第2話

 買い物を終え、雪月花に戻ってきた小夜は自分の時間もそこそこに、すぐ夜営業で提供する料理の準備に入った。本日の献立は、鶏肉と大根の煮物と豚汁、ひじきと枝豆の和え物である。

 父の村雨は働き過ぎだ、と小夜を止めるが性格的に何かをしていないと落ちつかない。もっと同年代の子達のように遊んで来なさい、と言われることもあるが雪月花で働いている方が自分の性に合っていると思う。

 特に今日は、ぼうっとしていると昼間の青年を思い出してしまうような気がした。


 日が暮れ始めると夜営業の準備にかかる。屋台は父がひく。小夜はその後ろから皿や小物が入った箱を抱えながらついていく。シャクナゲ川で設営を終えると、料理を器に盛ったり、屋台の下に設置されている荷物入れから炊いた米を入れたひつを取り出したりする。


「うん、お米も良い匂い」

 ひつの蓋を開けるとふわりと炊いた米の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。白くふっくらと炊けた米は、粒の一つ一つが艶を帯びている。小夜は満足のいく出来である事を確認すると、蓋を閉めた。

 作業に集中していると、いつの間にか日が今にも暮れそうになっていた。慌てて小夜は行燈に光を灯し、屋台の前に置く。

 一つだけではぼんやりとした明るさだが、シャクナゲ川には他にもたくさんの屋台が並んでいる。どの屋台も行燈を置くので夜でもこの一帯は明るかった。


 営業が始まると、仕事終わりの独身者や紅鳶に到着したばかりの行商人、荷運び人などが食事をするためやって来る。この時間帯になると、寝ている人もいるので朝の営業ほど人は多くはないが、二人で切り盛りするには少し忙しいほどだ。


 客が食べた後を片付けていると、食べかすや生ごみを捨てておく箱がいっぱいになっていた。客足はまだ収まりそうもない。営業が終わるまでに一度捨てておかないと、溢れてしまうだろう。シャクナゲ川付近にゴミを残しておくと、屋台の営業停止命令が下されるので絶対に周辺を汚すことは出来ない。

 小夜は少し考えると、生ごみの入った箱を手に取り父に告げた。


「お父ちゃん、ごみを捨ててきてもいい?」

 父は小夜の顔と箱を見比べ苦い顔をする。夜、暗い中で小夜に屋台から離れて欲しくないようだ。捨て場は屋台からそう遠くないのに、と小夜は心のなかで苦笑いを浮かべる。

「いや、私が行くよ」

 小夜から箱を取ろうとした父だったが、客の「旦那、酒くれ」という声に動きを止める。夜の雪月花では酒の提供もしているが、提供できるのは許可を得た父だけ。

 役所から許可を得ていない小夜が提供すると、屋台運営令に違反し罰金と営業停止命令が下されてしまう。


 父は酒を準備し始めるが、酒を希望する客は先ほどの者以外にもいた。このままでは、ごみを捨てる暇がない。


「ゴミ捨て場はすぐそこだし、屋台から近いから大丈夫だよ。すぐに帰って来るから」


 何か言いたげな父を無視するように小夜は箱を抱えると、ゴミ捨て場に向かう。

 屋台の共同ゴミ捨て場は、屋台通りから歩いてすぐの裏通りにある。ここに営業中に出たごみを捨てるのだ。翌朝になれば、ごみの回収人がやって来て回収していく。出たごみは畑に使う肥料にされる。


 ゴミ捨て場はたくさんのごみで山が出来ていた。鼻につく臭いの中、小夜はごみを捨てるとすぐに父のいる屋台へ戻ろうと踵を返す。

「ね、姉ちゃん……一人かい?」

 振り返ったちょうどその時、見知らぬ男が小夜に声を掛けてきた。片方の口角を上げ、小夜を値踏みするように頭のてっぺんからつま先まで眺めてくる。

 押し寄せてくる不快感に小夜は眉をひそめた。


「わたし、急いでいるので。失礼します」

 長居は無用だと判断した小夜は軽く会釈をすると、男を避けて屋台通りに出ようとする。しかし、男の手が小夜の手首を掴む方が早かった。

「な、なんだよ。話し掛けているのに不愛想だな」

「止めてください!」

 咄嗟に体に触れられた恐怖で蚊の鳴くような声しか出ない。もっと大きな声を出さなければ。頭では分かっているのに、震える体は思考に追い付かない。


「お、女はみんなオレを避けていくのか!? オレが何したって言うんだ!!」

 突然激昂した男は、掴んだ小夜の手首を自身の方へ引き寄せる。勢いよく腕を引かれたせいで小夜は前から倒れ込むように転倒してしまった。背後からは男の吐息がする。


(怖い、怖い、怖い。お父ちゃん、誰か!)


 上下の歯がガチガチと音を鳴らす。震えているのだと音でようやく気付く。今すぐ声を出さなければ。まずい、まずい、男の手が伸びてくる――。

 恐怖から小夜が目を瞑った時、ごつんと鈍い音が響いた。


 届いてくるはずの男は手はなく、代わりに目の前でたんこぶを作って寝ている男の姿があった。

「あれ?」

 先ほどまで立っていた男がいつの間にか気絶している。よく分からないが助かった。

(早くここを去らないと……!)

 小夜は気持ちを切り替え立ち上がろうとする。しかし、腰が抜けてしまったようで下半身が動かなかった。


「屋台通りに近くてもここら辺は暗いねんから危ないで。気ぃつけなあかんわ、お嬢ちゃんは無防備すぎる。女子がこんな所歩いたらあかんで」


 聞きなれない話し方をする人物がいつの間にか小夜を覗き込んでいた。声音からして男性なのだろうが、顔は頭巾で隠しているようでよく見えない。だが、どこかで聞いたことのあるような話し方が引っかかる。


「あ、ごめんなさい。それと助けてくれてありがとうございます」

「ええよ、ほら手掴み。腰抜けて立たれへんのやろ」

 頭巾の人物は優しく言うと、小夜に手を差し伸べる。助けられながら立ち上がると、彼からふわりとほろ苦くて甘い匂いがした。


(あれ、この匂いって――)

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