かわたれどき

あき



「あめゆじゅとてちてけんじゃ」


 公園のベンチに座りながら、彼女はそう口ずさんだ。「なんだそれ」と尋ねると、「岩手県花巻市の方言だよ」と答えが返ってくる。「どこだよ」と適当に笑っとく。「はは」と乾いた笑いが聞こえた。どこか聞き覚えのある特徴的な一文だが、然りとて、特段興味が湧くこともないし、知りたいとも思わない。「聞き触りの良い言葉だな」と空世辞を言う。


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」


「気に入ってるのか」と聞くと、彼女は軽く頷いた。「健気だと思わない?」と問われる。正直、健気だとか知る由もないと思ったが、なんとなく無識な自分を晒したくなくて、肯定も否定もせず、ただ彼女を見つめた。「どこか、哀愁漂うんだよね」と彼女は遠くを見つめる。公園のなか。見つめたその先には、戯れている子供たちの姿があった。遊具を使い、遊び散らかす。ここからでもはしゃぎ声が聞こえる。「無邪気に笑えるあの子たちが羨ましい」と彼女は言った。秋風が彼女の髪を靡かせる。羨ましい。そうなのだろうか。俺にとっては、何も考えず、無邪気に無闇に走り続けるあいつらが、青臭くて幼稚にしか見えない。それのなにが羨ましいのだろう。


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」


 彼女は子どものように同じ言葉を繰り返す。無知で無垢な子どもたちは、馴染みのない言葉たちに目を輝かせ、知見を得たあと気に入った単語を反復する。規則正しく揺れるブランコのように。それに対して、子どもみたいな彼女は、まるで反芻するかのようにその言葉を繰り返す。暗く濁りきった目をしながら。生気を感じられないその姿が俺の心から蝕むように離れやしないが、それが愛慕によるものからなのか、活力のなさが印象に残るからなのかは判別が付かない。確かに言えるのは、俺は彼女が嫌いではないということだ。

「秋にまつわる言葉なのか」と聞いた。「さあ、どうだろうね」と、素っ気ない返事。彼女は屈むように身体を丸める。どこからか取り出したチュッパチャップスを口に含ませる。左手からもう一つ差し出されたため、意味もなく受け取った。包み紙の開けづらさが昔のことを思い出させる。祖父によく開けてもらっていた。この歳にもなってバカみたいに舐め回す。甘さが身体中を刺激する。こんな甘かったっけ、と思った。

「あめゆきとってきてください」と彼女は言った。少しばかり逡巡する。冬かよ、と思った。「秋が終わればな」と、至極真っ当な返事をしたつもりだったが、彼女は黄昏るみたいに押し黙った。俺は驚いた。彼女が、あまりに悲しみに滲ませた表情をしていたからだ。まるで、人の死を悼むように。どうしたもんかと考える。視線を前に向けると、子どもたちは砂の山を築き上げていた。ミニサイズのバケツやショベルがどこか懐かしかった。人一倍騒ぎ立てている子どもがいたが、黙々と作業をする子どもたちに構われず、つまらなそうに口を尖らせた。純粋な狂気を持った子どもほど恐ろしいものはない。砂の山を残酷にも蹴り飛ばしてしまった。砂を被り、泣き喚く女の子。それに倣うように声を張り上げる子どもたち。陰惨な光景。


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」


 産声のような、合唱のような泣き声に微動だにせず、彼女は詠い、言葉を繰り返す。俺はそれを聞いている。声は秋風を通して空へと舞っていった。落ち葉が少しずつ地面に散らばりはじめる季節。チュッパチャップスの根幹をなすキャンディの部分が姿を消し、存在価値がなくなった棒を投げ捨てた。誰にも咎められることはなかった。彼女は「おおー」と声を上げていた。


 "あめゆじゅとてちてけんじゃ"


彼女は、どうしてそこまで、この言葉に惹かれているのだろう。縛られているのだろう。吊るされているのだろう。俺まで烙印されてしまったかのように、頭のなかにその言葉の痕が刻み込まれていることを自覚する。なにもかもわからないまま。





 時期はずれを告げる寒風が、海へ足を運んだことを後悔させる。波が押し寄せて、靴がずぶ濡れになる。冷たさが増した冬の海。あーしたてんきになーれ、と呟きながら、靴を飛ばした。ダイビングをするように空中を回り落下する。二つとも、横を向いた。さざ波に揺られている。明日の天気は曇りとなってしまったが、いまだって曇り空が続いているくせに、と八つ当たりのような感情を抱く。ため息をついた。白息が空中へ霧散する。

 人っ子一人いないなかで、地平線を眺めた。それだけでしがらみから解放されたらよかったのだけれど、やっぱり許してはくれないみたいだった。辺り一面が灰色景色で、そのずっと向こうにもおそろしいみだれたそらが続いている。でも、もういい。そんなの知ったことか。いずれすべて終わることだ。もうどうでもいいことなんだ。そう思うことにする。

