第23話 淡雪の過去

「ごめんなさい、ごめんなさい、許してください」

「おら、立て淡雪! そんなんじゃ凍雲組の頭は務まらんぞ!!」

 泣いて許しを請う淡雪の髪を父は強引に引っ張る。髪の毛を引っ張ることで立たされているくらいなので、頭皮はちぎれそうなほど痛む。掴まれている部分が丸ごと取れるのではないかと思うほど、強い力のまま父は地面に淡雪を叩きつける。


 もう体は動かない。関節を壊されているからだ。修復には時間がかかる。痛みはまだ続くだろう。

 淡雪にとって嫌な時間が早く過ぎて欲しいのに、時計の針は先ほどと全く同じ位置にあるような気がした。

(時計、壊れてんのかな……)

 現実を見ていたくなくて、淡雪は頭の片隅でぼんやりとそんな事を思う。

 彼の頭の中を見透かしたように、父は怒鳴りつける声をより一層荒げた。

「お前よそ見してんちゃうぞ! 集中せんか、どあほ!!」

 父の大きな拳が淡雪の顎を殴打する。ガキン、と嫌な音が鼓膜に強く響いた。


(あかん、顎も外れてもうた)

 脳にまで振動が来てしまったようだ。目の前がちかちかとして、薄暗くなっていく。このまま意識を手放せば早く終わるだろうか。いや、終わったところで「聞いてなかったやろ」と技を決められるのがオチだ。父の気が済むまで何とか意識を保っておかなければ。


 淡雪が嫌な事は、こうして人を殺すための技術を自分の身をもって教えられる『授業』の時間と、妖の血を混ぜられる『実験』の時間だ。どちらも痛いからである。痛いといっても、我慢出来るほどの痛みではない。発狂しそうなくらいだ。

 麻酔も無しに腹を切り裂かれ、中の臓物を取り出されるような痛みだろうか。ともかく気が狂いそうなほどのものである。何度『殺してくれ』と父に懇願しただろうか。


 父は淡雪が痛がることを母の目の前でする。わざとなのだ。逆らえばお前もこうするぞ、という脅し。やくざ者を束ねる頭らしい卑怯で残忍なやり方。かわいそうなことに、母は今も部屋の隅で震えている。淡雪の悲鳴が聞こえる度に、耳を手で覆う。


(ごめんなぁ、母さん。怖がらせてしもうて)

 人の姿をしている母はとても美しかった。明るい茶の髪は艶やかで高級な糸のように細く、淡雪も引き継いだ紫色の瞳は宝石のようだった。母は不思議なことに、妖の姿と人の姿で容姿の色が少し変わる。瞳の色は特にそうだ。本来の姿でいるときは、黒々とした丸い可愛らしい瞳をしているのに、人の姿になると妖艶な紫になる。

 見た目が変わることがとても羨ましくて、いつか自分にもできるかと聞いたことがあったが、淡雪には出来ないらしい。

(僕は半妖やからな)

 人でも妖でもない中途半端な存在。どちらにも属さないあぶれ者。


「お頭、お取込み中すんません。下っ端連中が猿猴えんこう組の奴らに襲われたらしいんですが……!」

「またあの猿どもか! 猩々緋で好きにさせるわけにゃいかん。おい、使える奴らを集めてすぐに向かうで」

 凍雲組の組員が勢いよく扉を開けて、父に報告をした。淡雪を『教育中』に組員はこの部屋に入っていけない決まりなので、通常であれば殺されても仕方ない失態なのだが今回は緊急事態らしく、お咎めは無かった。


 組員に指示を出すと、父は横たわっている淡雪を蔑むような視線を向け、ふんっと鼻を鳴らして部屋を出て行った。勢いよく閉められた扉がばたんと耳障りな音を立てる。


「淡雪、淡雪……!」

 部屋の隅で震えて縮こまっていた母が、這いずるようにしてこちらへと向かってくる。彼女はいつも腰を抜かしてしまうので、すぐに立つことが出来ないのだ。

 もっとも淡雪も今は動けない状態なのだが。

「母さん……体には触らんといてな。ちょっとでも動くと、めっちゃ痛いねん……」

 弱々しく告げる淡雪の様子に、母は目を丸くして美しい紫色の瞳から大粒の涙をぽろぽろと流していた。淡雪が痛めつけられた後はいつもこうだった。


「泣かんといてや、母さん。僕は大丈夫やから」

 喉は潰されているので声はほとんどかすれて出ない。だが、耳の良い母なら届いているはずだ。母は何度も淡雪にごめんね、と泣いて詫びるばかり。どうしたものか、と思いながら天井を見上げていると部屋の扉がまた開いた。

