イカロスはそれでも空を駆ける 1

 ――美琴視点――


 あの日雨の中を走りながら、アタシはなんて情けない奴なんだと自分を徹底的に非難した。



 ――アタシは風太郎に頼ってばかりだ。



 風太郎のグループに入れてもらって、自分は彼ら彼女らの友達になって。

 ケド自分が本当にここにいてもいいのかいっつも不安になって、どうしようもなく怯えて。


 今の今までアタシは自分の意志でなにかを決めてきただろうか。

 思い返してみても、思い当たる節はなかった。


 自分じゃなにも決めらんない。


 自分の意志をまったくと言っていいほど持ってない。

 風太郎に色々導いてもらってできるようになったこともある。

 風太郎だけじゃない。涼花も、他のみんなも、アタシに対して色々なことを教えてくれた。直接教えてくれたわけじゃなくても、その雰囲気とかで、少なくともアタシが学ぶべきところはあった。


 そんな彼らを、アタシは裏切ってしまった。

 自分のちっぽけなプライドが傷ついただけで、風太郎をあんなにも責めてしまったのだ。



 ――子どもっぽいな



 ほんのそれだけじゃん……

 アタシってバカ。

 子どもっぽいのは自覚してたくせに。


 いつまで経っても大人になれない、そんな自分をいっつも嘆いていたくせに。

 いや、だからこそ、かもね。あたしがいっつも思ってることを風太郎に口に出されてしまった。


 だから傷ついたのかも知れない。

 ケドあんなに取り乱す必要があっただろうか。

 雨の中を走りながら、アタシはひたすらに後悔した。

 自分がみっともなくて、情けなく思えた。

 脆弱、貧弱、惰弱……色んな言葉が胸をよぎった。


 自分はなんて情けない存在なんだろう。こんな人間ならマンションの脇にあるタンポポの方が立派な生き方をしているとすら思う。


 こうやって自分を卑下してしまうのも、きっとアタシの悪いところなんだろう。



 ――あっはは! 見なよ三浦の顔! 超なっさけねー!



 アタシはぎゅっと目を瞑った。

 おもいだすなおもだすなおもいだすな



 ――きっっもちわりー。顔真っ青じゃん!



 だめ。だめだめだめ。アタシはあのときから変わったんだ。

 もうあの頃のアタシじゃない。

 あんなやられるだけのアタシじゃない。

 いや。だめ。だめだめだめ。おもいだすなおもいだすな



 ――撮影しよーぜ! 洋介に見せてやろー



「……………………ひっ」


 アタシの喉が引き攣った。

 思い出したくないことばかりを、あの雨の日、あたしは思い出した。

 なんて弱っちい人間なんだろうあたしは。


 でも抵抗できない。無力。そうアタシは無力なんだ。

 どれだけやられても、やり返すことができなかった。

 そんな弱い自分を変えたくて、あの日、アタシは部屋から出て、風太郎の言うことを聞いた。

 そうやって実践して、自分を変えようとした。


 かわ……ってんのかな?


 自分では努力と思っていても、周りがそう思わなかったら意味ないんじゃない?

