第21話

 一徹がいない日々は容赦なく訪れてくる。暁闇が代わりに用心棒をしてくれているが、岡っ引きの仕事を休むわけにもいかない。岡っ引きの仕事は朝よりも夜の方が忙しい。毎日夜の営業を行うのは難しいという事から雪月花は朝の営業のみに変更した。


「小夜ちゃん、煮卵貰えるかな?」

「小夜ちゃーん、こっちにはひじき頂戴!」

「はい、ただいま!」

 客は一徹が居なくてもやって来る。常連客の中には、暁闇が用心棒を務めていることに気付き、一徹について聞いてくる者も居た。小夜は彼らに一徹が辞めたと告げる度に、彼がもう雪月花にいない事実を何度も自分に突き付けるようだった。

 張り裂けそうになる気持ちを我慢して押し殺しながら仕事をする事に、いつの間にか慣れてしまっている。嘘の笑顔を貼り付けるのが上手くなったものだ。

 誰にも心配をかけてはいけない。雪月花の看板娘はいつも明るく元気でいなければならないのだから。


『お嬢ちゃん』

 一徹の声が脳裏に浮かぶ。いつもの優しい笑みと声音を向けてくれる青年の姿をはっきりと思い描ける。

『お嬢ちゃん、こっちは僕に任せや』

 地方訛りの言葉遣いで話し掛けてくれる一徹。

(一徹……会いたいなぁ)

 下を向いてしまうと涙がこぼれてしまいそうだ。今は笑顔を浮かべているのだから、泣いてしまうとおかしなことになってしまう。泣くな、耐えるのだ、と自身に言い聞かせる。


「小夜さん」

「ん? もしかして手伝ってくれるの?」

「あ、あぁ……そうだね。これ、持って行くよ」

 暁闇が何か言いたげな表情を浮かべていたが、小夜は料理の入った器を彼に差し出した。拒絶だった。今、心配されると張り詰めている糸がぷつんと切れて決壊する。有無を言わさぬ圧を醸し出す。


「おぉ、暁闇。やっぱり雪月花の手伝いをしているのか」

 ふと店の入り口の方から低く威厳のある声が響いた。白い髪を後ろに撫でつけ、着物をぴしっと着こなした几帳面そうな男が立っている。暁闇は彼を見るなり、背筋を伸ばして勢いよく頭を下げた。

「白露の旦那、お疲れ様です!」

 小夜もお世話になった紅鷺の同心、白露だった。白露は小夜や父に目配せすると、自身も床几に座り込む。小夜は彼の目の前に熱い茶が入った湯呑を出す。


「営業終了間近にすまない」

 白露は出されたばかりの熱い湯呑を掴み、一口と二口と茶を飲み込む。熱すぎるはずなのだが、白露は涼しい顔をしていた。

「今日は客として来たわけではないんだ」

「と言いますと?」

 奥から父がやって来て小夜の隣に座る。雪月花の店内には、白露と暁闇、小夜親子だけだった。客が入ってこないのを見ると、父が既に店先の暖簾をしまい込み、店じまいを終えたのだろう。


「最近、紅鳶で暴行事件が多発していてな……だが、注意喚起しに来たわけではない」

「どういうことですか?」

 小夜は怪訝な顔を隠すことなく、白露に問いかける。年老いた男は皺だらけの顔を動かすことはない。視線だけ小夜に向けた。


「被害者は全てやくざ者だった。全員、命に別状はないが感電したような跡があると奉行所の医者は言っている。そしてやくざ者の所属を調べると、全員“凍雲組”の者なんだ」

「凍雲組……」

「お上はやくざ者同士の抗争ではないかと読んでいるので奉行所は基本的に介入はしない。だがこれ以上事が大きくなるようであれば、暁闇、お前も駆り出すから心構えをしておくんだな」


 白露はそう言うと残りの茶を一気に飲み干し、小夜達に礼を言い立ちあがった。

 扉に手をかけたが開けようとはせず、ぴたりと動きを止めている。小夜が不思議に思い、白露を見ていると彼は顔だけこちらに向けて言う。

「あと、お嬢さん。これは八重霞様からの言伝だが……『彼に手を伸ばそうとするのを決して諦めてはいけないよ』とのことだよ。私には何のことだがさっぱりだがね」

 白露は言い終わると、今度こそ去って行った。

 雪月花に残された小夜、父、暁闇は暫く黙り込んでいた。ただ静かな虚無の時間が流れていく。沈黙を破ったのは小夜だった。


「この前、一徹は顔見知りらしい男の人に会ったの。ちょうどわたしもそこに居たんだけど、一徹はその人を“枯野”と呼んでいたわ。枯野は一徹の事を“淡雪”と呼んで“組に戻れ”って言っていたんだ」

