第26話

 耳元でごうごうと風が吹く音が響く。淡雪は紅鳶の区画門の上に立って、しばらく過ごした街並みを眺めていた。頭では早く去らなければならない、と分かっていても足が一歩を踏み出せないでいた。区画門を過ぎれば紅鳶を去ることになる。どうしてこんなにも離れがたいと感じるのか、彼に答えは出せない。


 猩々緋を出てから様々な町や村を巡ってきた。凍雲組の気配がするとさっさと逃げ出したのに。脳裏に浮かぶのは、いつも明るい笑みを浮かべた愛らしい少女の姿。

(何でお嬢ちゃんを思い出すんやろうな)

 雪月花の用心棒を辞めたのも、小夜や村雨に迷惑を掛けたくなかったからだ。特に無垢な彼女には、裏社会に微塵も関わることなく普通の暮らしをして欲しいと強く願っている。


(僕も“普通”になりたかったんやけどなぁ)

 やくざの子どもはやくざなのだろう。裏社会で生まれ育った者は、表の世界では生きられないさだめなのかもしれないと淡雪は思った。

(枯野の言う通りやったんかも。僕にはどうしてもあいつの血が流れてるから……)

 自らを実験台とした父のことは思い出したくない。国内を放浪するなかで少しずつ傷が癒えてきたと思っても、いつも父が心のどこかでちらついてしまう。


「やくざの生き方しか知らん僕がかたぎになれるわけなかったんやな……」

 悔しいのか、寂しいのか。あるいは空しいのか。心の大部分がぽっかり抜け落ちてしまったかのようだ。なりたい自分になれると思い込んで、後先考えずに飛び出してから四年の月日が経っても、自分の根っこにはやくざの呪いが巣食っている。


「あぁ、僕はお嬢ちゃんの隣におりたかったわ」

 顔を両手で覆い隠して嘆く。

「まだ粘っとるんか」

 願いを告げる淡雪にかけられたのは、ぞっとするような冷たい声だった。声の主に顔を向けると、あの頃と何も変わらない枯野がいる。

 濡れ羽色に艶めく長い髪を後ろで一つに束ねている。組にいた頃、部屋から仕事に出掛ける枯野を見るときいつもこの姿をしていた。不思議に思って聞いたことがある。彼は淡々と、鎌を振るうのに長い髪が邪魔ということと、返り血が髪につくと鬱陶しいからと答えたのだった。


 ならば男なのになぜ髪を伸ばしているのだと問うと枯野は少し考えこみ、淡雪が短い髪をしているからだと言う。理由を聞くと、大嫌いなお前と同じ髪型なんか嫌やろ、なんて言っていたのをよく覚えている。


「僕はやっぱりかたぎになりたいんや。やくざの世界には踏み入れたくない」

「お前がそうでも頭は違う。そして、オレは頭に従う。どこまでも、な」

 枯野は背負っていた鎌を手に取る。ぴりっと空気が張り詰める。

 淡雪はかけていた眼鏡を取り、妖力を集中させた。太鼓を叩くような、腹の底から響く音が頭上で鳴ると、目を開けていられないほどのまばゆい光が落ちる。

 激しい音が耳をつんざく。先ほどまで枯野が立っていたあたりに落雷が直撃し、木で出来た区画門の上部が焦げている。


 枯野はやすやすと淡雪の雷を見切ると、素早い動きで鎌を投げた。弧を描きながら淡雪のもとへ襲いかかろうと、刃を光らせ回る鎌は軌道が読みにくく避けにくい。自身の首に吸い込まれるようにして、軌道修正をする鎌を背中を反らせてなんとか避ける。枯野の相手が久しいというだけでなく、彼自身が成長していることもあり、淡雪は苦戦を強いられるような気がした。現に防御で手一杯になり、攻撃に転ずることが出来ないのだ。枯野は攻撃の機会を与えてはくれない。流れをなんとか変えなければ、体力を消耗させられ数で勝る凍雲組に淡雪は捕らえられてしまうだろう。


(どうしたらええ、なにか方法は……?)

 枯野の攻撃を防ぎながら淡雪は相手をよく観察する。彼の細く長い腕がめいっぱい鎌を振りかざす。弧を描いて彼の手に戻るまで数秒間だけ武器が手元にない状態になる。淡雪は鎌が戻ってくるまでの一瞬の隙を突き、枯野の懐に入った。


 遠距離型の武器を使う者は近接戦に弱いことが多い。枯野もそうだった。体格に恵まれなかったのだ。男にしては華奢なせいで単純な力勝負だけでは負けてしまう。だから鎌鼬である彼は、うまく風を読む力を生かして鎌という武器を選んだ。


 一方で半妖である淡雪は、力に秀でた父の血を受け継いでいることもあり近接戦にも強い。枯野の間合いに入れば形勢は逆転する可能性がある。

 淡雪は拳を握り締め、右手に全身の力をこめて枯野のみぞおちを狙う。

 しかし、淡雪の拳が入ることはなかった。代わりに冷ややかな声が淡雪に降りかかる。


「オレがどれだけ実戦を積んできたと思うねん」

 あざ笑うかのような枯野の声。淡雪の右手首は枯野の左手に掴まれ、淡雪が右手に集中していた全身の力を利用される。勝負はあっという間に展開が変わった。淡雪は自分に何が起きているのか理解する頃には、星が瞬く夜空を見上げていた。


「腑抜けが。オレが近接戦苦手やから狙ったやろうけど、いつまでも苦手な分野をそのままにしておくアホがおるか?」

「……せやな」

 背中が痛い。勢いよく叩きつけられたせいで体はすぐに動かなかった。このままでは半殺しにされ、組に連れ戻されてしまう。淡雪の脳内は慌ただしく思考を巡らせる。その時だった。


