彼女に何度目かのメールを送った。幾許かの時間が経ち、返事が届く。一通り目を通す。末尾には、脈絡もなく絵文字が付いていた。ショートケーキ。ご丁寧に三つ並んでいる。直前まで、事故死した歌手の話をしていたはずだが。まあ、特に他意はないのだろう。俺は返信をして、スマホをポケットにしまった。

 彼女とのやりとりは、なんとなく続いていた。生産性があるかといえばあるかもしれないし、ないかといえばないかもしれない。それぐらいの中身のない話だけど、意味もなく、理由もなく続いている。はなからそれらを求めているわけではない。だって、俺はなにかを生産しているわけでも意味があって生きているわけでも、理由があって行動しているわけでもないのだから。面識のある人が面識のある俺に指示をして、動かされているだけ。腹が減ったから、なにかを食べて汚いものを生み出しているだけ。疲弊してしまったから明日のために睡眠を取るだけ。俺の生活は、彼女とのメールのやりとりよりも存在意義がない。

 待ち合わせの時間よりもいささか遅れてしまい、俺は息を切らしながら到着した。「慌てなくていいのに」と彼女に言われて、俺は息切れはもうこりごりだとばかりに、思いっきり息を吐き出した。


「これ」


 近くの洋菓子店のショートケーキが入った袋を彼女の前にぶら下げた。中身に気が付くと、「どうしたのこれ?」と、彼女はすこし上擦った声を出した。


「絵文字、送ってたから」


「おお」


「食べませんか」


「いいですよ」


「どうぞ」


「ありがたく頂戴します」


 いつもの公園で彼女と食べていると、一人の子どもが物欲しそうに俺たちを見ていた。指を咥えている。辺りを見渡すが、友人らしき姿も、家族らしき姿も見当たらなくて、時間が有り余る限り俺たちを眺めているつもりのようだった。どうしたもんかと考えていると、「気にしなくていいよ」と彼女は言った。


「あの子にケーキを与える義理はない。正真正銘、それは君のケーキだし、これは君がくれたわたしのケーキ。あの子は、他人のものを奪おうとしているだけ」


 彼女の言葉は、まあそれもそうかと思わせるぐらいには凄みがあって、俺の思考を真っさらにさせた。ケーキを口に運ぶたびに、子どもはどこか幸薄そうな顔をして、目に涙を溜め始めた。


「あの子は、可哀想だと見せつけているだけ。剥き出しにしているの。隠し方を知らないから、誰にだって呈示している」


「そうかもしれない」


「そうなんだよ」


「じゃあさ」


 彼女はどこか、嗜虐的な本性を持っているのかもしれないと思ったし、違うとも、思った。漠然と思ってしまったからには、少なからず、持ち合わせている気がした。

 俺は袋のなかに潜んでいたもう一つのケーキを手に取った。チョコレイト。


「これは、あの子の?」


 と、彼女に問うた。彼女はちらりと俺を見た。その一瞬の、目配せのような視線で、奥深くの内面を掬い取られて、それを量られているような気がした。


「それは、わたしが決めることじゃないよ」


 と、物憂げな笑みを彼女は見せた。俺は、チョコレイトのケーキを手に持った。それを渡した。


「お前にやる」


 子どもにではなく、彼女に。彼女は目を丸くしていた。初めてみた、表情だった。


「それをどうするかはお前が決めていい。食べてもいいし、あの子に渡してもいい。食べきれないなら、捨ててもいい。持ち帰って、冷蔵庫にしまってもいいし、そのまま腐らせたっていい」


 俺は言い終えると、イチゴを齧った。酸味も甘味も、感じられない。


「わたしね、ほんとはさ」


 俺は、彼女がいくらか明るい顔になっているように思えた。多分、気のせいだろう。


「なに」


「チョコレートケーキの方が、好きなんだ」


「……そっか」


 彼女は口いっぱいに含んだあと、「美味しい」と顔をほころばせた。子どもはとうとう泣き始めてしまったが、俺はもう気にしなかった。


「一口いる?」


「俺はいい」


「そう」


 どこからか叱りつける声が聞こえた。先ほどの子どもの、母親らしき人。泣き喚く子どもを抱えて、奥へ奥へと帰っていった。「さよなら」と声が聞こえた。





「こんにちは」

 

 と祖父に言った。


「こんにちは」


「折り紙折ってるの?」


 祖父は手のひらに完成したであろうものを乗せた。


「上手に折れたんだ」


「そうなんだ」


「かざぐるま」


 風車。


「へえ」


「折り紙は楽しいな」


「そうだね」


「孫が昔好きでね」


「そっか」


 祖父がいる空間は、静謐な雰囲気を纏っている。虚な表情をしていて、抜け殻のようになってしまって、まるで、これから死ににいくのかと思わせるぐらいに、穏やかで。安易に、踏み込んではいけないと、思ってしまう。