 彼女の告白に父や暁闇は息をのむ。二人が驚きで言葉を出せないのが、空気を伝って小夜に届く。

「ねぇ、暁闇。貴方の周りで裏社会に詳しい人はいないかな? この事件、もしかしたら一徹が関わっているかもしれない。少なくとも凍雲組と一徹は無関係ではないはずなの」


 小夜は暁闇にすがりつく。情報を集めるには彼の人脈が活かされるからだ。

「それと一徹に戻って来いと言っていた枯野という男の人の事も。お願い、暁闇……」

 最後の方まできちんと言葉にする事は出来なかった。涙が視界をにじませ、喉奥は震えて声をきちんと発せない。ぽろぽろと目尻から頬へと雫がこぼれ落ちていく。

 暁闇は小夜の泣き顔を見て心を痛めたかのように、目を丸くし眉を下げる。

「小夜さん……俺は小夜さんの為に動きますよ。俺の伝手を使って調べてみるよ」

「暁闇……ありがとう」

 父はお礼を言いながら泣きじゃくる小夜に手ぬぐいを渡しながら背中をさする。


「暁闇君、用心棒の仕事をしながらだと大変だろう。暫くは情報収集に専念してくれていいから。朝の営業だけならごろつきも来ないだろうしね」

「村雨殿……」

「小夜のことなら心配いらないよ。私がいるし、この子は強い子なんだ」

 父の大きな手が小夜の背中を優しくさすってくれる。母を亡くしてから、寂しさのあまりずっと泣いていた時もこうしてくれていたのを思い出す。子どものときと変わらない父の温かさに小夜は救われるような気がした。


「分かりました、くれぐれも戸締りはしっかりしてくださいね。暴行事件の被害者はやくざ者だと言っても、いつ一般人が巻き込まれるか分かりませんから」

 市民の味方である岡っ引きらしい台詞を言い、暁闇は早速その日から情報集めに奔走してくれたのだった。


***


 朝だけの営業を続ける事、数週間。暁闇が情報収集を始めてから、小夜は暦を見る度に胸がうずく。何も出来ない自分が歯がゆくてたまらないのだ。

 彼女の胸の内を見透かすように父は新しい献立を一緒に考えようなど、あれこれ提案してくれる。

 その日も雪月花で取り扱う新しい一品を父と考えていた。ごめんください、と扉の方から暁闇の声が響いてくる。


 父が出迎えると、嬉しいような悲しいような複雑な表情を浮かべた暁闇が入ってきた。どうやら手がかりは掴んだらしい。

 小夜の近くに腰を下ろし、父が出した湯呑を両手で包み込む。どう切り出そうか悩んでいるようだったが、暁闇は意を決したように小夜を真正面に見据え話し始めた。


「情報は手に入れたよ。まず、凍雲組は猩々緋で有名なやくざらしい」

 一徹も猩々緋の出身だと言っていた。あの訛りも猩々緋のものだ。

「そして彼らは今、紅鳶に来ている。凍雲組の若頭“淡雪”を探しに」

「淡雪……。枯野という男が一徹を呼んでいた名前」

「あぁ、小夜さんも察しがついていると思うが淡雪は一徹だと思う。そして、今回の暴行事件を起こしているのもおそらく淡雪なんじゃないかと。被害者や裏社会に詳しい人から聞く限り、淡雪は人間だが雷を操る妖の血が入っているせいか彼自身も操る事が出来るらしい」


 小夜は姫君に扮した時を思い出す。たくさんの人々が集まったせいで身動きが取れなかった時、一徹は雷雨を呼ぶという策を講じたのだった。彼に問いかけた時の答えを思い出す。『せやな。落雷を操る雷獣の力や』と。


「一徹は雷獣の力を操れると言っていたわ。半分妖だとも」

「……ここからは俺の想像なんだけど。一徹、いや淡雪は組に戻りたくないんじゃないかと思うんだ。この暴行事件の被害者であるやくざ者は、彼を捕まえようとしていた追っ手だろう」

 暁闇は湯呑の中から湯気を出している茶に視線を落としながら話し続ける。

「最初から戻る気なら追っ手を振り切る必要はない。あいつは一生懸命、抗っているんじゃないか? だとしたら本当に助けを求めているのかもしれない」

「……淡雪のお母さんが紅鳶にまだ居るなら話を聞いた方が良いかも」

「まだいるらしいよ。山の中にある庵でひっそりと暮らしているんだと」


 小夜は暁闇の視線を正面から受け止める。そして、父に顔を向けた。

「お父ちゃん、わたし行って来る。淡雪のお母さんに話を聞いて、彼が本当に助けを求めているなら助けに行って来る!」

 小夜は気持ちを固める。

(どんな事があっても、わたしは淡雪を連れ戻したい――!)

 彼女の眼差しをじぃっと身じろぎせずに受け止めていた父は、ふっと軽く息を吐いて頬を緩めた。


「小夜は頑固なところがあるからね。私が止めても無駄なのだろう? いいよ、行っておいで。ただ怪我だけはしないように。暁闇君、頼めるかな?」

 父は暁闇に視線を向ける。彼は清々しい笑みを浮かべると、力強く頷いた。


 小夜はすぐに自室へ向かい、出る支度をする。動きやすい着物に着替え、髪を結い上げる。彼女の髪にはいつも愛用しているあの玉簪が煌めいていた。

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