「淡雪、探したでぇ。手間かけさせやがって。おかっちゃんはどこや? 一緒に来いや」

 全身の穴から嫌な汗が噴き出る。思い浮かぶのは、幼い頃にこの身で受けた『授業』と『実験』の記憶。心を守るために蓋をしていた記憶が脳内を掻き回す。

 父、凍雲だ。部下らしい翼を持った妖にここまで運ばれてきたらしい。

 凍雲は黄色い歯を見せてにぃっと笑うと、淡雪を蹴り上げる。

「ぐふぅっ!」

 内臓が大きな衝撃を受け、胃液がせりあがってきた。淡雪は衝撃で区画門の上部から地面へと転がり落ちる。枯野や凍雲の攻撃と落下の衝撃で、淡雪の全身は悲鳴をあげていた。


 体が痛い。立たなければいけないのに足が動かない。震えている? 痛みのせいか、それとも蘇った記憶のせいだろうか。

 父の靴底が砂利を踏みつける。じゃり、と小石がすれる音が淡雪に近付いてきた。早くこの場から逃げ出さなくては。

 だが、意思とは関係なく淡雪の肉体は肉体そのものの記憶に硬直している。


「ほら立て、淡雪。おかっちゃん連れて猩々緋に戻るぞ」

「……」

「聞いてんのか!」

 凍雲の怒鳴り声が鼓膜を震わせる。怖い。目の前の父が、父の発する声が、振り上げられた拳が、怖い。


(お嬢ちゃん……、小夜ちゃん。会いたいよ。会って抱き締めて欲しい。そしたらこの恐怖も消えるやろうに)

 淡雪は振り下ろされる拳に目を閉じた。襲ってくる衝撃に体を硬くしたが、何もない。だが、どこからか「淡雪!」と自分の名を呼ぶ少女の声がする。


「淡雪!」

 自分が自分に見せた幻聴だろうか、と淡雪は思った。しかし、だんだんと近づいてくる影はやがて見慣れた愛らしい少女の姿をはっきりとさせる。

「なんでここにお嬢ちゃんがおるねん。危ないやろ……」

 振り絞った声は小夜に届く。

「わたしだけじゃないよ」

 ひょっこりと小夜の背後から現れたのは暁闇だった。人懐っこい笑みを浮かべていつもの調子で淡雪に話す。

「一人で立ち向かおうなんざ水臭いじゃないか!」

「暁闇、お前って奴は」

「これで小夜さんの好感度も上がる作戦だ!」

「……それは言わんほうが良かったと思うで」

 暁闇は凍雲との距離をはかりながら淡雪のもとへ駆け寄ってくれた。そっと背中に優しく手を回し起き上がらせてくれる。肩に手を回すとようやく淡雪の足で立つことが出来た。


「援軍に来たのはお嬢ちゃんと暁闇だけか? それなら分が悪いで」

「違うよ、ほら見て」

 小夜が指をさした方を見やると、そこには白髪交じりの男性と妖艶な美女が立っており、背後にはたくさんの岡っ引きらの姿があった。

「一般市民を巻き込むからには奉行所は黙っていられないからな」

「……ふっ、一般市民に僕を入れてくれるんですか、白露の旦那」

 暁闇に支えられ歩いてきた淡雪に、白露は優しい微笑みで返した。隣に立つ八重霞は「宮から凍雲組の解散許可を貰って来たわ! 組員はひとり残らず捕らえるのよ」と岡っ引きらを鼓舞している。


 うおお、と雄たけびを上げる岡っ引きらを見て忌々しそうに凍雲は吐き捨てる。

「仲間ごっこか、しょうもない。半端者で裏社会しか生きる場所がないお前に、仲間なんかできるわけないやろ。うぬぼれるなよ、誰もお前のことなんか好きちゃうぞ」

 淡雪が口を開こうとしたとき、小夜が叫んだ。


「わたしは大好き!」


 雄たけびを上げていた岡っ引きらも、他の組員に威嚇するように睨みをきかせていた八重霞も、黙って様子を見ていた白露も、暁闇も、淡雪さえも黙った。

 小夜の声だけが響き渡る中で、彼女は精一杯自分の気持ちを叫ぶ。


「淡雪はいつも優しくて、周りをよく見てくれていて、わたしが助けて欲しい時はいつもそばにいて助けてくれるの。わたしの大好きな淡雪に酷いこと言わないで」


 目の前の少女は、自分を必要としてくれている。やくざの子に生まれ、かたぎとして生きようにもずっと過去が付きまとってくる自分には『普通』の幸せは望めないと思っていた。だが、雪月花で用心棒として働きながら彼女と接していくうちに『普通』になれたような気がした。仕事をして、町を歩いて、美味しいものを食べて。仲の良い人たちと笑い合う日々。ありきたりかもしれない平凡な幸せが淡雪にとってはかけがえのない宝物になった。手のひらに落ちた小さいけれども大切な思い出。いつも思い出の中心には小夜がいる。


「そうや……僕は組になんか戻らへん。帰る場所があるんや」

 蹴られた腹が痛むが、淡雪は目の前の父に向って言い放つ。凍雲は心の底から分からないというような表情を浮かべて首を傾げる。

「お前の帰る場所は組やろ」

「違う。僕の帰る場所は、お嬢ちゃんの……小夜ちゃんの隣や!」

 初めて父に怒鳴った。凍雲は大きくため息をつく。頭の心情を読み取ったかのように、枯野が一歩前に出てくる。

「ごちゃごちゃぬかしおって。ええから頭の言う通りにせえ!!」


 淡雪の紫水の瞳と枯野の透き通った青色の瞳がぶつかり合った。

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