 だけど、どうしてあの"言葉"が、声が鳴り止まないんだろう。あの日のことを思い浮かべる。俺は結局、死ぬまであの言葉を忘れることはできなかった。俺という藁人形に"言葉"という釘が刺されてしまって、忘れることが許されない。"言葉"という名の"遺言"。"遺言"という名の呪言"。いっそ頭でも打って忘却してしまえばよかったのかもしれない。それか、スケープゴートでも作ればよかったのかもしれない。どちらにしてももう遅いし、どちらにしたって"言葉"の残滓は潜み続けるだろう。海のなかに微量の毒を垂らしたとして、掻き消されてしまうが、垂らしたという"事実"はいつまでも海とともにある。そんな風に。





 梅雨の終わりに差し掛かるころ。その日は、体調不良だと適当に誤魔化して仕事を早退した。コンビニで缶コーヒーと鮭のおにぎりを手に取り、レジで会計をしてもらう。時刻は正午を迎えてから少しだけ経過したぐらいで、そんな昼中にスーツ姿で三百円にも満たない昼食を買って、あとは寂れたアパートへ帰路につくだけの自分が酷く惨めに感じる。

 眠るだけの場所へ帰る気にもなれなくて、俺はローファーのように辺りを彷徨いた。すれ違う人々のなかには俺を訝しむものもいたが、別に犯罪をしでかしたわけではないので気にしないことにした。そうじゃなきゃ、耐えられなかった。

 ふと、住宅街に囲まれた公園がひっそりと姿を現した。ジャングルジムやブランコ、シーソーに鉄棒。すべり台にアスレチック遊具。いたって変わり映えのない、どこにでもあるような公園だった。子どもたちもおらず閑散としていて、ベビーカーに赤ん坊を乗せた母親らしき人が散歩しているだけだった。ここを終着点として俺はベンチに座った。足の周りを一匹のアリが歩いていることに気が付く。踏み潰そうかとも思ったが、働きアリであろうお前はどちらにせよ、俺より先に力尽きるだろう。俺はレジ袋からおにぎりを取り出した。


「こんにちは」


 背後から声が聞こえた。誰に話しかけているのだろうか。まさか、俺なはずはないだろう、と思ったけど。


「こんにちはー」


 間延びした話し方が気になって、後ろを振り返る。トートバッグを手に提げた女がいて、その目は、間違いなく俺を見ていた。俺は睨みたい気持ちを抑えた。


「どうも」


 と頭を下げた。ただの会釈かと思っていたが、彼女は俺に近付き、断りも入れずに隣に腰掛け、絶えず喋り始めた。世間話のようななにかが始まった。淡々と話す彼女の声がいまは不愉快で、聞く耳すら持たなかった。あーだとかうーだとか相槌とも言えないような俺の声に、彼女は俺を責めることも狼狽えることもなかった。ただただ、煩わしかった。


「ねえ」


 不意に、彼女は砕けた口調になった。はっきりと、項垂れている俺にも聞こえて、動揺して彼女の方へと振り返ってしまった。高校生ぐらいに見える彼女は、とても生きているとは思えない顔をしていた。俺は、いつの間にか彼女に釘付けになっていた。


「なに」


「君、今にも死にそうな顔してるよ」


 彼女は、俺の彼女に対する印象と似たようなことを俺に対して伝えた。特段心配したような感じでもないみたいだった。


「お前も、生きているとは思えない」


「……うん、そうだね。そういう意味では、わたしは君とおなじ」


 不敵に笑みを浮かべた彼女は、やはり生のある人間だとは思えなかった。わたしは君とおなじ、と彼女は言った。そうかもしれないと思った。そう思うことで、自分に酔える気がした。


「よろしくね」


 これが、彼女との出会いだった。ストローハットが似合う、夏の日だった。





 祖父は喜寿を祝われたとは思えないぐらいに若々しく、矍鑠としていて、いつも高らかに笑っていた。祖父の家へ遊びに行くたびにくしゃくしゃに頭を撫でられたあと、たくさんのお菓子を俺にくれた。夏はいつも、みぞれのいちご味をおやつに出してくれた。今日もスプーンと一緒に持ってきてくれた。俺が小学生のころ、大好きだったアイス。暇さえあれば、いつも親にねだっていた。祖父はそれを知ると、冷蔵庫に溢れかえるぐらいのみぞれを用意してくれた。俺はそんな祖父が大好きだった。だから、中学生になったいま、いちご全般が嫌いだなんて、食べたくないだなんて、俺を想ってくれてる祖父の顔を浮かべると、とても言えなかった。ありがとうって作り笑いを浮かべると、祖父も満足したように歯を見せて笑った。俺は罪悪感を隠すのに必死だった。

