第25話 淡雪の過去
「お前、何やっとんじゃ!!」
たった今、幼い子どもの命を奪い、罪のない人から光を奪ったとは思えないほど枯野は穏やかな顔をしている。鬼畜の所業をしておきながらお前はどうして平然としていられるのだ、と淡雪は猛烈な怒りに身を焦がされるようだった。
淡雪が胸倉をつかんでも、枯野は眉ひとつ動かさない。
「離せや」
「お前……子どもの命まで奪う必要あったんか!? なんで無関係の人間まで巻き込んだんや!!」
「無関係なわけあるか。あいつらの親父がオレらの組に金を借りてたんや」
枯野はようやく鬱陶しそうに表情を歪めて答えた。分かりきったことを聞くな、と言いたげにため息をつく。
「だからって子どもを殺す必要あったんか!」
「淡雪、お前分かっとらんな。やくざ者ちゅうもんは面子で成り立っとる。舐められたら終いなんや、この世界は。だから“判らせる”必要がある。甘さは要らんのや」
ぞっとした。さも当たり前と言わんばかりで枯野は話している。枯野が指示した通りに黙々と作業をしている組員達も異を唱えることはない。ここでは淡雪だけが異端なのだと知る。
「僕は、僕はこんなことしたくない……!!」
苦し気に吐き出す言葉は誰かに聞いて欲しかったわけではない。叫ばなければ自分が保てない気がしたのだ。目の前の事実を受け入れてしまえば、自分が自分じゃなくなるような感覚。足元がぐらりと揺れるような。
だが枯野は違った。淡雪の叫びに怒りの表情を浮かべて、今度は枯野が淡雪の胸倉を掴む。
「
枯野は淡雪を軽々と持ち上げ、壁に投げつける。大人の体に近付きつつある淡雪の体がぶつかると、ぼろぼろの家は全体を大きく振動させた。
「頭に教育受けといてお前は何にも分かっとらんな。お前が嫌でもお前は若頭なんや、やくざなんや。お前の地位になりたくてもなられへん奴がいっぱいおる中で、お前は現実から逃げるんか?」
枯野は鎌を取り出し、目にも見えぬ速さで振るい始める。鎌が空気を切り裂く、びゅうびゅうという音が淡雪の耳元で鳴る。
「ええか、淡雪。やくざの子はやくざ、汚れた世界で生きるさだめなんや」
「……それでもお前がやってる事は間違っとる」
「人を殺す技を頭から受け継いどいて何言うとるんや」
淡雪は枯野が投げつけた鎌を寸でのところで避ける。先ほどまで淡雪の顔があった位置にぴたりと鎌の先端が突き刺さっていた。
本気で殺しにかかっている。淡雪は実感した。鎌が正確に投げられただけではない。枯野が華奢な身体から発する殺気はびりびりと空気を震わせているからだ。
淡雪は眼鏡を取り外すと、すうっと息を大きく吸い力を込めながら吐く。稲妻が走る音とともに枯野の脳天に雷が落ちる。肉の焦げる臭いと組員達の悲鳴が場を混乱させた。
淡雪は枯野がどうなったのか振り返って見ることもせずに、ただひたすら走り続けた。あまりの速さに履物が途中で脱げたことにも気づかなかった。屋根と屋根を飛び越え、母のもとへと急ぐ。
(凍雲組におったら僕はホンマの意味で壊されてまう!)