「若頭、姐さん。お迎えに参りました」

 父ではない声。感情を宿さない淡々とした声音だ。自分達の世話係を務める枯野の声だった。淡雪と同じ年なのだが、性格は残忍そのもので父の一番のお気に入りである。孤児らしいのだが、どこで習ったのか鎌と体を使った技術は既に達人の域に達しているらしく、大人の組員でも彼に勝つことは出来ない。


 枯野は寡黙で父に従順な少年である。淡雪のことをどう思っているのかは分からないが、少なくとも淡雪は彼を好ましいと感じたことは一度もない。見た目こそ長く美しい黒い髪をして、端正な顔立ちをしている好ましい少年なのだが。

 どこでどう父と出会ったのかは分からないが、やくざ者としての才を咲かせていた。人として大事なものがごっそり欠如しているのだ。生まれながらの犯罪者というべきだろうか。


 枯野は大人の組員を二人引き連れ、淡雪と母を部屋から連れ出した。

「痛い痛い、あんまり動かさんといてくれ。めっちゃ痛くなるから!」

 丁寧とは言えない運び方に抗議の声を上げる。しかし、前を歩く枯野は振り向くことなく淡々と言い放つ。

「淡雪は半妖やろ? そんくらい屁でもないはずや」

「半妖言うても痛いもんは痛いんや! お前やって鎌鼬やけど、身体裂かれたら痛いやろ」

 枯野はようやくそこで振り返り、光を宿さない瞳で淡雪をじっと見つめた。

「慣れるやろ?」

 心底、呆れたような声だった。当たり前のように言い放つ少年に、淡雪は「やっぱりこいつは嫌いだ」と思う。


「お前、泣いとったな。泣き虫のお前が組の頭になるとか虫唾が走るんやけど」

「あんなことされたら普通泣くやろ。泣かへんお前がおかしいねん」

「お前が腑抜けやからや」

 枯野は振り向くことなく言い放った。もう淡雪には用はないという様子だ。


 拷問を受けていた部屋から暫く歩くと、木造の屋敷が見える。ここが淡雪達の家である。淡雪の住んでいる場所と言っても、母と共に軟禁状態なので本当の意味で住んでいるのは部屋の中だけだ。広い屋敷の中を淡雪は歩いたことがない。いつも廊下を歩くときは、『授業』か『実験』に向かう時だけである。終わった後は自力で立つことは出来ないので、天井を見ながら部屋に戻ることになる。


 部屋はこじんまりとした狭い場所であった。母とまだ小さな淡雪なら十分だが、部屋にあるのは布団と机だけだ。娯楽も何もない部屋は牢獄のようである。

「枯野、一つ頼み事があるんやけど」

 淡雪は布団に寝かされながら静かに見下ろす少年に話し掛ける。枯野は返事こそしないが、部屋を出て行かないあたり聞く気はあるのだろう。


「干し杏子が食べたいんよ。こっそり持って来てくれへん?」

 食事は三食与えられているが、『実験』に影響が出てはいけないという父の方針から食事以外の食べ物は禁止されていた。たまに彼らを不憫に思った組員がこっそり窓に甘味などを置いてくれることがあるのだが、その中でも干した杏子が大好物だった。


「あほ抜かせ。オレが頭を裏切るわけないやろ」

 枯野は忠実な父の部下だ。少しの裏切りもしないつもりなのだろう。淡雪に鋭く言い放つと、彼はぴしゃりと音を立てて部屋を出て行ってしまった。

 ちらりと同じように横で寝そべる母を見ると、心労からか既に眠りについていた。すうすうと規則正しい寝息を立てて寝ている。淡雪は、せめて母が夢の中では楽しく過ごせるようにと祈った。瞼を閉じると意識を失うようにして眠りに落ちる。


 目が覚めた時には部屋の中は真っ暗だった。だが、半妖の淡雪には照明が無くても夜の世界ははっきりと見えていた。布団から体を起こして、手を動かしてみる。体の痛みはもう引いている。怪我は治っていた。便利なのだろうが、頑丈なせいで父に酷い目に遭わされるので、淡雪は半妖の体質が好きではない。


 水を飲もうと机の上に置かれている陶器の水入れを手に取った時、窓に小さな影があることに気がつく。窓に嵌められた障子を開けると、窓枠に干し杏子が二つ置かれていたのだった。


 誰が置いていったのか気にすることなく、淡雪は一つを手に取りかぶりつく。夕食を取り損ねたので少しでも腹の足しになればと思う。空腹のときに食べる干し杏子は、いつもより味が濃いような気がする。口の中に入れると唾液が溢れ出てくる。何度も口の中で咀嚼しながら外を眺める。


「絶対にここから抜け出してやるんや……」

 今は幼いせいで父に歯向かう事は出来ないが、力をつければきっと。

 涙が口に入ったせいか、杏子のせいなのか分からないが、やけに口の中が酸っぱい気がした。

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