第13話

 小夜達が雪月花に戻った頃には、既に暁闇がいた。ずぶ濡れになったらしく、父に拭き布を渡されている。

「なんで小夜さん達は濡れていないんだ? あんなに雨が降っていたのに」

 不思議そうに問いかけながら暁闇は水が滴る髪を乱暴に布で拭いていた。

「暁闇君はかなり濡れていたのにね」

 父は言いながら着替えを渡してやる。


 一徹は笑いながら小夜と目を合わせた。

「秘密やな」


 その日の夜にはもう雨は上がっていて、分厚い雲も散っていた。月が隠されることなく紅鳶の空に君臨している。小夜は自室の窓から見上げながら深く息を吐く。

 作戦はまだ続いているのだ。昼間、町を歩いた時に来た着物は脱いでいる。化粧を落とし、たくさん飾っていた簪を抜いて――その中の一つだけを残し――、姫君が普段着にしている着物に着替えた。ただ一つだけの簪を髪にさして小夜は店舗の方へと向かった。


「準備が出来たよ」

 店舗には一徹と暁闇、八重霞がいた。これから小夜が行う事への不安に耐えられない父は自室にいる。

「上出来ね」

 八重霞は眠たそうな目を半月のようにして笑った。


「じゃあ確認するわ。これから三人で犯人が好きそうな人通りのない裏路地へ向かう。そこで犯人をおびき出すのだけど、岡っ引き数十名と白露を付近に配置させているわ。でも、近接戦となれば二人に対応してもらう事になるから油断はしないで」

 小夜達は神妙な面持ちで八重霞の指示を聞いていた。昼間の時よりも緊張しているのが分かる。いや、緊張だけではない。恐怖もだ。握った拳が震えているのが分かった。


(わたし、怖いんだ……)

 ここまで来て何を、と言う自分がいる。それはそうだ。もともとは自分から言い出したことなのだから。だが、恐怖を感じるなと己に言い聞かせようとしても出来ないものは出来ない。所詮、小夜は何の変哲もないただの町娘でしかないのだから。

「お嬢ちゃん、大丈夫や。僕がついてるから」

 ふわっと温かいものが小夜の拳を包み込む。それが一徹の手だと分かるまで時間はかからなかった。彼に視線をやると、いつもの柔和な微笑みを浮かべて優しい眼差しをこちらに向ける。


(そうだ、一徹がいるんだもの。大丈夫)

 何度も言い聞かせていた大丈夫という自分の言葉よりも、はるかに安心させる言葉だった。一徹の温もりに小夜の恐怖は解きほぐされる。震えていた手はいつの間にか力強く拳を作っていた。

「ありがとう、一徹」

 小夜が礼を言うと、安心したかのように彼の温もりは離れていく。少しだけ残された温度に名残惜しさと寂しさを覚える。

(あれ、何でそう思うんだろう)

 もっと触れていたいと思うのは何故だろう。物思いに耽りそうになっていた小夜の意識を戻したのは、八重霞の声だった。


「何か質問は?」

 彼女の言葉に小夜達は首を横に振る。

(今は作戦に集中しなきゃ)

 意識を切り替え、目の前のことに集中しなければ。小夜は軽く頬を叩くと、息を大きく吸い込んだ。


 雪月花を出ると、冷たい夜風が小夜の体を撫でていく。足元から夜の冷たさが染み込んできて、思わず小夜はぶるりと身震いする。念のため、昼間と同じように小夜達は顔を隠している。明かりの少ない夜道ではしなくても良いのかもしれないが、出来るだけ昼間と近い恰好にして確実におびき寄せたいという八重霞の意見からだった。

 道はそれぞれの店前に置かれている店名の入った行燈と、一徹と暁闇が持っている提灯だけで照らされている。夜を照らすには心もとない明るさだ。すぐ近くに辻斬りの犯人が忍び寄って来ても気付かないかもしれない。そう思うと、小夜は自分がやっている事の恐ろしさに震えあがりそうだった。