 なんたってあたしは子どもっぽい。

 自分が頑張っていても、他の人から見たら当たり前のことができるようになってるだけなんじゃないのか。


 あぁ、ダメだ。

 考えれば考えるほど、精神がズタボロになっていく。

 変わりたい。

 変わるんだ。

 いいえ、かわったのよ。


 鏡の前に立った自分は、その前の自分と比べて遥かに可愛くなった。

 こ、これがアタシ、と思ってしまうくらいに。

 学校での男子からの視線も受けるようになった。

 そうだ、アタシは変われてる。


 コミュニケーションだって、うまく取れるようになった。

 変わった。変われている。

 そうだ、あたしは成長してるんだ。

 なにを悩むことがあるのだろう。



 だけど胸を抉るのは、やっぱりあの日風太郎から言われた言葉だった。



 ――子どもっぽいな



 裏切られたと思ってしまった。

 彼はそんなことはないと言った。

 いじりといじめは違うのだと。

 うん、ごめん。その通りだ。


 アタシはその言葉が、真実だと知っている。

 風太郎がアタシを貶める意識はなかったことも、ちゃんとわかってる。

 けどそれはあとになってから、わかったことだ。

 言われたときは、やっぱり裏切られたと思ってしまったんだ。

 どうしようもないね、アタシ。

 本当にどうしようもない。



 アタシが描く物語は、こんな形で終わって言い訳がない。

 どれだけ傷ついても、アタシは前を向く。

 だから、だから風太郎。

 ありがとう。

 ケドもう心配はいらない。


 アタシはきっと、あんたナシでも成し遂げてやる。

 あんたがいなくてもアタシは大丈夫だってことを証明してやる。

 洋介くんは、自分の力で手に入れる。

 好きになった人くらい、自分で落としてみせる。人の力を借りるなんてもってのほかだ。






「よぉ、ちゃんときたじゃん。偉い偉い。いざという時にチキるのがあんただからね」


 黒野エリカが喫茶店の席の一つに座ってあたしを待っていた。

 黒野エリカ以外にも、海老名沙優、それから堀北優美子がいた。

 全員アタシのことをいじめた主要メンバーだ。

 アタシは震える足に拳を叩き付けた。

 逃げちゃダメだ。


 風太郎を拒絶したのはアタシだ。

 だからアタシは自分の足で立ち上がらないといけない。

 前に進んでいかないといけないんだ。


「呼んだのはアタシ。なんであんたらが呼んだみたいになってんの?」

「はぁ? あんたが遅刻すっからじゃん」

「べつに。約束の時間よりも五分早いんだけど。あんたらなに? アタシのこと待っててくれたの?」


「あーそうだよ。可愛い可愛い美琴ちゃんを待つのが楽しくてしょうがなかったんだー。どうせ予約制っしょ。三浦って名乗ったらふつうに入れたし」

「……そ」


 あたしはゆっくりと自分の席に座る。

 もっともそこが自分の席と決まっているわけじゃないけど、なんとなく黒野エリカたちとは対面で座りたかった。


 これが異性とのデートなら、となり同士に座った方がいいそうだ。となり同士の方が親近感が増すらしい。

 逆に対面で座ると、今度は敵対心が増すらしい。

 上等だ。


 アタシは黒野エリカの目をまっすぐに見つめた。

 灰色のカラコンが入った瞳。やたら黒く、長く、艶めかしいまつげ。整えられた眉毛。

 アタシは萎縮してしまう。

 果たしてこの勝ち気な顔をした黒野エリカを言い負かすことなんてできるんだろうか。

 ……あたしより、この子の方がよっぽどおしゃれなんじゃない?


「なぁにー? あんたその髪。めっちゃ可愛くなってんじゃ~ン」


 沈黙を食い破るように、海老名沙優が言ってくる。茶髪ボブのギャルだ。目つきが悪く、弱い女なら簡単にこの子に言い負かされて終わる。


「な、なに……」


 どういう風の吹き回しだろう。

 アタシはまさか褒められるなんて思ってなかった。

 そして一瞬だけ、本当にこれは自分でも情けないことだが、嬉しいと思ってしまった。


 海老名沙優って言う、男子から超絶人気の、ハイスペック女子から髪型を褒められて嬉しいと思ったのだ。


「アイロンなんかしちゃってさー、もう可愛いんだからー」


 クスクスと笑いながら海老名沙優は言った。

 瞬間、海老名沙優の表情が凍り付いた。

 アタシは全身に鳥肌が立った。


「勘違いしてんじゃねーよブス。なにそのアイロンのかけ方。へったくそ。

 あ! もしかして洋介に振り向いてし欲しかったとか!? あんたばかじゃん! 洋介級の男子が、あんたに振り向く分けねーだろバーカ!」


 ぎゃははは! と店内に哄笑が鳴り響く。

 むりだ! むりだむりだむりだ! 

 なんでアタシはこの子らにケンカを売ろうとしたのだろう。

 言い負かそうとしているんだろう。

 けっきょく、むりだったのだ。


 アタシには彼女らとケンカすることなんて、とうてい夢のまた夢だったのだ。


「つかさ。あんた目ヤニ着いてるよ?」

「うそ……?」


 アタシは驚いて、すぐに目の近くを確認した。

 ………………あれ?

 ない。

 べつに目やにがついてるわけでもない。


 じゃあなんで?


