第19話

 雪月花が夜に屋台で営業している屋台通りには、いつもと変わらぬ数の店が構えていた。辻斬り事件で一時は営業を自粛していた店主達が次々と戻ってきているらしい。小夜は平和が戻ってきたことを肌で感じていた。


 屋台の近くには、その店の名が墨で書かれた行燈が置かれている。たくさんの店が通りに並ぶので、行燈の数もその分増える。よって、屋台通りは夜でも行燈の光で明るかった。仕事終わりの客は屋台で食事をしながら酒を飲み歌っている。

 雪月花でも夜は酒を出す。小夜達は朝の営業と違う献立を用意して夜を迎えている。夜の営業に出す料理は、酒に合うような味の濃いものを選ぶ。


 鶏の皮を油で揚げたものに柑橘の汁をかけたものや、ぶり大根のような主食になる料理以外にも、手軽に一品で楽しめるように、ほうれん草や人参を細く切り出汁で煮込んだものを醤油、砂糖で味を調え白ごまをかけたものなどを作り置きしている。

 特に人気なのは、きゅうりを醤油やごま油、唐辛子の調味料液に浸してたたいた品が人気だ。きゅうりのさっぱりとした味にぴりっとした唐辛子の刺激が酒を進めるのだとか。


 その日も雪月花の屋台は賑わっていた。小夜は客から注文を受けて料理を皿に取り分けて渡す。あちらこちらから客が料理を求める声が聞こえてくる。

「ううん、まずいなぁ」

 ふと隣で酒が入った瓶を覗き込んでいた父がぽつりと呟くのが聞こえた。

「どうかしたの?」

 料理を取り分けながら小夜が聞くと、父は顎に手を添えて悩むように言った。


「酒がもう無いんだ。私が買いに行くか、お客様には悪いが売り切れということにするか……」

「それならわたしが買いに行くよ」

「小夜、酒屋までは行燈があるとはいえ、屋台通りよりも暗い道を歩かないといけないんだよ? 行かせられるわけがないだろう」

 父が血相を変えて小夜の案を拒否していると、客が食べ終わった皿を洗い場に持って行こうとする一徹がひょっこりと小夜達の間に割って入る。


「それなら僕が付いていきましょか。酒屋の場所は知らんけど、僕ならお嬢ちゃん守れるし」

 一徹がそう言うと、父は少し考え、眉を下げながら頷いた。彼が一緒ならまだ行かせられる、というように一徹に視線をやりながら父は財布を小夜に手渡す。

「一徹君がいるからとはいえ、危ない道には近付かないこと。分かったね?」

「大丈夫だよ。お父ちゃんは鶏皮を揚げておいてくれる?」

「あぁ、分かったよ。気をつけて行ってらっしゃい」


 小夜は父に屋台の番を任せ、財布を握り締めながら一徹と共に酒屋へと向かう。屋台通りを離れ、小売業者が立ち並ぶ区画へと足を運ぶ。ほとんどは夜営業していないので暗いが、酒屋や火を灯すために使う魚油売りなどは、店の明かりをつけているので、ぽつぽつと薄明かりが道を照らしていた。


 雪月花がいつも酒を仕入れている酒屋は、区画の奥にある鶴亀屋だ。創業三百年以上の老舗酒屋であり、真朱国の君主へ献上したこともある酒屋である。雪月花とは長い付き合いなので、安い価格で酒を提供してくれているのだ。


「ごめんください、瓶を一ついただきたいのですが」

 店の入り口から顔を覗かせるが、誰もいない。仕方なく小夜は店の奥にまで届くように声を張り上げた。すると、ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、少し髪が乱れた姿の女主人が出て来た。