(本当に来るのかな。もし、来なかったら……)

 来なければ次の策を講じる必要がある。その間に犠牲者が出るかもしれない。犯人が持っているという『信念』を捨てて、無差別に襲うようになったら。父が狙われたら。一徹や暁闇、小夜の大事な人達に刃が届いたら。

(そうなるのは嫌。お願い、今日で捕まえたい)

 本心は来て欲しくはない。しかし、ここで捕まえなければならない。小夜は恐怖と戦いながら辻斬りが現われるのを待った。


 その時が来たのはあっという間で、小夜の祈りが聞こえたかのようだった。一徹が小声で「来た」と呟く。

 目の前にゆらりと蠢く黒い影がうっすらと浮かび上がる。少しずつ近付いてきて立ち止まる。行燈の灯りで少しだけ照らされた黒い影は、その正体を人であることを辛うじて明かした。

(これが辻斬り……!!)

 一目で分かった。風貌ではない、そんなものは行燈の灯りだけでは見えない。小夜に正体を知らせたのは『臭い』だった。鉄の臭い。小夜も嗅いだことがある。煮売りの料理を作る時に、包丁で指を切った時を思い出す。ざっくりと皮膚を裂いて鮮血がどくどくと流れ出すと同時にむわりと鼻にこびりつくような鉄の臭い。血だ。


 目の前の影からは血の臭いがこびりついている。新しいものも古いものも、今まで斬ってきて人の数だけの臭いがするのだ。おぞましい臭気を漂わせて影はまた一歩、近付いてくる。

 一徹と暁闇が警戒している。暁闇はいつでも刀を抜けるよう、腰に下げている愛刀に触れていた。一徹は眼鏡越しに鋭い視線を影に向けている。


「止まれ、それ以上近付くな。これは警告だ」

 暁闇がはっきりと告げる。影にも聞こえたはずだが、耳を貸すつもりはないらしい。ゆっくりとおぼつかない足取りで小夜達の方へ近づいてくる。

 影はやがて小夜達の間合いに入った。行燈と提灯の明かりでさらされたのは、長身の男の姿である。着ている着物はところどころ破れているうえ、夜の冷たさには耐えられなさそうな薄い生地だ。着替えはないのか、ずっと身に着けているようで垢や汗が染み込んで色変わりしている。血以外の悪臭も漂わせる男は、ぼりぼりと無造作に伸ばした髪に覆われた頭をかく。


「酷い臭いやな、兄ちゃん風呂入ってる?」

 一徹が挑発するように問いかける。しかし、男は無言のままだった。ゆっくりと腰に下げている刀を抜き取ると、いきなり小夜めがけて踏み込んでくる。

 それからはあっという間であった。気が付けば小夜は、一徹に抱き寄せられて後方へ移動していた。男の刀は暁闇が防いでいる。


 金属がぶつかり合う音が響く。時折、聞こえる押し合いの音に包丁を研いでいる時の音に似ているな、と小夜は思った。

「あの辻斬りなかなかやるやんけ」

 一徹は暁闇と対峙している男の腕を評価する。剣術の心得がない小夜には、暁闇達の動きがどのように凄いのか分からないが、しきりに一徹が感心しているということは、暁闇も相手も手練れの者なのだろう。


 だが、お互い実力が等しいということは決着がつくまで時間がかかる。どちらかの体力が尽きるまで打ち合いを続けることになるのだろうか。薄闇の中で舞う暁闇の額には汗が噴き出しているように見える。刀同士がぶつかる音に加えて息が上がる音も聞こえるので、暁闇が体力を消耗している事は確かだ。