 そう思った瞬間、ぱしゃっと、写真が撮られた。

 黒野エリカがスマホであたしの顔を取ったのだ。


「な、なにすんのよ……!」

「なにって! あんたその顔超面白いよ! あ~~、これインスタにあげよ。マジウケる~~。顔真っ赤にして目やにを取る女ってね!」


 アタシは激昂しそうになる。目やにはついてなかったはずだ。

 だが冷静になって気がつく。

 そういう風に見えてしまうことはたしかだ。第三者から見れば、アタシは痛々しい女子に見えるだろう。


「やめて!」

「やめな~~~い! あんた根っこの部分まったく変わってねーじゃん。なに? おしゃれして? 髪型変えて? それで陽キャデビューした気になってんの!?」


 黒野エリカは悪魔のような笑みを崩さなかった。

 アタシは、無力だ。この笑みの前にはとてつもなく無力だった。

 黒野エリカがずんと顔を近づけてくる。あたしは思わず引いてしまった。

 そう、引いてしまったのだ。

 黒野エリカのにやっとした笑いが、すぐ近くに広がる。


 

「なめんじゃねーぞガキ」



「な、なめてないし……。だいたいあんたらに、なめんなとか言う資格あるわけ?」


「はぁ? あんたなに言っちゃってんの? バーカ。あんたほんとバカだね。メンヘラ気取ってんの? きっしょ。アタシマジそういう女嫌い。弱い男しか手に入らないで、穴モテしてるそこらの香水くっさい女子大生と一緒じゃん」


 アタシは戦慄する。なんだろう。

 目の前が真っ暗になるような感覚があった。

 なんだろうか、この違和感は。

 背筋をつーっと走るような、いやな感覚。


 そうか。


 こいつら、前よりもグレードアップしてる。

 前回までは小学生くさいいじめだったモノが、今回でさらに意地汚く、狡猾になってるんだ……。


「きっしょいきっしょい。だいたいさー、考えてもみなよ。あんたがアタシらより上に立てると思ってんの? あ? どうなんだよ。てめぇのなんちゃって陽キャデビューとは、アタシらは年季が違うってーの。処女くせぇガキが」


 アタシはぶるっと、身が震えるのを感じた。

 優美子の口からそんな言葉が出てくるなんて思わなかったから。

 今の今まで、優美子が考えなしのギャルだと思っていた。


 ケド違う。今回は違う。


 本気であたしを追い詰めようとしてきている。


「おっ、泣く? 泣く? 泣いちゃうかなー? 美琴ちゃんは泣いちゃうかなー?」


 スマホのカメラが構えられる。アタシはそれをバシッと弾いた。


「あ?」

「やめろ」

「おっと、ここで暴力に走るんだー。いけないんだー。美琴ちゃんそんなことも学校で教わってないんだー」

「ひ、ひとのいやが………………いやがること……………………すんなって……」


 あたしの声は尻すぼみになる。

 どうしてこんなにも弱いんだろうか。

 あたしの心は。自分で叫びたいことがあるのにもかかわらず、それを声に、形にすることができない。


 黒野エリカたちを前にして、怖じ気づいた。

 それもある。

 ケド一番思っていたことは、あたし自身、見た目も変えてコミュニケーションの取り方だって改善して、けっきょくなにも変わらなかったんじゃないか、ということだ。


「え、なに? 聞こえないんだけど。もうちょっと大きな声で喋ってくんないかな? いるよねー、声小さくても何とかなると思ってる奴。アタシそういう奴大嫌いだから。ほらもっと腹から声出せよ――ッ!」


 がしゃん! と机が震えた。

 黒野エリカが机の脚を蹴り飛ばしたからだ。


 机の上に置いてあった水がばしゃりとはね、グラスが傾いたが倒れはしなかった。

 だがあたしの足に水がかかった。冷たい。


 思い出す。


 アタシが校舎裏でこいつらにバケツの水を掛けられたことを。


「…………………………いや」


 アタシは震える声で呟いた。

 かつての記憶が溢れんばかりに蘇ってきて、体の制御が効かなくなっている。

 知らず、腕で肩を抱いていた。


 怖い。


 黒野エリカ、海老名沙優、堀北優美子がアタシの方を見て、ゲラゲラと笑っている。


「おら! 化粧が崩れてんぞー! ブース! あはは! それとも化粧し慣れてなくてへたくそだから、勝手に崩れてきちゃってんのかなーッ!」


 違う。

 違う違う違う!