 祖父の家で宿題を片付けていると、祖父は「手伝ってやる」と言い、大量のプリントから一枚を手に取った。ひとしきり中身を見渡したあと、「なんもわからねえ」と困ったように笑った。俺も釣られるように笑った。祖父は、学校に通うことを許されなくて、片手で数えられる年齢のときから畑仕事を手伝っていたんだと、自慢げに話した。「辛くなかったの?」と聞くと、祖父は「いいや」と首を振った。それから、「お前が生まれてから、辛かった日々なんて忘れたよ」と言った。「じゃあ辛かったんじゃん」と指摘をしながら、俺は何故だか泣きそうになった。俺自身はなにも辛くなんてないのに涙が溢れそうで、仕方なく、力強く目をごしごしぬぐった。祖父は、優しく頭を撫でてくれた。風鈴の音が優しく辺りを吹き抜けるように飛んでいく。溶けきって、液体となってしまったアイス。一向に片付かない宿題。いつも通りの、なんでもない一日。





 俺は呼び寄せられるようにあの公園へと足を運んだ。彼女は、あのときと同じベンチに座っていた。偶然を装いながら、彼女へと近付いた。俺に気付いた彼女は、「まっていたよ」と手招きをして、俺は彼女の隣に腰掛けた。それから、お互いの話をした。

 

「こんな真っ昼間に学校サボってていいのか」


 と聞くと、「わたし、社会人だよ」と答えられた。見た目にそぐわず、彼女は既に働いていたらしい。俺が驚いていると、彼女は「新社会人ですから」と口を尖らせた。ほんとに、尖らせただけだった。「なおさらサボっちゃまずいのでは」と聞くと、「たしかに」と他人事のように答えた。俺も同類なのであまり強くはいえないが、そもそも、強く言い切る必要も理由もどこにだってない。

 彼女は、生きたいとも死にたいとも思わないと俺に言った。こういう子は死にたがっているのだと思っていたが、希死念慮を持っているようにも見えないし、自殺願望もないみたいだった。かと言って、生への執着やバイタリティがあるようにも見えない。だけど、決してただ自己陶酔しているわけではない。彼女と話せばそれらが自明的だったことがわかる。だからなのか、なににだって執着を見せることなく、悠然とした彼女と共にいるのは居心地がよかった。

 次に彼女と出会ったとき、連絡先を交換した。未だにガラケーを使っている。何故なのかを問うと、彼女曰く、「連絡できればなんでもいい」とのことだった。そういうもんかね、と思ったが、俺もそれ以外の用途でスマホを使用したことなんて、メモ帳代わりと、ソーシャルゲームのログインボーナスを受け取る以外にはなかった。スマホを手に取る。ロック画面には同僚との飲み会の写真。片手にビールを持って、もう片方の手で同僚と肩を組んでいる。強制的にこの写真を待ち受けにされてしまった。かといって元に戻す理由もないから、なんとなくそのままにしている。

 あれ。前は、なんの写真をロック画面に設定していたのだろう。こんな簡単なこと、忘れるはずないのだが。ピントがずれてボケてしまったみたいに不明瞭になる。不良品のカメラのように。一体俺は、なににしていたのだろうか? 





 祖父はそれから程なくして肺炎になり、入院した。兆候は見られなかった。いま思えば、隠していたのかもしれない。見舞いに向かうと気丈に振舞う祖父の姿があった。咳の数や呼吸の仕方に一抹の不安を覚えたし、祖父の大丈夫の一点張りはあまり快く思わなかったが、一週間程度で治るという医者の言葉に俺は安堵した。実際、二週間後には既に退院していて、病み上がりの体でさっそくお猪口に注いだ日本酒を嗜んでいた。「飲まないほうがいいよ」と俺は止めたが、祖父は大丈夫の一点張りだった。「大丈夫じゃない」と、俺は静かに戒める。


「死んでほしくないんだ」


 それ以来、祖父はお酒を飲むことはさっぱりとなくなったし、健康のためにウォーキングを始めた。俺は時たま、それに付き合った。早朝、祖父とともに歩きながら、こんな日がいつまで続くんだろうと思った。ここ数年、俺が見掛けた人も物もどこも顕著な違いは見られなくて、未来永劫続くとさえ感じる。空の青さとか、海の青さのように、いつまで経っても変わりようのない、退屈だけど美しい箱庭のような生活。昆虫の軋むような鳴き声が聞こえて、夏の暑さも変わんねえなと思った。

 俺が高校生になるとともに祖父は肺炎を再発した。それからは、学校のチャイムのように鳴っては鳴り止むことを繰り返し、体が衰弱していって、終いには認知症になった。段々と、物静かな人に変わっていった。初めからそうだったみたいに。

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