第6話

 まだ日が昇りきらない時間帯。夜の帳はまだ覆っているせいで薄暗い。紅鳶の街は眠っているようで人の往来は少ない。しかし、この時間から小夜達の朝は始まる。朝の開店に間に合わせる為に仕込みをしなければならないからだ。


 小夜は父が市場から買い付けてきた獲れたての魚を鱗を剝がす。先ほど取れたばかりの魚は、目が輝いていて今にも動きそうだ。

 紅鳶は首都の周りに位置する湖に面している為、獲れたての魚が流通しやすい。新鮮な魚を新鮮なうちに調理し、最高の状態で提供するというのが父の考えである。


 黙々と作業していると、鱗が剥がれていく音以外に人の足音が聞こえて来た。

(何だろう? 珍しく騒がしいな)

 いつもこの時間は静かだ。小夜達が調理する音しか雪月花には響かないはず。複数人が慌てて駆けていく音が表の方から聞こえてきた。

 引き戸を開け、店の前に出る。何人かの男達が走って行くのが見えた。


(岡っ引きの方だ……事件でもあったのかな)

 走って行く男の中には、見慣れた顔もあった。岡っ引きらは奉行所の方向へと去って行く。鬼気迫る彼らの表情から只事ではないのだろうと察するが、小夜には何も出来る事はないのでいつもの日常へと戻っていく。


 事件があったと知ったのは、朝の営業が終わる直前の事であった。

 いつもの時間帯にやって来た暁闇が、浮かない顔をして床几にぽすんと座る。心ここにあらずといった様子で、快活な彼の笑顔は見る影もない。

「暁闇、どうしたの? 顔色が悪いけど」

 小夜は温かい白湯を湯呑に注ぎながら、呆然と座る暁闇に問いかける。

 彼は目の前に置かれた湯呑を手に取ると、まだ熱いうちに一気に飲み干す。


「小夜さん……お粥はあるかな」

「作る時間さえ貰えれば用意出来るけど。具合が悪いの?」

 いつもの暁闇ではない様子に小夜は心配になり、顔を覗き込む。血色の良かった肌は真っ白になっており、赤く瑞々しかった唇は紫色になっている。


「食欲が無くてさ。朝から大量の血と惨い仏様を見てしまって」

 絞り出すようにして告げた暁闇は、震える両手で顔を覆い隠す。瞼の裏に浮かぶ景色を見たくないというように。

 彼は岡っ引きになってからまだ二年ほど。今まで紅鳶が平和だった事もあり、彼が見るのはスリや結婚詐欺師といった小物ばかりだった。いきなり死体を見る事になるとは思っていなかったのだろう。


「何か事件でもあったんか?」

 小夜と交代するように一徹が暁闇の隣に座り、彼に問う。彼らが知り合ってから何かと張り合う仲なのだが、精神的に参ってしまっている暁闇の様子に一徹も心配そうだった。

黄梅おうばいさんが殺されたんだ」

「黄梅さん? 誰や」

「同心の旦那だよ。俺の雇い主じゃないけどさ」


 奉行所には複数の同心が所属している。暁闇の雇い主は白露という男だが、黄梅も白露と同じ紅鳶奉行所の同心をしていた男であった。人間ではなく天邪鬼だったが、人や妖という種族の垣根を越えて愛されていた同心だという。


「その黄梅さんっていう同心が何で殺されたんや」

「分からない。恨みを買うような人じゃないし、心当たりが無いんだ」

 暁闇は息を吐きながら話す。本当は小夜達、一般市民に話して良い内容ではないがまだ若い彼が抱え込むには重すぎたのだろう。

 小夜は店内を見渡し、客は暁闇だけと確認すると、店の表へ行き『営業終了』の札をかけた。


「昨日、黄梅さんは非番だったんだ。行きつけの居酒屋で酒を飲んでたらしいんだけど、家に帰ると言ってから店を出たきり誰も黄梅さんを見ていない」

「そうして朝になったら死体で見つかったわけか」

 一徹は淡々と話を聞いている。用心棒が出来るほどだからなのか、血なまぐさい話は平気なようだった。暁闇がこくんと頷くと、一徹は死体について問う。


「さっき殺された言うてたけど何で分かったんや。居酒屋でお酒飲んでたんやったら随分酔ってたやろうし、こけて頭でも打ったんと違うん?」

「いや、背中に刀傷があったんだ。それもかなり広い範囲で……致命傷になったのは背中の傷だけで、他にもいくつか複数の刀傷がある。検死した与力の旦那によれば、死後に斬られたらしい」

「なんて惨いことを……」

 思わず小夜は口を覆う。仏を斬って弄ぶなどあってはならないことだ。


「発見された場所は? 刀で斬られたんやったら悲鳴あげたんと違うか。声を聞いた人はおらんかったんか?」

「発見現場は居酒屋の近くにある長屋通りだ。今のところ、長屋に住む者で黄梅さんの声を聞いた人はいない」

「暗がりで後ろからいきなり襲われたうえに、酔ってたやろうから何が何だか分からんうちに息を引き取ったんかもな……」


 一徹は眼鏡を押し上げると考えこむ。そして、暁闇の背中に手をやり笑顔を浮かべる。

「ビビらせるようで悪いけどその犯人、次も人殺すで」

「えっ」

「一徹!?」

 暁闇と小夜が同時に驚く。一徹は表情こそ笑顔を浮かべているが、声は真剣だった。


 *


 結局、暁闇はお粥を半分しか食べられず真っ青な顔のまま店を後にした。

 翌日になりいつもと同じ時間に来た暁闇によると、紅鳶奉行所では昼夜交代で同心と岡っ引きらが警戒にあたるという。

 少し眠れたようなのか、暁闇はいつもの調子を取り戻したようで小夜の手を握りながら顔を近付けて来る。


「小夜さん、これから俺は見張りに行って来るよ。会える時間は少なくなるけど、俺の心にはいつでも小夜さんがいるよ」

「いないですから真面目にお仕事してください」

 顔色はまだ優れないが口説く元気があるようでひと安心だ。


「ははっ、暁闇が懲りずにお嬢ちゃんに振られてるわ。まぁ元気出たようで良かったわ」

「俺はまだ振られてなどいない。それにお前は俺を馬鹿にしているようだが、馬鹿に出来る立場なのか?」

 ぎろりと一徹を睨む暁闇。


(あ、これは……)

 小夜の不安が膨らむ。

「まぁ暁闇よりは女心分かってるつもりやけど。夜伽のあれやこれも知ってるし」

「なっ……! 真朱男児たるもの破廉恥だぞ」

「そっちが聞いてきたんやろ……」

「はいはい、二人ともそこでおしまい。暁闇はこれから見回りなんでしょう。遅れたら白露さんに怒られちゃうよ」

 彼らの間に入って仲裁すると、暁闇は我に返ったようで「そうだった!」と言い、店を慌ただしく出て行った。店の外で岡っ引き仲間と会ったようで状況を確認しながら見回りに向かっていく。


(やっぱり仕事をしている所を見ると、ちゃんと岡っ引きなんだな)

 小夜が勝手に関心していると、住居部分から店へとやって来た父に一徹が話しかける。

「旦那、しばらく夜営業は休止した方がええですわ。紅鳶は今物騒やから危ない」

 いつになく真面目な表情で訴える一徹の様子に、父も険しい表情で受け止める。


「あぁ、黄梅さんが亡くなった事件だね。さっき、そのことについて他の店主とも相談してきたんだよ。シャクナゲ川通りの屋台はみな犯人が捕まるまで休業することにしたんだ」

「そっちの方がええわ」

「一徹君は他にも用心棒の仕事は受けているのかい?」

「いや、ここだけです」


 一徹の言葉に父は少し考えると、満面の笑みを浮かべて提案した。


「この治安だから娘を一人にするのは不安でね。一徹君が良ければ泊まり込みで小夜を護ってやってくれないか? その分のお給金は弾むつもりだし、心配なら君の母上も連れて来ると良いよ。うちには使ってない部屋があるから」

「ちょっとお父ちゃん!? 何言ってるの!!」

「おっ、臨時収入は有難いですわ。お言葉に甘えて泊まらせてもらいます。僕の母は一人で大丈夫なんで、僕だけ泊まらせてもらいますね」

 なぜか乗り気の一徹と父が固い握手を交わすのを小夜は「大丈夫だから!」と引き離そうとするが、二人の固い意志は動かないのだった。

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