第11話
空はまだ夜の帳を上げきっていない。薄闇がまだ覆っている頃、小夜は布団から体を起こしていた。部屋の窓から外を見ると、冷たい空気が顔を撫でる。朝になりつつある時だけにしか触れられない、ひんやりとして透き通った空気。
まだ町は眠りについている。外からくる風に目を覚ました小夜は背伸びをして部屋を出た。彼女にとって明け方に起きる事は簡単なことだ。雪月花での仕事と同じ時間に起きるからである。
いつもはこの時間に起きて、その日に出す料理の下ごしらえを父と行う。早起きは父の仕事を手伝い始めてから数年続けてきたことである。
(八重霞様もういらしているかな)
今日は煮売りの仕事ではない。少しの緊張感を持って小夜は店の方へと向かう。
「あら、おはようさん」
「小夜おはよう」
床几に座って温かい茶を飲んでいた八重霞と、彼女に茶を出していたらしい父が小夜に気付く。
「おはようございます」
小夜は丁寧に頭を下げて八重霞を見やる。
「本日はよろしくお願いいたします」
夜も明けていないのに八重霞は化粧もし、髪を結い、見事な着物を羽織っている。いつ見ても彼女は美しいのだと感じると小夜は気おくれしてしまう。
(自分から言い出したことだけどわたしにお姫様の役が務まるのかな)
小夜はずっと町民の身分で生きてきた。同年代の女の子は化粧や着物、流行りものに興味を持っている。もっぱら彼女達の話題は、どこの店の化粧品が良かったとか流行りの装飾が施された簪を買えたとか。
だが小夜はあまり興味を持たなかった。着飾ることは自分にとって不必要だと判断したからだ。洒落た刺繍が施された着物も流行の簪も化粧品も、身に着けながら雪月花の仕事は出来ない。休日に好いた人と出掛ける時などはやってみたいと思うが、小夜にはそういった人がいない。
(地味なわたしが本物のお姫様の着物を着てもしっくりこなさそうだな……)
八重霞が持ってきた姫君の着物は、薄暗い店内でも美しく染められた色が見事に映えるほど立派なものである。きっと自分だと『着る』のではなく『着られる』がふさわしいだろう。
「じゃあ小夜ちゃん、お部屋借りるわね」
湯呑に入っていた茶をぐいっと飲み干すと、空いた湯呑を父に渡し、八重霞は立ち上がる。下女らしき女人に着物を持たせ、八重霞は小夜に続いて彼女の自室へと向かう。
「こちらです、狭いですけど」
「う~ん、女の子の部屋っぽくないわね」
ふすまを開けて中に入ってもらう。足を踏み入れると同時に八重霞は、必要最低限の家具しか置かれていない小夜の部屋に率直な感想を漏らした。
「もっと化粧台とか流行りの化粧品とか置いてあるのかと思ったけど」
「あんまり興味が無くて……わたしが身に着けても仕方がないですし」
すると八重霞は丸くて大きな目をさらに見開いた。
「何でそんな卑屈なの? 小夜ちゃん、あなたは美しい人よ。いいこと? お化粧っていうのは、周りに見せる為だけじゃなくて自分に自信をつける魔法でもあるの。今日はあたしがお化粧してあげるから魔法にかけられてみなさいな」
八重霞はいつの間にか下男に用意させていた鏡付きの化粧台に小夜を座らせた。鏡越しで彼女と視線が合う。鏡の中にいる美女は、彼女の言う通り表情から自信が溢れているのが小夜にも伝わる。もともと端正な顔立ちをしているのだろうが、化粧で自分の良さを最大限に生かしている。武器を手にした女性はこうも強くなれるのかと小夜は感じた。
「八重霞様は本当にお美しいですね」
小夜は鏡を通して目が合う彼女に、心の内を素直に明かした。八重霞はくすりと笑うと、口角を上げ悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうでしょう? でも、本当の姿はぶっさいくなオオハマグリ。そんな化け物でも絶世の美女に仕立て上げるあたしの技量なら紅鳶一、ううん、真朱国一の美女に仕立ててあげられるわ」
楽しみにしててね、と言う八重霞に小夜はいつの間にか心が弾むのを感じていた。
(八重霞様なら……)
それから小夜の部屋で八重霞と下女がせわしなく身支度を整えてくれた。髪を結いあげて簪をさす。小夜の白い肌におしろいがはたかれ、眉を整えられる。毛抜きによって不要な眉毛を抜き取る作業は、ちょっとだけ痛くてかゆみを伴う。鏡を見ていいわよ、と八重霞に言われてみると、眉毛を整えただけで一段と垢ぬけた小夜が映っていた。
(凄い。眉毛を抜くのは痛かったけど、こんなにも変わるんだ……!!)
驚きで言葉が出ない小夜に、八重霞はくすりと笑って言う。
「随分変わるでしょう? 小夜ちゃんは何もしていなくても十分美しい子だけれど、手を入れてあげるとより一層高みにいけるのよ」
今まで自分の容姿に興味が無かったが、八重霞の言っている事は理解できた。ここまで受ける印象が変わるとは。同年代の女の子がはしゃぐ理由もよく分かる。
(一徹やお父ちゃんが見たらどう思うだろう?)
そんなことを考えながら小夜は、八重霞の着せ替え人形となった。
瞼の上にきらきらと輝く粉を乗せ、目尻から少しはみ出るように紅が引かれる。形の良い唇にも紅が塗られ、妖艶な少女が出来上がった。
化粧が終わるといよいよ着付けが始まる。八重霞と下女の二人かかりで着付けをしてもらう。普段の着物ならもちろん一人で着られるが、姫君が着る着物は重く二人で着付けをしないと出来ない。
いつも姫君は何人かの女房によって着付けをされているのだろう、と考える。
「よし、出来たわ。鏡をみて御覧なさい」
八重霞の言葉に小夜は鏡を見る。鏡に映っている少女は、驚いているのか目を大きく丸くしていた。黒くおろしたままの髪は綺麗に結い上げられ、頭にささる簪が美しく煌めている。丁寧に化粧を施された顔は、町の素朴な娘から絶世の美女へと変貌した。
「うんうん、やっぱりあたしの見立て通りだわ!!」
嬉しそうに笑う八重霞は小夜の肩を優しく叩いて言う。
「さあ、店の方へ行きましょ。あなたが見せたいと思っている人がもういるはずよ」
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