 小夜が一抹の不安を覚えた時、場違いな声が隣から響く。

「さてと、助けてやろうか」

 隣を見上げると、何故か一徹が笑っていた。暁闇が命がけの打ち合いをしているというのに、どこか楽しそうなのである。彼の態度を不思議に思っていると、一徹は胸元から煙管を取り出した。まさかこの状況で煙草を吸うのか、と驚いた小夜が目を丸くしていると、一徹は葉を詰めていない煙管を吸い息を吐いた。


 葉が詰められていない煙管を吸っても煙は出ないはずだった。しかし、一徹の口からはゆらりと煙が立ち上っている。煙は細く天へと向かっていく。

「――夢うつつ」

 一徹が呟く。小夜の方に顔を向けて力強く言い放つ。

「絶対そこ動かんといてな」

「わ、分かった」

 小夜は何度も首を縦に振る。一徹は小夜から離れると、暁闇に加勢した。


 一徹が離れれば、男の目的である小夜に危害が加わるのではと感じたが、男は小夜を一瞥もしない。さっきまで暁闇と打ち合いをしながら、殺気立った目を小夜に向けていたはずの男が。

(見てないというより見えていないようだわ……)

 小夜は首を傾げる。よく目を凝らしてみると、先ほど吐いた一徹の煙が自分を守るかのように辺りを漂っていた。

(何かの術なのかも)

 半分妖と言っていた一徹なのだから、おそらくこれも彼に流れている妖の血が成す技なのだろう。

(でもこの前は雷雨を操っていたよね)

 妖は一つの力に特化しているはずだ。水の妖怪なら水を操る事が出来る。しかし、妖は複数の力を保持する事は出来ないと、化け狐の和尚に聞いた事があった。だから水の妖怪は木々を操ることも、炎を操ることも出来ないのだ。


 この煙の効果を詳しく調べる事は出来ないが、雷雨を操る力とは別の能力であるとは確かだろう。

「一徹って何者なんだろう?」

 思わず声に漏れた彼への疑念に小夜はハッとする。

(わたしには踏み込む権利はないのに……)

 小夜の心に暗い影が差す。いくら親しくても人には踏み込んで欲しくない部分が必ずある。土足で踏み入るような真似は誰にもしてはいけない。小夜は強く自分に言い聞かせる。


 目の前で男と対峙する一徹と暁闇を見守る。男の刃は素早くかつ激しく二人に襲い掛かっていた。驚くことに男は二人同時に刀を振り回しているのだが、なかなか隙を見せない。大きく振りかぶった刀の切っ先を交わしきれなかった暁闇が、腕から鮮血を滴らせる。

(暁闇……!)

 言葉に出して名を呼びたかった。それをしなかったのは、ここで叫ぶと二人の邪魔になると思ったからだ。


 暁闇は腕を押さえる。男がとどめを刺そうと踏み込んだ瞬間、彼の背後を一徹が取った。後ろから羽交い絞めにするようにして、男の両脇に腕を通し拘束する。それからはあっという間の事だった。

 どこに隠れていたのか奉行所の岡っ引き達が暗闇の中、わらわらと出てきて一斉に男に飛び掛かる。男の両手には太い縄が括られていた。

 岡っ引き達が持っている提灯の明かりで場が明るくなる。男の顔もはっきりと見えた。

 黒い髪を腰ほどまでに無造作に伸ばし、ほとんど剃っていないらしい髭は顎下を覆い隠すようにして生えている。前歯は何本か抜けており、食いしばる彼の口元にはぽつりぽつりと影が見えた。ただ、ぎらぎらと殺気立つ目だけが異様に目立つ。


 男は自由を奪われたが暴れなかった。静かに一徹を見ると、キヒッと気味の悪い笑い声をあげて言う。

「お前知っているぞ。確か凍雲組いてぐもぐみの――」

 彼の言葉を遮るように一徹が冷たく言い放つ。

「やかましい、言い訳は奉行所でせえ」

 そう言うと煙管に葉を詰めて火をつける。大きく吸い込み、息を吐く。あの甘くほろ苦い香りが小夜の心をざわつかせた。

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