「折り紙以外にはすることあるの?」


「ん?」


「えと、他にはなにをしてるの?」


「テレビばかり見てるな」


「へえ」


「だけど、面白い番組がないから、あんまり見ない」


「暇になるね」


「昔に比べたら、暇も大して苦しくない」


「そうなの?」


「なんせ、こーんな小さいときから働いてたからな」


「へえ、すごいね」


「あのころは辛かった」


「ふうん。じゃあ、いまは幸せ?」


「誰も見舞いに来ないからなあ」


「ひどいね」


 俺は携帯電話を取り出した。


「それはなんだ」


「携帯電話って言ってね、写真を撮れるんだ」


「一緒に写真撮ろう」と俺は言った。インカメラにして、俺と祖父が携帯電話のなかに収まるように画角を調整したあと、シャッターを切った。終始、祖父は呆けた顔をしていた。俺は祖父との写真を、スマホの待ち受けにした。





「最近さ、味がするようになってきたんだ」


「あじって、甘味とか、酸味とかのこと?」


「そう。ずっと、なにもわからなかったのに、急に戻ってきたんだ」


「おめでたいね」


「ああ。何年も戻らなかったから、驚いた」


「どうして、味がわからなくなったの?」


「……なんでだろう。きっかけはあるけど、それがどうして味覚障害につながってしまったのかはわからない」


「あまり話したくないこと?」


「いや、そうでもないよ。それに、味覚が甦ったのは、お前のおかげだし」


「わたしのおかげ?」


「そう」


「わたし、なにもしてないけど」


「たぶん、なにもしてないことが俺にとっては良かったんだ」


「ふうん。なんか変わってるね」


「否定はしない」





 曇天が辺りを包み込み、いくらか暗くなった景色のなか、俺はいつものように祖父の見舞いへと向かった。自転車を漕いでいると、ぱらぱらと小雨が降ってきて、ペダルを漕ぐ速度をいくらか速める。祖父の見舞いに行くものは、いつの間にか俺だけになっていた。「誰も見舞いに来ないからなあ」との祖父の発言は、認知症によって引き出されたものだと思っていたが、いまの現状を思うと、祖父が言っていたことは間違ってはいないみたいだった。

 別に、見舞いに行かないものたちを非難するつもりはかけらもない。性格が変わり、物忘れが酷くなり、入院していることの方が多くなった祖父のもとへ訪れたいかと言われれば、首を縦に振ることはあまりないだろう。それは、責め立てる材料にはならない。けれど、母に「惰性で続けるのはもうやめな」と、暗に、見舞いにいっている自分に自惚れるなと警告をされたときは、煮えたぎるようななにかが身体のなかを支配した。でも、噴出することはなかった。無駄なことだと分かっていたから。

 祖父は、いまでも俺のことを求めているのだろうか。忘れてしまったいま、会いにいく必要はあるのだろうか。考えているものが頭のなかをぐるぐる馳せ回るたびに、体の力が抜けていく。

 病室に踏み入れると、祖父はいつものように折り紙を折っていた。拙い出来のものが置いてあり、俺はなにを作っていたのかわからなくて、問いかける。雪の結晶、とのことだった。少しして、祖父は苦しみを訴えた。呻き声をあげて、俺は慌ててナースコールを押した。

 看護師は、祖父の鼻をつまみ、首を左右に揺らした。苦しみを和らげるどころか、まるで、安らぎを妨げているみたいだった。どう考えても、荒療治にしか見えなかった。俺は愕然としながらも、「ほんとに大丈夫なんですか」と叫ぶように声を出した。「落ち着いてください、大丈夫です」と言われても、何がどう大丈夫なのか具体的に教えてくれなくては安心も出来なくて、でも、それを止める勇気も、止めたところでどうすればいいかもわかるわけなくて、ただ、その場に立ち尽くしていた。俺が持っている砂時計の砂が下に落ちきるころには、祖父は安らかに眠っていた。俺は、それを喜んでいいのか、わからなかった。

 翌日、まどろみのなかで、訃報の連絡が届いた。空は明け方をしらせていた。祖父が、死んだ。





 "あめゆじゅとてちてけんじゃ"。彼女はその言葉を残して、死んだ。

 どうやら、アスファルトの地面に打ち付けられて二度と目覚めなかったらしい、と報せが来たのは、彼女が死を迎えて五日後のことだった。メールが届き、開いてみると彼女からで、でも、彼女ではなかった。彼女の姉だと、自称していた。

 生きたいとも死にたいとも思わなかった彼女だったが、気が変わってしまったのだろうか。彼女はポップコーンのようにはじけてしまった。彼女の姉は、事件性はないと語っていたが、本当にそうなのだろうか。彼女は、本当に死にたくて死んだのだろうか。死にたいから、宙を舞ってしまったのだろうか。死に急いで、終着点へと着陸してしまったのだろうか。もうわからない。なにも、わからない。真意を知る術は、もう残っていない。きっと。