 アタシが思い描いていたのはこんな展開じゃなかった。


 自分がかっこよく、胸を張って黒野エリカたちを見下して、言い負かす。

 ――なのに現実は非情だ。

 つまり、アタシはなにも得ることができなかった。

 風太郎の力を借りて、涼花の力も借りて。他のみんなに協力してもらって。

 けっきょく得られたことはなに一つなかったんだ……



 ――ごめん



 心の中で呟いた。


 

 ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん


 

 みんなの応援に応えることができない。アタシは自分の力で立っていたいのに、どうしようもなく力がないことを実感させられている。

 ふと、アタシの肩に手が置かれた。


 黒野エリカのものだった。


 彼女は優しげな表情を浮かべて、他の二人には聞こえないように耳打ちしてきた。


「一週間前だッたかなー。アタシいつもみたいにこの二人でマックで駄弁ってたんだけど。

 そんとき急に洋介から連絡が来たんだ」


 アタシの背筋が凍る。

 なんだ。

 アタシはこの話を聞きたくない。

 本能的にそう思った。

 いやだ。

 聞きたくない。

 けど黒野エリカは、そんなアタシの反応を楽しむかのように言った。


「知ってた? アタシとあいつ、四ヶ月前くらいから付き合っててね。

 連絡が来て、何だろーって思ったら、『今から俺んち来れる?』って書いてあって」


 アタシは頭が白くなるのを感じた。

 そんな……は?

 アタシは裏切られたような気持ちで一杯だった。裏切られた? 違う。べつに洋介くんは裏切ってなんかいない。

 ただ付き合ってる人と、連絡を取り合っただけだ。

 家に呼んだだけだ。


「アタシも罪だよねー。実はもう一人バスケ部の奴と付き合ってるんだけど、洋介で二人目。

 けど洋介の方が遥かにうまかったし、バスケ部の方がもうぽいかな。

 ねぇ、くやしい? 

 くやしいでしょ。あはは。あんたには洋介のなにもわかんないもんね。アタシは全部知ってるもん。あいつの匂いも、体温も、触り方も――」


「やめて――ッ!」


 アタシは怒鳴っていた。

 黒野エリカは満足そうにアタシの耳元から唇を離していく。


「……ん? なんの話してたん?」

「いやべつにぃ、なんでもー」


 アタシは震えていた。

 足下が真っ暗だった。

 洋介くんが?

 うそだ。

 うそだうそだうそだ。

 けど黒野エリカと洋介くんは今年も同じクラスだった。

 そんなわけない。アタシはそれを信じたいのに、信じ切れない自分がいた。

 いや、べつに洋介くんの事情は洋介くんのモノだ。

 け、ど……。


「おやぁ、本当に泣いちゃった?」エリカはアタシの頭に手を置いてくる。「かわいいなー、よしよし。抱かれなかった女の子って辛いよねー。好きな男に見向きもして貰えないなんてサー」


 これはさすがに、心に来た。

 やばい。

 心臓が止まるかもしんない……。

 あたま、まっしろだ。


「まぁあんたじゃむりだと思うよ。美琴ちゃんは弱っちい美琴ちゃんのままだからねー。あ! 多分美琴ちゃんには、三組の、あのー、誰だっけ? チビでハゲてる奴! 吉田だ吉田! あのマジキモい奴。あいつがお似合いだと思うよー? その可哀相なおまんこかっぴらいてもらいなよ。くっさそうなちんこねじこんでもらいなよ。『あ、あはは、あたしのおまんこ温かい吉田くん? きもちいい吉田くん? アハハハハハ!』とかやってもらいなよォ」


 アタシは身も心も凍り付いていた。

 ガチガチと歯の根が鳴った。

 洋介くんが……?


 アタシの瞳からじわじわと涙が溢れてくる。どうして泣いているんだろう。洋介くんは本当に好きな人を選んだだけだ。

 それなのに、なんでアタシは悔しくなってるんだろうか。悔しくなる権利なんてないはずなのに。

 それに、だ


「よわ……くないし」


 アタシは小さな声で言った。いいや、小さな声しか出なかったのだ。

 喉が震えてうまく言葉が出てこない。


 こんなの負け犬じゃん。負け犬の遠吠えじゃん! なにやってんのあたし?

 いじめられてる頃のアタシと何ら変わらない。

 これからも、きっと同じだ。

 高校でも、社会に出ても。色んな女の子から恨まれる人生を歩むのだろう。


 悔しい。悔しい悔しい悔しい!