神経が張りつめているようだった。目は敵から逃げる獣のように血走り、視覚、聴覚、嗅覚が研ぎ澄まされているのを感じる。
一心不乱に走り続け、枯野や他の組員達に追い付かれることなく母と住む部屋に戻ってきた。淡雪の身軽さは、人の耳に足音は拾えないらしく誰にも見つかることなく忍び込むことが出来た。
「母さん」
部屋の隅で妖の姿で丸くなっている母に声をかける。閉じられていたまぶたが開き、黒々とした丸い目が暗闇の中で光って見えた。
「ここから逃げよう」
手を差し伸べる。母はぎょっとした様子で淡雪と外の様子を交互に見やった。
「淡雪、正気なの? 逃げて捕まったら私達は殺される」
「絶対捕まらんようにする」
「でも」
「ここにおってもどのみち死ぬだけや。それなら僕は自分らしさを大事にして死にたい」
深くは説明しなかった。ただじぃっと母の目を見つめて手を伸ばし続ける。やがて母は淡雪に心境の変化をもたらしたきっかけがあったのだと察したのか、何も言わずに人の姿に化けた。
「この姿になるのは久しぶりだわ。うまく歩けるかしら」
「歩いてもらわな困るなぁ。無理そうなら妖の姿でもええで」
しかし、母は久しぶりに人の姿になっても体の動かし方は忘れていないようだった。きちんと二足歩行が出来るうえ、淡雪と劣らぬ身軽さで部屋を抜け出せたのである。
淡雪が先に様子を窺い、異常がなければ母に合図を送り、あとをついてきてもらう。二人は組員や父に見つかることなく、屋敷から出ることに成功した。屋敷からかなり離れた距離まで来た時、淡雪は初めて後ろを振り返り屋敷を見る。生まれた時から住んでいた家を出ることは悲しくなかった。いい思い出がなかったせいだろうか。
(大嫌いな場所から出て行くときって意外とあっけないもんやな)
隣に立つ母に視線をうつしてみると、母はなんとなく泣きそうな顔で屋敷を見ていた。淡雪は父は大嫌いで憎い存在だったが、母によると淡雪が生まれる前は優しかったのだという。きっと優しかったころを思い出しているのだろう。
(僕は父さんの良いところを知らんけど、母さんは知ってるから辛いやろうな)
母の背中に手を添え、前を向き歩き出そうとしたその時だった。
「待てや」
聞きなれた声、むしろ聞き飽きたというべきだろう。
「……枯野か」
淡雪は振り返り、声の主を見て顔を顰めた。さすがは鎌鼬、落雷が直撃しても生きているうえに動けるまで回復するとは。ところどころ火傷が治っていない部分もあるが、淡雪のことは追いかけてこられたらしい。
「僕はお前の相手してる場合とちゃうんや。頼む、邪魔だけはせんといてくれ」
真っ直ぐに枯野の目を見て言う。
「頭を裏切るつもりか」
中世的な整った顔の半分は火傷で醜くただれていた。
「裏切るもなにも最初から慕ってすらないよ」
「やくざの生き方しか知らんお前がかたぎになれると思ってんのか?」
形の良い眉毛をひそめて苦しげに枯野は言う。
「これから知ればええやろ」
「甘ちゃんだな、お前は。ほんっまに大嫌いやわ」
枯野は憎々しげに言った。背中にある得物に手を出さないあたり、彼は淡雪を止めるつもりでここに来たわけではないらしい。
「僕も嫌いやよ、お前のこと」
「ふん、とっとと失せろ。腑抜けの顔なんざオレは見たくないわ」
淡雪は返事をする気は出ず、心配そうにこちらを見上げる母を促し、前へ足を踏み出す。
「なぁ、一個聞いてええか」
忘れ物を思い出したかのように淡雪はぴたりと動きを止める。振り返ることはせず、ただ言葉だけを枯野に届けようとした。
「あの時の干し杏子、お前が置いてくれたんか?」
ざあっと風が吹き抜ける音がして、枯野がふっと息を吐く音も聞こえた。
「……さぁな。知らんわ」
「そっか、ならええねん」
淡雪はそれだけ答えると、二度と振り返ることはしなかった。この日を境に淡雪と母だけの生活が始まったのである。
***
皮膚の奥まで火傷してしまったせいで全身がずきずきと激しく痛む。妖なのでこれくらいでは死ぬことはないが、それでも痛い。
枯野は淡雪と彼の母が逃げ出すのを歩きながら追い続け、やっと声が届く距離にまで辿りつけた。
(お前は逃げるんか? オレと一緒に裏社会で生きてきたくせに、お前は日のあたるところに行くつもりか)
ぜぇぜぇと息が荒い。まだ呼吸器が回復しきっていないせいだ。
(なんでお前だけ足洗うんや)
羨ましい。目の前の男が。幼馴染でも友人でもないのに。日陰者の生き方しか知らない枯野には、踏み出せない一歩を彼は踏み出そうとしている。小心者の自分には出来ないことだと思った。
優しくて、忍耐強く勇気がある男だと思う。彼なら真っ当に生きる道を自分で選べる気がする。それが枯野には心の底から羨ましいと思ったのだ。
同時に自分だけが取り残されるような焦燥感が襲う。世界でたった一人だけ、ぽつんと立ち尽くしているような。置いていかれるのが許せなかった。あいつだけが陽のあたる場所へ行こうとするのが。
「……干し杏子はオレも好物やったのに、わざわざお前にあげたんやぞ」
もう届かない距離にまで離れてしまった彼に向かってぽつりと答えた。二度と自分達の道は交わることがないと悟った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます