第9話
何度か
押し間違いを考え、もう一度ボタンを初めから押し直し、レバーを操作する。
が、やはり動かない。
もちろん電池切れなんて間抜けなミスはしていない。今日のために新品の乾電池に交換してあると会長が断言している。
「……ひょっとしたら、コードが転回形なのかも……」
重苦しい沈黙の中、ふと会長が呟いた。
リリも私も聞き覚えのない言葉に首を傾げる。
「何ですか、それ」
「
「はい。おおよそは」
「ギターで、例えば開放弦を含む形の『C』コードを弾くと、一弦から六弦まで『C』コードを構成する『ド』『ミ』『ソ』が鳴るように弦を指で押さえますね。正確に言うなら、
これは音楽の授業で聞いた内容だ。リリも知って……いや、知らないんだっけか。これで覚えてくれたらいいな。
「それがピアノになると、基本的には低いほうから『ド』『ミ』『ソ』の三つだけになります。そのとき、運指の関係で『ド』『ミ』『ソ』と弾きづらくなる、あるいは曲調によって『ミ』『ソ』『ド』と弾くこともあるんです。『ド』のオクターブが変わるので和音の印象も変わりますが、構成される音は同じなので、これも『C』コードになります」
「つまり、例えば『
「そうです。そういうオクターブ違いの同音に入れ替えたものを『転回形』といいます」
リリの例にうなずく会長。
というか、苦手と言うわりにリリの理解早いな⁉
まあ、頭の良い子だから驚くほどでもないのかもしれないけど。
ともかく、そういうものがあるということはわかった。
「つまり会長は、二番目の『
「あくまで推測ですが……」
「私はその可能性はあると思いますよ」
「そうかな。転回形は関係ないと僕は思うけど」
うなずく私とは逆に否定するリリに言われつつ、試すだけならと会長は転回形に書き直した解読文で再び箱の解錠に取り掛かった。
……が。
「ダメです。開きません」
ゆるゆると頭を振り、会長は肩を落とした。リリが言った通りだ。
「リリ、なんで関係ないって思ったの?」
「暗号文では『基本通りにちゃんと演奏してくれ』とあっただろう。つまり
「そっか……」
それを見落としていた。解読のヒントが暗号文にきちんと含まれていることを忘れてはいけないと反省する。
しかし、転回形も違うとなると、導き出した十五個の数字自体が間違っているということになるが……まだ何か見落としがあるというのか。
何か――
「暗号文をもっとよく読んだほうがいいかもしれないね」
リリに言われて、改めて暗号文を読み返す。
『米兵より通信――
俺が翻訳してやるから、基本通りにちゃんと演奏してくれ。
それと、奴はカノンじゃなくアラベスクが一番だと思ってる。
そこに気をつけないと奴は心を開かないぞ』
酷い音楽、というのは多分、数字列を
……で、カノンとかアラベスクってなんだっけ? ゲームとか唐草模様じゃなくて音楽作品を指してるということはわかるんだけど、これも暗号に関係あるのか……って、ひょっとして⁉
「そういうことか!」
思わず漏れた声に、同じく暗号文を見つめていたリリが驚いてこちらを向いた。
「ミコ、何か思いついたのかい?」
「うん、合ってるかどうかはわかんないけど……」
余白のある紙とペンを手に取り、指折り数えて数字を書き連ねる。リリほど速く換算できないので数分かかってなんとか十五個の数字を書き上げ、それを会長に手渡した。
「今度はそれで試してみてください。きっと開きますよ」
「え、ええ……」
無駄に自信たっぷりな私の態度を不審に思いつつ、会長は言われるままにボタンを押して、ためらいも遠慮もなくダメもとと言いたげな顔でレバーを引いて――
かちゃり。
と箱の蓋を開けた。
いやにあっさりと開いてしまった箱を前に言葉を失って硬直する会長。
その横顔を覗き込んだとき、箱の中に白い封筒が一通入っているのがチラリと見えた。
……いや、私たちは部外者だから、封筒の内容はもちろん、箱の中身も見るべきではないだろう。少なくとも会長の許可を得ずにしていいことじゃない気がする。
そう思って、箱から離れた。
「やったね、ミコ。お手柄だ」
「うん。でも、リリが暗号を読み直せって言わなきゃ気づけなかったよ」
「期せずして、僕はミコの役に立ったということかな」
「そりゃもう、リーチ一発で裏ドラ二つ乗ったようなもんだよ」
「……その例えは違うと思うけど……それならいつものをおねだりしてもいいよね?」
言って、何かを期待するように目尻を下げて微笑んだ。
ひょっとして……リリは私より早く間違いに気づいていて、わざと黙っていたんじゃないだろうか。ヒントをちらつかせて、私に解かせるために。解かせて、おねだりするために。
まったく、この子は……
「…………」
手紙らしきものを取り出して読み始めた会長をチラリと見て、その視界の外でリリをぎゅっと抱き締めてから頭を撫でてやり、可愛らしく閉じた桜色の小さな唇に私のそれを重ねてやった。
リリの口から「ん……」と小さく甘い吐息が漏れて肝を冷やしたが、会長には聞こえていないようで、相変わらず手紙に目を向けたまま身動き一つしなかった。
このままキスを続けて、いつ会長が気づくかの限界チャレンジに挑んでみたい――そんな気持ちを静め、リリから離れて息をつく。
それから、じっと会長が手紙を読み終えるのを待った。
……が、五分経っても十分経っても会長は動かない。さすがに不審に思って声をかける。
「会長? 万能倉会長?」
「え……あっ、すみません」
私の呼びかけでようやく我に返った会長は、慌てて振り向いて頭を下げた。
「ごめんなさい。あっさり開けてしまったことといい、この手紙といい、ちょっと驚くことが多すぎて呆然としていました」
無理に笑ったような表情を作り、頬に手を当てて少し首を傾げる。
手紙の内容が呆然自失になるほどショックを受けるようなものだったのだろうか。
なんとなく心配になって、じっと会長を見つめる。
「ええと、暗号解読の報酬ですね。約束通り、無料券はお渡しします」
私の視線がそれだと勘違いされたらしく、会長はいそいそとデスクの引き出しから無料券の束を取り出した。特に落ち込んでいるとか無理をしているとかいった様子は見られない。本当にただ驚いていただけという感じだ。
私の気のせいだったかと思い直し、それを受け取る。「お確かめください」との言葉を受けて枚数を数えて――
「……二枚多いみたいですが」
不審に思ったことで声のトーンが下がって、威圧するようになってしまった。
会長はそれに苦笑し、
「もう少しだけ私に付き合っていただければ、それを差し上げます」
含みを持たせるような口調でそう言った。
まだ何かさせるつもりなのか――と身構えたが、リリが私の袖を引いてうなずいたので警戒を解く。何やら話したいことがありそうな気配を感じ取ったのだろう。
警戒したのは単純な理由。
すでに当初の目的――無料券の入手――は果たされていて、リリにこれ以上働かせるのが嫌だったからだ。
そのリリがいいと言うなら、私が拒否する理由もない。
「わかりました。では、もう少しだけ」
正直なところ、手紙の内容に興味があったし、できればそれを見てみたいと思っていた。
話の持って行きかたによってはそれが叶うかもしれない。
そんな下心を知ってか知らずか。
「ありがとうございます」
会長はほっとしたように表情を緩めた。
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