 けど、言い返そうとしても、言葉がうまく出てこない。黒野エリカの艶めいたリップグロスがにぃと引き上げられる。

 アタシと、彼女達の間にはなにか見えない差があった。

 アタシは多分彼女たちとは違う人種なんだ。

 精神の弱い出来損ない。周りに頼って頼って、けっきょくなにも成し遂げられない。


 こんな人生……もういやだ。



 ――いじりといじめは違う



 そうだね、風太郎。

 アタシは今気づいた。このときはっきりと気づいたのだ。

 黒野エリカたちの言葉はあたしの心を徹底的に破壊しに来ている。ずたずた、ぐさぐさ、ちくちく、アタシの精神に突き刺さる言葉を連ねるのがすごくうまい。

 それはきっと、アタシが弱いせいだろう。


 アタシが弱いから、彼女達はつけあがってさらに言葉をエスカレートさせる。

 こわい。

 風太郎の言葉には、そうだ、愛があった。優しさがあった。温もりがあった。

 心があった。


 アタシを友達と認めているからこそ、そうやって言葉でなにかを言っても大丈夫と信じてくれていた。


 ごめん風太郎。

 アタシはなにもわかっていなかった。


「……うぅっ……」

「あれぇ、泣いちゃったよー!」


 あはは、と下卑た笑みが店内に響く。店にいる人たちはただ居心地が悪そうにこちらを見ているだけだった。ううん、あえて目を逸らしている人の方が多い。


 さらし者だ。


 アタシの指先は震えていた。跳ねるくらいに震えていた。

 うつむいた視界に黒野エリカの手が映った。彼女の手は水の入ったグラスを掴むと、ゆっくりと、アタシの頭に垂らし始めた。


「どんなきもち?」


 黒野エリカの冷え切った声。黒い声。アタシを凍て付かせて、ぼろぼろに壊す声。


「あーあー。あたしいじめられたことないからわかんなーい。かわいそうにねー。いじめられる子って、何か変だよねー。心が人間じゃないって言うか、お猿さんみたい。あはは! もしかしてぇ、あんたが髪の色変えたのって、おさるさんになりたかったから?」


 違う。



 ――ライトブラウンが一番似合うって! 絶対可愛くなるから!



 涼花が美容室に行って選んでくれた髪色だ。

 アタシは、涼花をバカにされてむかついた。

 むかついている。むかついている。むかついている。

 けれど言葉にはできない。



 自分がいじめられているという事実が、虚しくて悲しく思えてしまうからだ。



「ねぇねぇ、しゃべれよ。しゃべるくらいできんだろーがッ!」


 がんっ、と机が震えた。

 黒野エリカの手が伸びてくる。すっと、流れるような動きで。


「い、いや……」


 アタシは怯えた。

 自分がこんなにも未熟だなんて。惨めだなんて。悔しくて、悲しくて、みっともなくて。

 黒野エリカの手はアタシの髪の毛の方にまっすぐ伸びてきた。


 いや

 さわんないで


 思い出す。黒野エリカはああやって校舎裏で、アタシの髪の毛を引っ張った。痛かった。胸がギシギシ痛んで、それで愛想笑いを浮かべてしまう情けない自分がいた。


 黒野エリカがアタシの髪の毛に触れてくる直前、横からすっと手が伸ばされて、彼女の手首を掴んだ。



「――公衆の場で下品な言葉を使うんじゃないよメスブタ共が」



「――んなっ」


 その声に聞き覚えがあった。


「………………ぇ?」


 アタシのすぐ傍に、風太郎がいた。


 な、なんで!? なんであんたがここにいんの!?

