第28話 終幕
雪月花の店内はいつもと違っていた。客が食事をするために用意されている長机と床几は見当たらず、今日は赤い絨毯が畳の上に敷かれている。一人分の量で様々な料理が乗せられた小鉢や皿が折敷の上に置いてあった。器の美しさやこだわり抜かれた料理が美味しそうで、見ている者の胃を刺激する。
店内にいるのは暁闇や八重霞、白露と今日は人の姿をしている紫電、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている村雨。そして、主役の二人が招待客と対面になるよう中央に座っていた。
小夜はいつもの地味な着物ではなく、鶴の羽のように真っ白な白無垢を着て、頭には綿帽子をかぶっていた。八重霞に仕上げてもらった化粧は、小夜の美しさを底から引き立たせており、唇にひかれた赤い紅は白無垢と対照的でお互いの存在を強調している。
(まさかの紅鳶のお姫様から花嫁衣裳を贈っていただけるなんて……)
自分でも高価な衣装に袖を通しているのがまだ信じられない。
八重霞から小夜が結婚することを聞いた紅鳶の姫君が、町を辻斬りから救ってくれたお礼をしたいと花嫁衣裳一式を贈ってくれると聞いたときは卒倒しそうになったものだ。庶民の自分が雲の上の身分の方から礼をしてもらえる日が来るなんて、誰が想像出来ただろう。
姫君のおかげで、こじんまりとしているが立派な婚礼の儀をあげられているのだ。
そして、姫君は小夜だけでなく淡雪の衣装も見繕ってくれたのだ。彼が着ている紋付羽織袴は見ただけでも質の良い素材で作られていることが分かる。手で触ってみると、とても滑らかで着ている感覚がないほど肌に馴染むのだと淡雪は話していた。
鴉のような黒が淡雪の髪色を美しく際立たせている。まるで夜空に浮かぶ月のようだと小夜は思った。
小夜はちらりと横に居る淡雪に視線を向ける。綿帽子で視界が狭かったが、緊張しながら村雨と盃を交わしている姿は目にすることが出来た。
赤い盃に入った透明の酒は、雪月花が贔屓にしている酒屋から贈られたものである。
村雨は淡雪から盃を受け取ると、泣きじゃくりながら酒を飲む。しかし、うまく飲み込むことが出来ず、ぐふっとみっともない声をあげて口から噴き出してしまう。客席から押し殺した笑い声が聞こえてきたが、やがて我慢が出来ずに大きな笑い声があがった。
(もう、お父ちゃんったら!)
淡雪の衣装には酒は飛び散らなかったが、自分の着ている着物が酒で汚れてしまっている父を見て小夜は呆れつつも、笑みを消すことは出来なかった。
次に小夜と淡雪が盃を交わすと、婚礼の儀式は一通り終わる。あとは飲めや踊れやの宴会である。
「淡雪、小夜さんを泣かせるんじゃないぞ!」
「そうよ、泣かせたらあたしの権力で牢にぶちこむからね!」
「職権乱用じゃないですか?」
「白露の旦那の言う通りやで、僕はただの善良な庶民やのに!」
奉行所組はわいわいと淡雪を取り囲んで酒を飲み、騒いでいる。彼らの様子を微笑ましそうに眺めていると、隣に紫電がやって来て座った。
「小夜さん、あの淡雪のこと本当にありがとうございました」
紫電は深々と小夜に向かって頭を下げる。
「そんな頭をあげてください、お義母さん」
小夜が言うと紫電は顔をあげて真っ直ぐ彼女を見つめる。妖の姿の時とは違う、紫色の瞳が淡雪とよく似ていた。
「あなたが淡雪を助けてくれなければ、今頃私達親子はどうなっていたか。本当にありがとうございました」
「わたしがやりたくてやったことですし、助けたのはわたしだけじゃないんですよ。奉行所の暁闇や白露の同心、八重霞の与力もご助力いただいたんです。それは淡雪がみんなから愛されている結果です」
小夜がそう言うと紫電はほっとしたように微笑む。
「あの子があんなに幸せそうに笑える日がきて、本当に良かった」
紫電の言葉は小夜に話し掛けているというより、独り言ちるようだった。小夜は黙って頷き、奉行所の面々に酒を浴びせられる淡雪を微笑みながら見守った。
***
宴会は日が暮れるまで続いた。酔っ払い過ぎて正体をなくした八重霞は、本来の姿であるハマグリに戻って深い眠りに落ちてしまった。暁闇と白露で大きなハマグリの八重霞を担ぎ上げ、奉行所に戻っていったのがつい先ほどの話である。
紫電は宴会の途中でいつの間にか姿を消していた。淡雪曰く、久しぶりに山から下りてきて人と接したのが疲れたのだろうということだった。あんなに嬉しそうな母を見たのはいつぶりだろうか、と呟く淡雪に小夜の心は温かいものが流れるような気がする。
村雨は泣きすぎて疲れてしまい、今は眠っている。家で起きているのは、小夜と淡雪だけである。
「婚礼の儀式を終えたら大きく何かが変わるかなぁと思ったけど、何も変わらんもんやな。正式に僕らが夫婦になったくらいか」
「そうだね、いつもとあんまり変わらないから結婚したっていう実感が湧かないね」
二人の部屋で行燈をつけて小声で話す。いつも寝る前に少し話をするこの時間が小夜は好きだった。
「実感が湧かへんかったら湧くことしたらええ」
囁くような小さな声で淡雪が呟くと、いつの間にか小夜は布団に押し倒されていた。半妖である彼は、人間の小夜には想像できない身体能力を持っているという。今の動きも目に留めることは出来なかった。小夜はされるがままの状態で、淡雪に押さえられている。
「わたしは」
「ん?」
