第20話

「小夜、一徹君、助かったよ。ありがとう……って小夜? 膝のところが汚れているけど、どうかしたのかい」

 枯野という男に与えられた恐怖から落ち着きを取り戻した小夜は、一徹と共に雪月花の屋台へと戻って行った。父は笑顔を浮かべて二人を出迎えてくれたが、すぐに小夜の着物の汚れに気がつくと心配そうな表情に早変わりする。


 小夜は父の視線を追うように自身の膝を見る。恐怖に襲われていた時に膝を地面についてしまっていた為についた汚れだろう。

「ちょっと足を痛めたから少し休んでいただけ。その時に膝をついたから汚れちゃったみたい」

 父を心配させまいと咄嗟に嘘をつく。

「そうかい。何もないなら良いんだ」

 小夜は笑顔を浮かべて頷くと、夜の営業が終わるまでせわしなく動き続けた。

 客足が途絶えなかったような気がする。本当に忙しかったのかもしれないが、考え事をしたくなくて手を動かそうとしていただけかもしれない。

 自分が知らない彼の一面があるという事におそれの念が浮かぶ。


(考えちゃ駄目、深く考えるのはわたしの悪い癖なんだから)

 父と一徹が屋台を片付け始めている。小夜は客が食べ終わった皿や湯呑を重ねて台車に乗せる。屋台通りでは洗い場が無い為、食器などは自分達の店に戻って洗う。運べる食器には数があるので、屋台通りを訪れる客は自分で食器を持って来ることもあった。


 通りに屋台を出していた他の店も片づけを始めていた。客はちらほらと残っていたが、帰っていく人々の方が多い。

 ちらりと視線を一徹に向ける。彼はいつも通りの態度を貫いていた。枯野と呼んでいた顔見知りの男に出会った時の一徹は、普段の彼とは違っていたのに今は優しい一徹の顔を見せている。


(どっちが本当の一徹なんだろう……)

 小夜の黒い瞳と彼の紫の瞳がぶつかり合った。

「お嬢ちゃん、人の顔をじろじろ見てどないしたん?」

 にいっと笑いながらからかう口調で話し掛けてくる一徹に、小夜はぷいっと顔を逸らした。

「な、何にもないよ!」


 屋台を台車に乗せて一徹がき、後ろから父が押す。父が一人で引っ張っていた頃は、随分と大変そうに見えたのに一徹は軽々しく曳いているように見えた。父が後ろから押さなくても彼ならたった一人で曳けるのかもしれない。

 小夜は皿が入った小さな台車を静かに曳く。三人は雪月花の店舗に戻るまでの道中、一言も話さなかった。いつもならくだらない話をして、眠っている住民を起こさないよう笑いを嚙み殺すのに。


 小夜もずっと黙り込んだまま、雪月花に到着した。一徹は雪月花の物置に台車を入れると、父と小夜に向かって頭を下げる。

「ほな、今日はこれで。お疲れさまでした」

「お疲れさま。一徹君、いつもありがとうね。君が来てくれたおかげで夜の営業がかなり楽になったんだ」

「それなら良かったですわ。お二人ともおやすみなさい」

 父はニコリと笑みで返すと、雪月花の店の中へ入って行く。

「一徹もおやすみなさい。また、明日ね」

 小夜はそう言い、彼に向かって手を振る。一徹も手を振り返してくれるが、口は閉じたままだった。手を振りながら夜の闇に彼が消えていくまで、小夜は店前で見守っていた。


 店内に戻り、簡単に湯浴みをしてから小夜は床へつく。

(明日の朝は汚れた食器を洗って、仕込みをして……。あぁ、朝から洗い物って面倒だなぁ。人が洗わなくても洗えるまじないがあれば良いのに)

 真っ暗闇の中、天井を見上げながら一人で考える。思考の海に溺れていくことは、小夜にとって日常であり癖だった。


(淡雪って呼ばれていたね……一徹。いつか本当のこと、教えてくれるのかな)


***


 翌朝、陽が昇る少し前に小夜は起きる。一徹から貰った櫛で髪を梳いて、玉簪でひとまとめにする。彼から贈られてから毎日使っているものだ。

「お父ちゃん、おはよう」

「……あ、あぁ、小夜。おはよう」

 洗い場に向かうと父が先に起きて、昨日の夜に使っていた食器を洗っていた。

 朝に強い父が珍しく気分が落ち込んでいるように見えて、小夜は首を傾げる。


「何かあったの?」

 すると、父は洗い物をする手を止めて小夜を真っすぐ見る。

「一徹君が仕事を辞めたんだ」

 時が止まる。何を言われているのか、意味を把握するのに脳が時間を要する。

 目を丸く見開きながら小夜は弱々しい声音で言う。


「どうして? 何で急に……?」

 昨日のことが関係していると思った。だが、最後はいつもの笑みを浮かべていたではないか。

「私も詳しいことは聞いていないんだ。えらく真剣な顔で“迷惑かけてすんません”って言っていたよ」

「お父ちゃんは黙って見送ったの?」

「止めようとしたけど、彼の出した答えだ。でもここで働いていた時間は楽しかったって」


 小夜はそれしきり黙り込む。父も小夜の様子を見て何かを感じ取ったのか、口を開くことはなかった。淡々と皿洗いをする音が聞こえてくるだけだった。

 その日の朝営業はどう過ごしていたのか、あまり記憶がない。一徹が突然辞めたことに対して大きな衝撃を受けたせいなのだろう。

 だから目の前に暁闇の顔があることにも暫く気がつかなかった。


「ぎゃあああ!?」

 思い切りのけぞりながら暁闇の顔をはたいてしまう。乾いた破裂音が店内に響いた後、暁闇の困ったような笑い声が聞こえてきた。

「ど、どうして目の前に暁闇の顔があるの!!」

 暁闇は頬を手で押さえながら答えた。

「いや、だって俺が何言っても反応しなかったもんで」

「やっていい事と悪い事があるでしょ!!」

「ごめんなさい……」

 仔犬のように暁闇は項垂れる。上目で小夜の様子を窺いながら恐る恐る問いかけた。


「ねぇ、小夜さん。何かあったんでしょ?」

「どうしてそう思うの?」

「だって働き者の小夜さんが営業中にぼうっとしてるなんて、今まで無かったから」

 いつも小夜に歯の浮くような台詞ばかり言っている暁闇だが、しっかりと小夜を見てくれていることに嬉しく思う。

「実は一徹が辞めたの」

「急に?」

「うん。今朝、お父ちゃんに辞めるって言ったんだって。理由は分からないの」

 暁闇は少しぬるくなった茶をこくんと飲んでから言う。


「あいつは小夜さんを取り合うライバルだけど、無責任なことは絶対しない男だ。だからきっと深い訳があるのだと俺は思うよ。俺達を巻き込むまいとして、黙って去って行ったものの、本当は手を差し伸べて欲しいのかもしれない。そうじゃないかもしれないけど、あいつを調べない限りは分からないだろう? ということで、俺から提案なんだけど」

 暁闇はぐいっと身を乗り出す。先ほどのことがあったせいで、小夜はのけぞって無意識に彼から距離を取ってしまった。


「俺達であいつを調べてみない?」

「えっ、勝手に他所の事情に首を突っ込むような真似は……」

「他人との距離感を大事にする小夜さんらしい答えだけど、ここで止まるとあいつは絶対に戻ってこないよ。それは小夜さんも嫌だろう?」

 いつになく真剣な眼差しに、小夜の心の奥が見透かされているような気がする。

「会えなくなるのは嫌……」

「だろう? 俺が雪月花の用心棒をしながら情報を集めてみるよ」

「分かった。わたしはどうしたら良い?」

 暁闇は白い歯を見せて親指を立てる。


「俺の事を好きになってくれたらいいさ!」

「はいはい、そうですか……」

「まぁ三分の一くらいは冗談だとして。小夜さんの味方はいるって事を知ってくれればそれで良いんだ」

「暁闇……本当に良い人なんだね」

 小夜がふっと微笑むと、暁闇も口角を上げて笑う。


「あいつが居ない間に小夜さんの好感度を上げていくぞ~!」

「大きな声出さないで、恥ずかしいったら」

 雪月花の店内に乾いた破裂音と男の短い悲鳴があがった。

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