 アタシが口をパクパクさせていると、風太郎は喋るなとばかりに人差し指で口をふさいできた。


「オッケー上出来だ。美琴、お前はよくやったよ。いやーしかし、おれは久々にこんなに清々しいクズ女たちを見たような気がするよ」


 黒野エリカたちの表情が変わる。アタシを敵視していたときとはまるで違う目だ。


「なに、あんた? アタシ達とやる気? いっとっけど、これはアタシ達と三浦さんの問題だから。邪魔しないでくんない?」

「あーあー! これだから穴モテブス共はよー!」


「はぁ!? あんたバカにしてんの!? 誰が穴モテだ!」

「おー、黒野エリカも顔を赤くすることがあるんですねー」


「はぁ? あ、あんたなにがしたいわけ? アタシを侮辱したいわけ?」

「そうだなー、侮辱って言うよりかは。もう徹底的に潰してやろうかと思って」


「……ほう、言い度胸してるな、お前。ケドアタシ達に言い負かされるほど、アタシバカじゃないんだよねー」

「バカじゃない、か。なるほど面白い響きの言葉だ。バカじゃない、バカほど使う言葉だと僕は思うけどねぇ」


「言ってれば。きっしょ」

「はいはい、言ってますよ。ただねぇ、キミ達にはとーっても痛い灸を据えたいと思ってましてぇ」


「なに? ほんっときっしょいんだけど。あんた去年のミスターコンテスト一位の奴だろ? おもしれぇ、女にモテる男ほどキモいってホントだったんだな」

「うぐっ、それはやめてぇ」


 わざとらしく胸を撃たれた振りをする風太郎。あんたはいったいなにがしたいわけ?

 アタシは茫然とその様子を見ていると、風太郎はキリッと表情を変えて言った。


「それにしてもねキミ達ィ。こんなに周りの目がある仲でいじめをするなんて、迷惑だとは思わなかったのかな?」

「はぁ? べつにいじめてないんですけどぉ? アタシ達は三浦さんと一緒に遊んでただけなんですけどぉ?」

「はい涼花お願い!」


 アタシは目を見開いた。

 風太郎が指パッチンした瞬間、あたしが座ってた二つほど後ろの席から、涼花が現れたのだ。


「す、ずか……? なんであんたもここにいんの?」


 アタシは混乱する。

 なんで二人がここにいるの?


「はーい風太郎! もうバッチリ撮れてるから!」


 涼花は嬉しそうに片手を上げると、手に持ったスマホを操作した。そしてそれを横画面にしてアタシ達に見せる。


 どうが?


 アタシと黒野エリカが映っている。黒野エリカがアタシに対して一方的になにかを言っている。


 アタシは怯えた表情を浮かべ、黒野エリカがアタシに何かしらを耳打ちしている。


 さすがに音声までは拾ってはいなかった。黒野エリカがなにかぼそぼそと喋っているのはわかるけど、なにを喋っているのかはその動画からはうかがえない。


 動画は進んでいく。

 撮影していたんだろうか? 涼花が? 

 でもなんのために。

 アタシは疑問を他所に、動画を見た。


『あーあー。あたしいじめられたことないからわかんなーい。かわいそうにねー。いじめられる子って、何か変だよねー。心が人間じゃないって言うか、お猿さんみたい。あはは! もしかしてぇ、あんたが髪の色変えたのって、おさるさんになりたかったから?』


 うっ。

 アタシにとっては耳が痛くなった言葉だ。

 もう一度聞かされても、やっぱり胸に来るものがある。

 聞きたくはなかった。

 ケド涼花がこの動画を流した意味はなんとなくわかった。

 いじめの証拠だ。


「はいおしまーい!」


 涼花が容赦なく動画のストップボタンを押す。アタシは茫然とした目でその光景を眺めていた。


 なに?

 いったいなにが起こってるの?

 アタシにはよくわからない。

 ケドとなりの風太郎の目を見て、そのもくろみがはっきりする。


「言ったろ、徹底的に潰してやるって」


 アタシの肩に、ぽん、と風太郎の手が置かれた。その手は大きくて服からでもわかるくらいに温かかった。


「お前はよく頑張ったさ。誇れよ、自分を。お前は間違ったことはしてない。それで勝ったか負けたかは別問題だ」

「……うっ」


 嬉しかった。こんな言葉を掛けてくれる友達今までいなかったから。


「はいはーい――ってなにこれ!? ちょーむかつくんだけど! 茶髪がお猿さんってなに!? は!? 意味分かんねーし! アタシが薦めた髪色なんだけど!? うわもう超腹立つ! しかも世の中にどんだけ茶髪女子いると思ってんの!? あんたバカなの?」


「は? な、なにいきなり現れてぐだぐだ言ってんの? きんもっ。早く消えてくれない?」


「消えねーわあほ!」


 涼花はずんずんと黒野の方に近付いて、彼女の胸元に人差し指を突きつけた。

 怖い。陽キャのケンカである。アタシは遠巻きに見守ることにする。


「は? って、てかさ、あんたら勝手にこっそり動画撮って、それどうするつもり?」

「あはは! あんたバカじゃねーの? この動画拡散されたら、あんたらの立つ瀬なくなるよ? 今SNS時代だし! これエックスに上げれば、あんたらの人生一発で終わるよ?」