「あら、小夜ちゃん。こんな格好でごめんなさいね、髪を洗おうとしてたもんだから」

「間が悪い時に来てしまいましたね、申し訳ありません」


 女主人は髪の手入れをしようとほどいたものの、小夜が来てしまったので慌てて結い上げたのだろう。申し訳ない気持ちになりつつ、小夜は酒瓶を一つ買い、酒屋を出る。


「女の人って髪の毛の手入れ大変そうやんな」

 酒の入った瓶を軽々しく片手で持ちながら一徹は小夜に聞いた。瓶の中には酒がなみなみと入っていて大変重いはずなのだが、一徹は重さを全く感じさせない。

「うん、結っている髪を解いて、櫛で埃を取り除いてから、水と石鹸で洗って、乾いた布で髪を乾かさないといけないの。大変だから月に一回しかやらない人もいるよ」

「月に一回か。大変そうやけど、汗とかで頭かゆくなりそうやなぁ。お嬢ちゃんはいつも石鹸の匂いするよな?」

 一徹はそう言いながら鼻を小夜の頭に近付けてくる。恥ずかしくなって小夜は一歩、彼から距離を取った。

「わたしは毎日洗ってるから。お母さんもそうしていたし」

 彼に赤くなった顔を見られないよう、そっぽを向きながら答える。


 一徹は「そうか」とだけ答えると、黙って歩き続けた。いつもは気にしない沈黙が今の小夜にとっては、心臓を跳ねさせる。黙っていると、彼のことが気になって仕方がない。気になると鼓動が早くなるし、顔が火照ってしまう。どぎまぎしながら小夜が歩いていると、目の前に人影がふっと現れた。


 夜の帳で顔がうまく見えないが、一徹が警戒するのが伝わって来る。

「淡雪」

 目の前の人物は呼んだ。とても低く静かな声で名を呼ぶ。

(誰の事?)

 小夜は怪訝に思うが、「淡雪」という言葉を聞いた一徹は殺気を隠さなかった。


「何で……何でお前がここにおるんや、枯野かれの!」

 一徹は吠えるように目の前の男に向かって叫ぶ。ぎらりと光る眼は、いつもの優しい彼ではないような気がして小夜はびくりと体を震わせた。

「この前捕まった辻斬りがうちの組に情報を流してくれたんや。凍雲組いてぐもぐみの若頭が紅鳶におるってな」

 男は一歩、また一歩と少しずつ小夜達との距離を縮めてくる。行燈の光に照らされた男は、すらりとした長身で黒く長い髪を後ろで一つに束ねて流していた。深い紺色の瞳には何の感情も浮かんでおらず、光すら灯っていない。整った顔立ちは恐ろしいほど冷たい表情を作っている。


「辻斬りって……閃って奴か。お前ら情報を受け取った対価にそいつを逃がしたんやな?」

「逃がしたで。役人に金握らせたらすぐ放したわ。まぁ、俺がそいつを後で始末したけどな」

 枯野と呼ばれた男は、冷たい表情を歪め喉の奥を鳴らした。それが笑っているのだと小夜には分からなかった。


「俺がここにおる意味は分かってるな? 頭はお前の帰りを待ってはる。はよ帰れ」

「帰らん言うたら?」

「無理矢理連れて帰れって言われてる。腕の一、二本くらい無くなってもええわってな」

 枯野は淡々と答える。どれだけ恐ろしいことを自身の口で言っているのか、まるで自覚していないかのようだった。彼の空虚な目が小夜を捕らえた。はっと息を呑む時にはもう、小夜の細い首は彼の両手に掴まれていた。


「この女はお前の想い人か? もしそうならちょうどええやん。お前を連れ戻す材料が手に入ったわ」

 ぎり、と枯野は手に力を込める。小夜は恐怖のあまり呼吸をすることも出来なかった。危害を加えられそうになる小夜を見た一徹は、枯野を怒りの形相で睨みつける。一徹の紫色の瞳は怒りで爛々と燃えていた。


「お嬢ちゃんに……手を出すな」

 ふうっと息を吐くように静かに言い放たれた言葉は、激しい怒気を含んでいて彼が尋常ではないほどに怒っていることが分かった。

 枯野は一徹を見ても怯むことなく、むしろ楽し気な口調で答える。

「お前が素直に帰ってきたら何もせえへんわ」

「お前らやくざ者の言葉なんか信じられるわけないやろ」

「ふん、お前だってやくざ者やろうが」


 一徹と枯野は黙り、睨み合う。ぴりりと空気が揺れたような感覚がした。

「父さんは……紅鳶に来てるってことやな」

「あぁ、居てはるよ。お前とお前のお袋さんを探してはるわ。それも血眼になってな。総動員でお前らを探してるよ」


 枯野は喉を奥を鳴らすと、小夜の首に回していた手を離した。やっと空気が肺に入って来た。せき込む小夜に駆け寄ると、心配そうに背中をさすってくれる。

 枯野は一徹を面白くなさそうに見下ろしていた。つまらなさそうな態度を隠すことなく、ため息をつきながら言う。

「よう考えろよ」


 それだけを言い残すと枯野は消えた。素早い身のこなしは只者ではないことを告げている。小夜は一徹の温もりを感じながらも脳裏に浮かぶ言葉が離れなかった。


(凍雲組? 若頭? それに淡雪って……貴方は何者なの、一徹)

 口にしたかったが喉がかすれて言葉が出ない。小夜は落ち着くまで一徹に背中をさすられていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る