 彼女の姉は、意地悪く執拗に、彼女に対する恨み辛みをひたすら述べていた。その恨み辛みのすべてが俺のもとへと届いていた。彼女が、全てを器用にこなせる優等生なこと。なのに、欲がなさそうな雰囲気が鼻につくこと。母や父に可愛がられていたこと。自分は除け者扱いされていたこと。彼女がひたすらに憎かったこと。ただ、死んでほしかったこと。

 なぜ、俺宛にそのメールを送るのか、理解に苦しんだ。もう、読みたくないと思った。懊悩したが、いつの間にか読み終わっていた。

 "私を一生明るくする為に死んでくれたのかな"と、文末にはそう綴られていた。

 あめゆきとってきてください、と彼女は言っていた。彼女は、俺にそれを求めたのだろうか。あの言葉は、俺に対しての言葉じゃなかったのだろうか。彼女は、俺のことを滑稽だと嘲笑っていただけではないのだろうか。もう、わからない。ただ、俺のなかに残されたのは、"あめゆじゅとてちてけんじゃ"という、遺言のような、呪いのような言葉だけだった。





 通夜が始まるまえ、棺のなかの遺体を俺はいつまでも眺めていた。葬儀場にはまだ両親と俺しか到着していなくて、手持ち無沙汰だった。

 遺影は、潑刺としていたときのころの写真が選ばれた。祖父のイメージに相応しい、満面の笑み。俺もその写真が良いんじゃないと後押ししたが、しなくたって、初めから決まっていたみたいだった。

 遺影にする写真の候補はまだ俺の手元には残っていたが、それを見せるのは憚られて、検討することもなく葬った。祖父が槁木死灰となってしまってから撮影したものだったからだ。却下されてしまうのは目に見えていたことだし、俺もそれを遺影にするには相応しくないと判断したが、でも、本当にそれでいいのだろうかという気持ちがあったのもまた事実だった。どこか、亡くなる前の祖父を否定しているような気がして、いたたまれない。

 葬儀場から叙情的な曲が流れ始める。涙を誘わせるような、ありきたりな音楽。一体、何の為にこの音楽は流れているのだろう。お涙頂戴でもするつもりなのか。別れを一層劇的にさせるつもりなのか。哀しげな雰囲気を作ったつもりなのか。何の為に。なんのために? 勝手に感動を作ってんじゃねえよ。余計なことしてんじゃねえよ。挽歌の代わりにでもなったつもりかよ。無性に腹が立った。頭に血が上れば上るほど、それに比例して、涙が止まらなかった。音楽に泣かされたんじゃない。勝手に涙が流れてくる自分に苛立って泣いているだけだ。祖父のことじゃなくて、音楽のことを考えている自分に苛立って泣いているだけだ。俺は、音楽に泣かされてなんかいない。だから、頼むから、誰かこの音楽を止めてくれ。とめてくれよ。



 


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」


 俺は初めてその言葉を口に出した。そのとき抱いた感覚は、きっと誰かに伝わりやしないだろう。どれだけ言葉を並び立てたとしても、苦笑いで済まされるぐらいの、感覚。手のひらから何かがこぼれ落ちてしまうような、すり抜けてしまうような何か。

 深い理由もなくそれを最後の言葉にした。俺は彼女がくれたその言葉を引き継ぎ、終止符を打つ。遠くを見やると、水平線。なるべく、苦しまないようにと思いながらも、俺は海の一部へと溶け込みはじめた。





 母に、祖父の死の前日に起きた出来事を事細かに説明した。俺は看護師たちの行動を激しく非難した。このやりきれない気持ちを、母も共感してくれると信じていた。実際は、「看護師のすることなんだから、間違ってるわけないでしょ」と、彼女たちを全肯定するような言葉を口にして、俺を怒鳴りつけた。ああ、そうなのかもな。看護師のしたことは正しいんだなって、そう認識させられた。俺はテーブルの上のドーナツを手に取り、食べた。すぐに違和感を感じた。甘さがまったく感じられなかったから。俺はドーナツがただの固形物にしか見えなくなって、困惑した。





「どうしてあの子は亡くなってしまったの」


「いつまで泣いてるの、お母さん。私がいるでしょ」


「……うん、そうだね。私にはもうお前しか残っていないよ」


「ほら、気分転換にさ、テレビでも見よ。見てここ、うちの近くの海。溺死体が発見されたらしいよ」


「可哀想に。その人も自殺してしまったの?」


「調査中だって」





 テレビのなかのニュースから、海の景色が映し出された。画面の向こうでは、薄赤く、いっそう陰惨な雲から、みぞれがびちょびちょ降っていた。

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かわたれどき あき @rto_2580

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