第17話
(あの女の人は一体誰なのよ! っていうか、別に遊んでいてもわたしには関係ないけど。でも、でも……)
雪月花に向かう足はほとんど地団駄を踏んでいる。履物に飛び散った砂がつくのも構わず、小夜はずんずんと歩いていく。彼女の心を占めるのは先ほどの光景だった。
何度も脳裏に浮かんでは小夜を苛立たせていくのだ。
だが、怒りの理由が分からない。どうすれば良いのかも分からない。だから余計に小夜は苛立ちを抑えきれなかった。
(どうしてわたしが怒らないといけないのよ……)
はぁっと大きく息を吐く。小夜は風に取られた髪を手で押さえながら辺りを見回した。
「いつの間にか大通りに来ちゃったのね」
自分と葛藤する事に夢中だった小夜は、気がつけば店が立ち並ぶ大通りへと足を運んでいた。紅鳶の街は他の都市に比べても大きい。格子状に整理された道の中でも、馬や隊商が通れるほどの幅が広い通りを全て“大通り”と呼ぶ。大通りには多種多様な店が軒を連ねており、紅鳶の住人はもちろん、朱宮へと向かう旅人や隊商で賑わいを見せるのだ。
雪月花のある椿区画も今いる大通りのように人で賑わっている。人通りの多さには慣れているはずの小夜ですら、酔ってしまいそうなほどだ。
椿区画の店では取り扱っていないような物珍しい品をあちらこちらで見つける。しまいには、一徹への苛立ちをすっかり忘れて店を眺め歩く事を楽しんでいた。
(わたしのお財布を持っていたら散財しちゃいそうになるかも)
あまり流行りものに興味を持たない小夜でも、心が弾むのを感じている。今の手持ちは大吉から回収した店のツケ代のみ。さすがに店のお金に手をつけるわけにはいかないし、そうするつもりも無かったが、小夜は買えない事を少し残念に思った。
「あれ、お嬢ちゃん?」
せっかく腹が立たなくなってきたというのに、小夜の心をかき乱す張本人は間が悪い時に姿を現した。
小夜が振り向くと、にこにこと眼鏡の奥の目を細めて笑う一徹がいた。手をひらひらと振り、小夜との距離を縮める。
彼の悪気のない笑みを見ると苛立ちが再び心を覆い尽くそうとする。小夜は一徹を無視して歩みを進めた。
「なぁなぁ、何で怒ってんの?」
しかし、一徹は全く気にする様子もなくぴったりと小夜についてくる。足の長い一徹にとって、小夜の早歩きは普通に歩くのと同じらしい。涼しい顔をして隣にいる一徹を見上げて、嫌味たっぷりに小夜は言ってやる。
「さっきの女の人の所へ行けばいいんじゃないの?」
棘のある言い方に一徹はさらりと答えた。
「あぁ、護衛の仕事は終わったで」
「護衛? あの人を?」
小夜は首を傾げた。あまり遊女を護衛するというのは聞いた事がない。何故なら遊女は店から出ることがないからだ。護衛というほどではないが、店の男に付き添われ客のところへ出向く花魁道中があるというのは聞いたことがあるが、まさか先ほどは違うだろう。
「せや。錦木花魁が贔屓の金貸し屋に呼ばれたらしいんやけど、屋敷は遊郭の外なんよ。今までは店の下男に付き添われとったらしいけど、この前知らん男に襲われかけてたらしくて。たまたま夜遊びから帰ってきた岡っ引きが間に入ってくれたらしいんやけど、腕の立つ人に護衛してもらわな怖いっちゅうことで僕に白羽の矢が立ったんや」
「なんだ、そうだったの」
小夜はほっと胸を撫でおろす。何故、安心するのかは気がつかないままだった。
「でもどうして襲われたのかしら……? 確かに遊郭のあたりは他に比べると、喧嘩や盗みは多いと思うけど」
「金貸し屋の奥さんが錦木花魁をよう思ってへんのやと。きっと奥さんが雇ったごろつきやろうな。旦那の女遊びが気に食わへんとか、花魁に子どもが出来たらどうしようとかいっぱい理由はありそうやな」
「そうなのね……夫婦にも色々あるわけね」
「うん、大人の世界ちゅうことやな。ところでお嬢ちゃんはこの後用事ある?」
一徹の言葉に小夜は思い返してみる。雪月花の夜営業の準備にはまだ時間はあるし、店の掃除はきっと父が終わらせているだろう。いつもであれば、店に出す新しい献立を考えているのだが、最近はいい案が思い浮かばなかった。
(――要するに暇ってことなんだけどね)
なんて思いながら小夜は首を横に振り、一徹に答えた。
「何もないけど、どうかした?」
すると、一徹は花が綻ぶように笑うと大通りの端に真っ直ぐ立ち並ぶ店を指差して告げる。
「良かったら一緒に買い物でもせえへん?」
きっと一徹は何気なく誘ったのだろうと思う。だけど彼の言葉は小夜の心に花を咲かせる。小夜の口角は緩む。今、どんな表情を浮かべているのか自分でも分からない。嬉しさを噛みしめながら小夜は頷き、一徹と共に大通りを歩き出す。
「なんか機嫌戻ったみたいで良かった。さっき何で怒ってたん?」
小夜の態度が柔らかくなったことに一徹は安心したのだろう、彼の方を見るとほっとしたような顔をしていた。
(なんでってわたしにも分からないんだよ)
正直に伝えようと口を開くが、喉元で引っかかってしまう。
(本当に、わたしは何で怒ってたんだろう?)
一徹が誰とどこで何をしていようが小夜には関係ないことだし、口を出す権利はない。
(彼が遊郭に出入りしているのが嫌だったの?)
自分に問いかける。今回は護衛の仕事で遊郭を訪れていたが、彼が自身の趣味で色街を楽しんでいても小夜には関係ないことだ。では一体なぜ? どうして自分の心はこんなにもざわめくのか。
「一徹が他の女の人と居るのが嫌だった……。それにわたしの知らない一徹がいることも嫌だったのかも」
ぐるぐると廻る思考の海にいつものように身を任せていると、無意識のうちに言葉が出ていた。今、自分はとんでもない事を言ってしまったのではないか。はっとして一徹を見ると、照れくさそうにはにかむ彼の顔が見えた。
「なるほど~嫉妬してたんやな。お嬢ちゃんは僕のことがそんなに好きか~」
「す、好きって……!!」
否定しようとするが言葉が続かない。それはつまり――。
(わたしは一徹が好き……なんだ)
一度、自分の気持ちを認めてしまうと心がざわついていた理由も分かった。急に彼の方が見れなくなってしまう。どんな顔をして一徹と話していたのか、どう接していたのか途端に分からなくなった。
「あんまり冗談言うと旦那にしばかれるからお嬢ちゃんからかうのはこの辺にしとくわ」
一徹はそう言いながら頭の後ろで手を組んで歌を口ずさむ。彼の白い髪が陽光に当たってきらめく。透き通った紫の瞳は何を映しているのだろうか。
(一徹にとっては冗談なのね)
はぁっと大きくため息をつく。自覚したばかりの恋心は柔ですぐに傷付いた。しかし、小夜は頭を振り気持ちを切り替えようと自身を鼓舞する。
(また不機嫌になってしまったらせっかくの時間を楽しめなくなるわ。切り替えが大事なんだから、わたし!)
小夜の葛藤を気付いているのかいないのか、一徹は彼女に歩みを合わせながら店を見て行く。ふと立ち止まり、熱心に品と小夜を見比べたかと思うと、目を輝かせながら小夜に話し掛ける。
「なぁ、この簪お嬢ちゃんに似合うと思うねんけど」
一徹が指をさしたのは一組になって売られていた玉簪とくしだった。
一本軸の玉簪は棒の部分が黒く塗られており、艶やかに光を反射する。先端についている赤く透き通った硝子玉にはナンテンの実が刻まれていて、職人の繊細な技術が光っていた。手に取って眺めてみると硝子玉の中には小さな鈴が入っていた。揺らすとちりんと可愛らしい音が鳴る。きっと髪につければ歩く度にこの音が鳴るのかと思うと、装飾品に興味があまりない小夜でも素敵だと思った。
「この玉簪は黒漆で光沢を出しております」
店主が簪をまじまじと見る小夜と一徹に向かって説明をする。
この美しい光沢は漆塗りによるものだったのだ。漆塗りされた簪は高級品だ。
「こっちのくしもお嬢ちゃんの髪によく合いそうな色やなぁ」
玉簪と一組になっていたくしの方を一徹は指差した。深く濃い赤色に金のスミレが見事に咲き誇っている。こちらも漆塗りのようで美しい光沢を身に纏っていた。
どちらも非常に美しいが、値段を確認してみると小夜の半年分のお小遣い分だった。値段に躊躇しているのが伝わったのか、店主はにこやかに小夜へ営業用の笑みを向けた。
「お値段は張りますが、今の
店主の話はまだ続きそうだったが、小夜はもう購入することは諦めていた。出掛ける時に使う簪は持っているし、普段は髪を下ろしているので必須ではない。くしだって既にあるし、まだ使えるのだ。
美しく丁寧に作り込まれたこの品は欲しいと言えば欲しいが、自らの金で買うほどではないと小夜は思う。
(それにわたしお財布持ってないし)
持っているのは大吉から回収したツケ代のみ。さすがに店の金に手をつけるわけにもいかないので、無一文に近しい状態だ。冷やかししたのは申し訳ないが、冷やかし程度の客ならばここではたくさんいるし、店主も分かっているだろう。
何とか話を切り上げてこの店を出たいと思っていると、一徹が小夜に耳打ちをする。ふわりと彼の甘くほろ苦い香りが小夜の鼻孔をくすぐり、心臓をとくんと弾ませた。
「お嬢ちゃん、あの甘味処に先行っといて。僕は適当にこの場をおさめて合流するから」
彼は、断るのが小夜の性格を理解してくれているようだった。一徹と視線を重ねると、互いに小さく頷き合う。小夜は手に持っていた玉簪を丁寧に箱へと戻す。一徹が品について店主に色々と質問している間に店を出て行った。
(はぁ~、何とか出られたな……あの簪とくし本当にきれいだったな)
名残惜しいと言えばそうなのだが、自分には勿体ない品だとも思う。それこそ、錦木花魁のような妖艶で大人っぽい美女がつければより映えるだろう。
一徹が指定した甘味処に入り、先に席に座る。辺りを見ると様々な人で賑わっている。この店の目玉商品はあんみつらしい。こだわりの小豆を使ったあんこが美味しいのだと恋仲らしい隣の席の男女が話しているのが聞こえた。
ちらりと横目で見やると、周りに人が居ることを気にすることなく、お互いの口にあんみつを運びあっていた。小夜はびっくりして固まってしまったが、二人の顔はとても幸せそうに綻んでいる。
(わたしも一徹と恋仲になれたら……)
芽吹いたばかりの恋の新芽は力強く成長をしていた。
小夜はまた思考の海に溺れそうになる。運ばれて来た湯呑を持ち、ぐいっと中の茶を口に含んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます