第二章

第4話

「小夜ちゃん、煮魚こっちにおくれ!」

「はい、ただいま!」

 いつもの朝。これから仕事に出る人々が雪月花で朝食を取っている。店内はごった返しており、床几にはお互い知らない者同士が座って食事をしていた。相席の風景も雪月花では見慣れた風景である。

 小夜はあちらこちらから飛んでくる注文をさばくのに精いっぱいであった。この仕事を手伝って長いとはいえ、小夜の体は一つだけなので、あっちに行ったりこっちに行ったりせわしなく動いていると疲労が溜まってくる。

 額に浮かぶ玉のような汗を着物の裾で拭っていると、一徹がにこやかに声をかけた。


「お嬢ちゃん、さっきの人は僕が対応しとくわ」

「ありがとう」


 用心棒として雇われた一徹は随分働き者だった。用心棒だけでなく、こうして小夜や父を手伝ってくれる。そのうえ、物覚えも良いのですぐに仕事に馴染んでいた。

 お客が一番来る時間帯は、開店してから二時間くらいの間である。出勤前に腹ごしらえを済ませておこうと押し寄せるのでここさえ乗り越えれば、客足は落ち着いていく。


 店内に溢れそうなほどいた客は、食事を済ませるとみな各々の職場へと向かっていく。客足の波が引いた後の静かな店内で小夜と父、一徹は大きなため息をついた。

「はぁ~忙しかったな~」

「一徹が手伝ってくれたから助かったよ、ありがとう」

 小夜は腰を手で軽く叩きながら、隣に立つ一徹に笑いかける。

「どういたしまして。にしても、お嬢ちゃんや旦那は働き者やわ。僕が店主なら入場制限かけたくなる」

「朝が稼ぎ時だからね」

 一徹の冗談に父の村雨が丁寧に答える。二人の様子を見ながら小夜は床几に置かれた器を片付けていく。


「おはようございます、小夜さん、村雨殿!」


 店の入り口の方から明るく元気な青年の声が響く。小夜は片づけをする手を止め、声の方を見やった。


「あっ、暁闇ぎょうあん

 小夜に声を掛けられた暁闇は嬉しそうに目を輝かせた。

 濃い茶色の髪は短く刈られて清潔そうに見える。薄い茶色の瞳はきらきらと星の粒のような光を宿して、小夜だけを捉えていた。彼は、紅鳶の地を守る奉行所に所属する岡っ引きの暁闇だ。昔から雪月花に通い続けている常連客の一人である。


「小夜さんはいつも美しいなぁ。今日にでも俺と祝言をあげようよ」

「あげません」


 馴染みで雪月花によくお金を落としてくれる良い客なのだが、小夜を見る度に口説くクセがあるのが悩みだった。小夜に近付く男には殺気を放つ父でさえ、呆れて彼を放置しているほどである。


「暁闇は女の子を見る度に口説く癖さえ無ければ、とても良い方なのに。縁談も舞い込むのにね……」

 憐れむように小夜は暁闇を見て呟くと、心外そうに彼は首を横に振る。

「違うよ、俺が口説くのは小夜さん、君だけだから! 本当だよ、白露の親父に誓っても良い!!」

 白露とは彼の上司だ。岡っ引きは同心自身に雇われ、奉行所の所属となる。岡っ引きにとって同心は、上司でもあり己の面倒を見てくれる保護者の役割も兼ねているので頭が上がらない。暁闇が白露の名を出して誓えると言うのは、そのくらい真剣であるという意思表示だ。


「お客さん注文が無いようやったら出て行ってもらいましょか?」

 小夜に近付き手を取ろうとする暁闇を一徹が片手で距離を取らせた。鮮やかな手際に暁闇の視線が鋭くなる。

「お前、只者じゃないな?」

「僕はこの店の用心棒やらせてもらってる一徹言います。お嬢ちゃんに近付く輩はちぎって投げてええと旦那から許可もろてるんよ」

「そんな許可出した覚えはないのだが……」

 困惑する父を差し置き、一徹と暁闇は睨み合う。一触即発の空気が二人の間に流れる。店内の空気が二人の殺気でびりびりと揺れているような感覚がした。まるで今すぐ殴り合いに発展しそうな猫の喧嘩を見ているようでもある。


 小夜は空気を変えようと二人の間に割って入った。

「ほら暁闇、朝ご飯食べに来たんでしょ? ほら、座って。一徹も落ち着いて。暁闇君はこの街の岡っ引きでうちの常連さんだから、わたしのお守りはしなくて大丈夫だよ」

 暁闇の背を押して席に座らそうとする。彼は一徹に視線をやったまま、『小夜さんに免じて矛をおさめておく』と呟き、それから一徹を見る事は無かった。


 *


 暁闇が朝食を済ませて店を出て行って、雪月花はようやく朝の営業を終了した。

「小夜、今日は夜の営業は休むよ」

 客が使った器を父と一緒に洗っているとそう話しかけられる。

「そうなの? 分かった」

 父が夜の営業を休むことは時々ある。雪月花はもともと朝のみの営業だった。父も年老いてきたし、屋台を引くのは辛そうなので夜の営業を休むことがだんだんと増えてきたのだ。


「この後は手ぶらになるだろう? 一徹君に紅鳶を案内してあげなさい」

 案内? と首を傾げる小夜を見た父は、小夜の隣で洗い終わった器の水滴を手ぬぐいで拭っていた一徹に声を掛ける。

「一徹君は紅鳶の出身ではないだろう? その言葉遣いからおそらく猩々緋の出身じゃないのかい」

「よう分かりましたな」

 一徹は手を動かしながら笑う。猩々緋は紅鳶と同じく『中央四府』の一つに数えられる大都市である。真朱国の中でも方言が強いと聞いていたが、一徹のような話し方をするのだと小夜は初めて知った。


「旦那の言う通り、僕は猩々緋の出身なんよ。母さんと二人でこの国を放浪してまして。最近、紅鳶にやって来たわけです」

「そうだったんだ……分かった、わたしが案内するね!」

 小夜は一徹に任せて、と自身の胸を叩く。気合の入った彼女の様子に一徹は優しい微笑みを浮かべたのだった。

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