み渡る気がする。


 すっかりとリラックスして温泉に浸かっていた俺だったが、一瞬、その湯気の向こうに何かの影を見た気がした。


 浴場内を歩く何か黒い人影を。



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