淡雪が小夜を抱き締める。彼の温もりが小夜を包み込んだ。
「いつどんな時も淡雪を愛しているよ」
小夜の腕が淡雪の背中に回される。大きくて広い背中は、小夜の両腕では包みきることは出来ない。足りない部分は愛で埋めるように小夜は言葉を紡ぐ。
春がきて花が咲く時も、夏がきて蝉の声が響く時も。秋がきて葉が色づき、冬がきて世界を雪で覆っても。
「いつも淡雪の傍にいたいと願っているわ。どんな時もあなたを愛するから」
***
人とあやかしが手を取り合い、共に生きる真朱国。長である丹朱元君の統治のもと、人々は平和に暮らしている。首都の朱宮を囲むようにして位置しており、他の町に比べて一際大きい四つの街を“中央四府”と呼ぶ。中央四府には、北の銀朱、南の蘇芳、西の猩々緋に東の紅鳶がある。
紅鳶の街並みを眺めながら歩く一組の親子がいた。飲食店が多く立ち並ぶ椿区画の大通りを手を繋いで仲睦まじく歩いている。大通りに沿うようにして左右に立ち並ぶ食事処から漂う、美味しそうな匂い。肉が焼かれるじゅうじゅうという音や、従業員が大通りを歩く人々に食べて行くよう呼びかける元気な声。
少女は自分が住んでいる村との活気の差に驚きながら歩みを進める。山奥の村に住んでいる少女が紅鳶を訪れる事になったのは、かなり幸運なことだ。母の弟がこの街で岡っ引き――住んでいる村では御用聞きと呼ぶらしい――をしているのだが、奉行所から十手を授けられることになった祝いに駆け付けたのである。
十手の意味は少女には分からなかったが、母に聞くと『とても良いこと』なのだそうである。村の特産品である餅を持って、少女の叔父を訪ねることになったのが経緯なのだ。
「ねぇ、お母さん。暁闇お兄ちゃん、お餅喜んでくれるかな?」
隣に立つ母親に聞くと、彼女はにっこりと叔父にそっくりな笑みを浮かべて言う。
「勿論よ、睦月が一生懸命作ったんですもの。とっても喜ぶわ」
睦月はそうだといいな、と願いと期待を込める。餅を背負うのは重いがどうしても自分で運びたかった。疲れが肩にのしかかるが、睦月にとっては誇らしい気持ちでいられる。
時折、餅を背負い直しながら歩き続けていると、睦月の左手に赤い旗をたてた店が見えてきた。他の店にはたてられていなかったのに。睦月は不思議に思って母に聞いてみることにした。
「どうしてあの店は赤い旗をたてているの?」
すると、睦月の指差す方向を見た母は優しい微笑みを浮かべて答えてくれる。
「あら、
「しょうたんき?」
「あの旗をたてている家に新しい命がくるのよ。つまり赤ちゃんがこれから生まれる家ってことね」
睦月は首を傾げる。
「どうして赤ちゃんが生まれるからって旗をたてるの?」
「旗をたてることで神様と元君にお知らせしているのよ。お知らせして、赤ちゃんが無事に生まれてきますようにとお願いをしているの」
「そうなんだ……無事に生まれるといいね」
「そうね」
睦月は温かい気持ちを抱きながら招丹旗のたっている店の前を通る。看板には墨で“雪月花”と書かれていた。
「雪月花……あぁ、あの子が贔屓にしているお店じゃないの」
母は看板を見るなり驚いた様子で呟く。あの子というのは叔父のことだろう。
「ねぇ、お祈りしていこうよ」
睦月は母の手を引っ張って言う。叔父が贔屓にしている店にもうすぐ赤ちゃんが生まれる。なんだか他人事には思えなくなったのだ。
「えぇ、そうしましょうか」
睦月は母と共に雪月花の店前に立ち、赤い旗に向かって両手を合わせて目を瞑る。そして心の中で唱えるように『無事に生まれてきますように』と祈った。神様は空の上にある宮で暮らしているらしい。旗の赤色はとても鮮やかでよく目立つ。きっと空の宮からもよく見えるだろう、と睦月は思う。
「じゃあ奉行所へ行きましょうか」
「うん」
叔父がいるという奉行所へと足を進め始める。
(今度、私が来るときには元気な赤ちゃんが生まれていると良いな)
睦月はそう思いながら母の手をぎゅっと握って、弾むように歩き始めた。
***
その後、睦月が村に戻って数か月が経った頃のことだった。
「ごめんください、お届け物があるのですが」
「はい」
睦月が母と夕食の下準備をしていた時、玄関の方から翼をはためかせるばさばさという音が聞こえてきた。どうやら郵便配達をしている羽犬がやって来たらしい。母は大根を洗っていた手を止め、玄関の方へ行き羽犬が咥えていた手紙を受け取った。
封をきって暫く中を読んでいたが、ぱぁっと笑みを浮かべて睦月にも手紙を見せてくれる。まだ文字は読めないが、差出人の暁闇の文字だけは分かった。
「叔父さんなんて?」
「私達が前を通ったお店、覚えてる? 招丹旗のたっていた」
睦月は記憶を巡らせた。鮮やかな赤で染め上げられた旗をたてていた店の前で元気な赤ちゃんが生まれますように、と祈った記憶がよみがえる。
「うん、もしかして……」
「雪月花の店主夫妻に元気な赤ちゃんが生まれたんだって」
睦月は顔を綻ばせた。祈りが届いた気がして嬉しかった。店主のことは何にも知らないが、この世に新しい無垢な命が生まれたと思うと睦月まで嬉しいのだ。
「いつかお店に行って赤ちゃん見てみたいね」
「邪魔にならないようにしないとね」
母と二人顔を見合わせて、睦月はくすくすと笑った。
―完―
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます