第三章
第16話
三人の男性が辻斬りに殺された凄惨な事件が起きてからも、この町は変わらぬ顔を見せていた。小夜がいる雪月花もいつも通りに賑わっている。
「ありがとうございました!」
最後の客を店の出入り口で見送ってから、小夜は着物の裾をまくる。濡れた拭き布を台所から取って、先ほどまで食事に使っていた長机を拭いていく。
今日は珍しく一徹がいない。小夜と父だけで店内を清掃し、片づけていく。
(一徹が居ないと寂しい。今までお父ちゃんと二人でお店をやっていたのに、寂しいと思うなんて、わたしは一徹のいる雪月花にすっかり馴染んだのかな)
あの優しくおしゃべりな一徹が居ないと店内はとても静かだ。机を拭く布が擦れる音と炊事場で食器を洗っている音だけが響く。昔はこの音が当たり前だったのに、今は珍しく感じる。
「小夜、ちょっといいかい」
「なあに?」
炊事場の方から顔を出した父が声を掛ける。小夜が顔を上げると、父は手ぬぐいで濡れた手を拭きながら話し始めた。
「大吉さんの所に行ってツケを回収して来てくれないかい」
「分かった」
大吉というのは雪月花の常連客で、いつも泥酔してやって来るのだが、財布を持って来ていない事が多い。遊郭に勤めている彼は、夕方から早朝まで仕事で忙しい為に、朝食くらいしか満足に食べられないと言う。そんな彼を不憫に思った父がツケ払いを了承しているのだが、定期的に小夜が大吉の家に行き溜まっていた支払いを済ませてもらうのだ。
小夜は最後の長机を拭き終えると、汚れた拭き布を父に手渡す。
「それじゃあ、行って来るね」
「あぁ、気をつけて。本当は私が行った方が良いんだが」
「気にしないで。お父ちゃんはこれから椿区画の会合があるでしょ」
父はこれから椿区画にある店の経営者だけの集まりに行かねばならなかった。違う業種から聞ける世の情勢は、非常に有益であるし、情報をいち早く手に入れることが出来る。それに、人との繋がりを持っておけば何かあった時、手を差し伸べてもらえる。その為、真朱国の商人達は自分達の繋がりを大事にしているのだ。
余程のことがない限り、会合には参加しておくべきである。小夜は、父に心配をさせまいと笑みを浮かべて店を出た。
大吉は遊郭の入り口『大門』付近に作られた居住区に住んでいる。ここでは、遊郭で働く下男や、年季があけたものの嫁の貰い手がなかった元遊女が住んでいた。小夜が住んでいる中心部に比べて、治安はあまり良くないが今は朝ということもあり、大門付近は寝静まっていた。
今は人っ子一人いないが、夕方にかけて賑わってくる。小夜は賑わう町を想像しながら大吉の家へと急いだ。
彼が住んでいるのは、古びた長屋である。玄関は建付けが悪いのか歪んでいて、隙間が出来ていた。窓にある障子はところどころ穴が開いている。
(大吉さん、忙しくて家の修繕が出来ていないのかな)
障子紙を張り替える余裕がないのだろうか、と考えながらも小夜は控えめに扉を叩く。
「ごめんください、雪月花ですけど」
声をかけるも中から人の気配はしない。留守なのだろうか、と思い長屋をぐるりと見て回る。長屋の裏手に回りかけた時、誰かの足が出ているのを見つける。
何かあったのか、まさか辻斬りの被害者かと小夜は慌てて駆けよる。
「ぐう、ぐう……」
そこには地面に突っ伏して眠っている大吉がいた。
「なんだ、大吉さんか。びっくりしたわ」
また新たな辻斬りが出たのかと気が気でなかった。小夜は大きくため息を吐き、ほっと胸を撫でおろすと気持ち良さそうに眠っている大吉の体をゆする。
「大吉さん、こんなところで寝ていては風邪を引きますよ」
「ううん? あれ、小夜ちゃん。オレ、店で寝てた?」
「いいえ、大吉さんの家ですよ。正確には家の裏手ですけど」
寝ぼけまなこを擦りながらふわぁっと欠伸をする大吉に答えてやると、辺りをきょろきょろと見回し肩を落とす。
「今回こそはちゃんと家に帰れたと思ったのに」
「真っ直ぐ家に帰れたこと無かったものね」
小夜が呆れたように言うと、大吉は気まずそうに笑った。
「いつもどこかの道端で寝ちゃって奉行所の世話になるからさ……この前、とうとう白露の同心に“今度、泥酔して帰れなかったら井戸に落とすからな”って怒られちまって。次はちゃんと帰らなきゃって思ってたんだけど」
小夜は大吉の話を聞きながらそばにある井戸から水を汲んで彼に渡してやる。冷たい井戸水をぐいっと飲み干すと、大吉のとろんとした目が少し開いた気がした。
「でも、まぁ家にはほとんど辿り着けたからいっか」
大吉はくしゃりと笑った。小夜は呆れつつ聞いてみることにした。
「どうしていつもそんなに酔っているんです?」
彼は立ち上がり、服についた土埃を手ではらいながら答える。
「仕事柄、遊郭に来た客から酒を飲まされることが多くてさ。オレ、酒に強い方ではないからすぐべろんべろんになってしまうんだ」
いくら仕事とはいえ、家にちゃんと帰れないほど酔わされるのは可哀そうだと思う。大吉がいつも酔っぱらっているのは、彼が仕事を頑張っている証拠だったのだと小夜は感じた。
「ところで小夜ちゃんが来たってことは、溜まってたツケの回収だよね? ちょっと待ってて、家の中に財布があるから取って来る! 家の中は汚くて女の子を入れるわけにはいかないから、申し訳ないけど玄関で待っててくれるかな」
大吉はそう言うと、まだ酒が抜けていないのかおぼつかない足取りで玄関の方へと歩いて行く。心配になりながら小夜は後ろをついていった。
大吉は玄関に辿り着くと、歪んだ扉を力づくで開ける。ぎいぃと耳を塞ぎたくなるような甲高い音を響かせながら扉は動く。玄関には草履や履物が散乱している。ちらりと見える部屋の方も、布団や着物があちこちに積み重ねられていた。
彼は床に置かれた荷物を踏まないよう、軽業師のように避けながら箪笥の方へ向かう。引き出しを開け、中をごそごそと漁る。あれでもない、これでもないと数分探した結果、ようやく財布を見つけたのだった。
「ええっと、これで足りるかな?」
中から銭を出し小夜の掌に乗せる。銭を数えツケが払われたことを確認する。
「はい、ちょうどいただきました。大吉さん、あまり無理なさらないでくださいね」
そう言うと大吉は嬉しそうに笑ったのだった。
「ありがとう、小夜ちゃん。また雪月花に寄らせてもらうよ……ふわぁ、じゃあオレはちゃんと布団で寝るとするかな。明るい時間帯だから大丈夫だろうけど、帰り道は気を付けてね」
大吉はそう言うといびつな角度になっている扉を、また力づくで動かして閉めた。
受け取った銭を懐から出した財布にしまい込み、大門付近を背にするようにして小夜は歩き出した。
「あれ、お嬢ちゃん?」
聞きなれた声が背後からする。気のせいかと思いながらも小夜は、無意識のうちに振り返っていた。
すると、そこには笑みを浮かべて手を振る一徹がいた。隣に妖艶な美女をぴったりとくっつけて。
「こんなところで会うとは奇遇やな。この辺はお嬢ちゃんが来るような場所やないで?」
一徹はにこにこと笑みを浮かべながらいつも通りに話し掛けて来る。一徹の腕に絡みつくようにして体を密着させている知らない女性は、小夜を見つめるとふっと口角をあげた。はだけた胸元は彼女の女性らしい体つきを連想させる。
(一徹、遊郭の方から出て来たよね。それで隣にいる人は遊女だよね?)
小夜はぐるぐると思考を巡らせる。一徹がなおも話し掛けていたが、彼女は返事をする気は無かった。もやもやとした気持ちが心を覆い隠すように溢れてきては、小夜の神経をぴりぴりと刺激する。理由も分からない苛立ちに小夜は戸惑いつつも、制御することは出来なかった。
「って、お嬢ちゃん? どうしたん、さっきから無視して。僕、今日はずる休みとちゃうで。ちゃんと旦那に話してるから。なんで怒ってんの?」
一徹の言葉に小夜は答えることはなく、ただ静かに聞いた。
「ねぇ、一徹。隣にいる方はどなた?」
彼は小夜の言葉にようやく女性を見やった。しかし、絡まれた腕を振りほどこうとはしない。
「あぁ、この人は錦木花魁や。遊郭の中でも美しい言われてる『三大遊女』のお一人や」
一徹に紹介を受けた錦木は、小夜をからかうように一徹の体に胸を押し付ける。
「錦木といいんす。どうぞよろしゅうお願いいたしんす」
艶っぽい花魁独特の話し方は、彼女の色気をより一層際立たせる。
「主さんは一徹さんとどういう関係でありんすか」
ぽってりとした瑞々しい唇。化粧っけがなくてもこの美しさなのだから、着飾れば大層な美人になることだろう。三大遊女に数えられるのも分かる。
しかし、彼女の栗色の瞳は挑戦的に小夜へと向けられていた。まるで警戒するようで挑発しているかのようだ。
「わたしは一徹が用心棒として働いている煮売り屋の娘です」
そう言うと錦木はくすりと笑った。妖艶な微笑みはどこか八重霞を彷彿させる。
彼女は猫のようなしなやかな動きで一徹にすり寄った。
「ただの仕事仲間でありんすね。あちきは彼にようしてもらってやす、一徹さんは良い人でありんしょう」
小夜は錦木の挑発に嫌な気持ちが湧き出てくるのを感じた。
(何で苛立つの? わたしには関係ないことなのに、どうして腹が立つんだろう)
泣きそうになりたい気持ちを堪え、小夜はぶっきらぼうに返事をする。
「そうですね、わたしにはどうでもいいことですけど。仕事があるので失礼します」
くるりと踵を返し、走るようにして小夜はその場を去る。訳も分からないまま、泣きたくなる気持ちをぐっとこらえたのだった。
**
小夜が走り去ると、錦木は一徹から体を離した。彼は不思議そうに首を傾げる。
「お嬢ちゃん、機嫌悪そうやったな。何でやろ?」
全く分からない、という顔で考え込む一徹に錦木はふっと笑った。
「あなたが悪いのよ」
艶っぽく廓言葉を話していた様子とは打って変わって、錦木はばっさりと言い切る。髪をかきあげ、着物を整えるとそそくさと歩き出す。
「僕、話しかけただけやで?」
「そこまで鈍いとはあの子も翻弄されるわね。でも、まぁそっちの方が青春っぽいかも」
「どういうこと?」
「とりあえず、あなたはさっさと依頼を終わらせてあの子を追いかけなさいってこと」
錦木は笑って言うと、迷いない足取りで歩みを進める。その後ろ正解をひねり出そうと頭を抱えながら一徹が追いかけたのだった。
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