「………………へぇ、脅しのつもり? いい度胸してんじゃん?」

「脅しってか、そうだなー、けっこう本気で忠告してるって感じ。あんたらの人生一発で終わらせられるアイテムこっちは持ってるけど、本当に逆らっちゃっていいの?」


 力強い言葉だった。


 黒野エリカとアタシの会話の中で、アタシが言い返す部分も多々あった。ケド終盤の方は黒野エリカが一方的にアタシに向かってまくし立てていたように思う。


 だからそこだけ動画に残してアップすれば、黒野エリカはいじめっ子として全世界にその名をとどろかせることになる。


 拡散するのは動画だけだが、いずれ学校名や、個人名が特定される。

 けど、そこまでするのかふつう? アタシは全身の震えが止まらなかった。

 黒野エリカたちの顔が、見る見るうちに青ざめていく。


 風太郎はやれやれと首を振った。これは懲りてない。むしろ相手が弱みを見せて喜んでいるようにも見える。


 完全に風太郎の意地悪いモードに入ってるな、これ。


「やれやれ。キミ達もとんだお子ちゃまじゃないか。まさか今の時代を生きていてSNSの危険性も理解してないなんてね?」

「は、はぁ? 卑怯じゃん! そんなやり方汚いし!」

「汚い? いじめてる奴がなにを言ってんだ? お前はバカなのか?」

「そ、そうだよ! こっそり撮影するなんてインチキだし!」


 こいつらバカなのか……?

 アタシはふとそんなことを思ってしまった。


「おやおや、金箔が剥がれてきたようだねぇ。今まで散々美琴の前ではマウント取れていたくせに、いざ弱みを握られた瞬間このザマとはな! くっ、くっくっ! おもしれぇな、ほんっとに。ガキだぜお前ら」


 風太郎は顔を掌で隠して魔王のように笑う。この人マジで意地が悪い……。


「いいか、お前らに一つ言っておいてやる。マウントを取るときは、もうちょっと用意を重ねるべきだ。まぁもっとも、お前らじゃおれや涼花にマウント取ることなんてできやしない。カースト一位の奴らは、その下にいる奴らとは一線を画しているのさ」


「はぁ、なにその自己評価、きもいんだけど! だいたい自分で一位にいるとか言っちゃうのどうなの?」


「おう。いくらでも言えばいいさ。おれは去年、Mr.コンテストでも優勝した。文化祭の模擬店部門では一位を取ったし、体育祭でも総合一位を取った。個人でも一位だった。キミ達はいったいどんな成績を残してきたって言うのかな?」


「……くっ、けど、人間の価値ってのは、数字じゃ表せないんじゃないの?」


 こいつは本当にバカなのか……? アタシはこんな奴らにいじめられていたのかと、自分が矮小な存在に思えてしまう。


 これが、黒野エリカ……?

 アタシの見たことのない黒野エリカがそこにはいた。

 その対面には風太郎と涼花がいる。

 そこには圧倒的な壁が立ちはだかっているようにアタシには思えた。


 なんだろう、今日の風太郎めちゃくちゃかっこいい……。

 涼花も、これ以上ないほどに頼もしく思える。

 これがカーストトップの人たちなの? すごい。素直にそう思えてしまう。


「あ? テメーはホントにバカか?」


 涼花がキレた。誰この人? 目つきが全然今までと違う。


「お前らに一つ言っといてやるよ三下共。数字でも表せない奴に価値なんかねーんだよ、バーカッ!」

「は? バカってなに? あんたの方がバカじゃん。だいたいさー、アタシてめぇのこと大嫌いなんだよね! 神崎にいっつもベタベタして! きっしょ」


「あーあー言ってれば。言っておくけど、アタシベタベタしてるつもりないし。なんならあんたらのその洋介ファンッぷりの方がキモいんだけど。ってことで出てきて洋介くん」

「……なっ!」


 黒野エリカが驚愕する声。

 アタシも驚いてしまう。店の陰から、帽子を被ったよっ、よよっよようすけ、くくクンが出てきたのだ。嘘でしょ? あたしは思わず固まってしまう。


「えっと、やぁ」


「は、はぁ!? 洋介なんであんたこんなとこにいんの!? は!? は!? 意味分かんない! なんで、ま、まさかアタシ達の会話全部聞いてたっての!?」

「そりゃばっちりとね。なかなかにひどいことをするんだなとは思ってた」


 洋介くんの生声久しぶりに聞いたかも知れない。アタシはちょっと顔を赤くしてしまう。


「えっと、三浦さん。その助けに入れなくてごめんね」


 ちょっと待って。

 アタシが想像している洋介くんとは全然違った。なんで? 彼は黒野エリカと同じく、アタシを笑いものにしてたんじゃないの?


「え、えぇ? 洋介くん………………い、いやっ、アタシはべつに!」


 顔真っ赤にしてアタシは言った。めっちゃはずい。


「助けに入りたかったんだけど、風太郎にずっと止められててね」

「風太郎が、止めた……?」

「そうだ。できれば洋介って奴に女の本性を見せてやりたいと思ったんだ。どうだー洋介ー、お前から見て黒野たちの行動は?」

「最低だね」


 洋介くんははっきりと言った。

 あれ? あれぇえええええええ?


 も、もしかして洋介くんあたしの味方してくれてるの? そ、そんなわけない。だってアタシは洋介くんに嗤われたことがショックで、学校を休んでいたんだから。


「洋介、あんたからも言ってやって!」


 涼花が腰に手を当てていった。もう完全に二人は洋介をこっちに引き込んでいる。


「おれはキミ達とは縁を切る」


 黒野エリカが、ひっ、と唇を引き攣らせて後ろに下がった。


「あははは! 最高傑作だぜ! これこそ動画に残すべきだと思うんだけどなぁ!」


 風太郎の魔王っぷりが加速する。本当に今日の風太郎は容赦しない。

 だけどその目には、怒りが宿っていたことをアタシは見逃さなかった。


「ね、ねぇ、よ、洋介くん……」

「……ん?」


 アタシは戸惑いがちに、本当に聞いていいのかわからないことを聞いた。

 ケドアタシは聞きたかった。たとえそれが本当だとしても、聞きたかった。


「黒野と、付き合ってたんじゃなかったの?」

「なんだそれは?」


 洋介くんはペしんと額を叩いた。あれ? 何かアタシがよくわからない展開になっている気がする。


「おれは誰とも付き合ってないんだが」

「……うそ」

「ちょっ、ちょっと待って! これは違うからッ! ち、違うからッ!」


 黒野エリカが場を取り戻そうと必死だった。慌てて移動して、洋介くんの元に近寄ろうとする。

 アタシはそのとき、本当にたまたま風太郎と目が合ってしまった。


 ――言いたいことあるなら言っちまえ


 その表情が醜悪に歪んだ。

 だからアタシは言ってしまうことにした。


 

「『洋介くんが黒野エリカのこと抱いた』って、本人が言ってた」



 がっしゃん!


 喫茶店のどこかでガラスの割れる音がした。コップでも落としたんだろうか。店員さんまでもがこっちを見てくる。


 場が沈黙に支配された。涼花も風太郎も、黒野エリカも海老名沙優も堀北優美子も目をまん丸くしてこちらを見ていた。


 言われた本人である洋介くんは、またもや額をパチンと叩いた。顔を真っ赤にしている。


「抱いてない」

「い、いや……その……っ!」

「ちょっと黒野! なにそれ! さっき耳打ちしてたのってまさかそれ!?」


「あはっはははははは! クッソだせぇなお前! 夢の中でのできごと語るなよ! あっっははっはははは! めっちゃおもしれぇ! 腹がよじれてゴムゴムの実の能力者になるところだったぜ!」


 風太郎が大爆笑する。喫茶店内の雰囲気ががらりと変わって、風太郎の笑いに引き攣られるように、クスクス笑いが漏れ聞こえた。


「エリカが言ったのか? おれの彼女になったって」

「うん。あれ嘘なの?」

「嘘に決まってるだろう……。だいたい付き合ってるのなら、縁を切るなんてわざわざこの場で言ったりはしないよ」


 そうなんだぁ………………………………ッ! 

 けどどうしてだろう。そこまで嬉しいとは思わなかった。洋介くんが黒野エリカとそ、そそそそそそういう行為に及んでないとわかったのは嬉しかったけど、何かアタシの胸にはもやっとしたモノが残った。


「あっ、ああっあああああッ!」

「だっせぇ! マジだっせぇ! あははは!」


 鬼畜じゃん……。風太郎マジで鬼畜だ。

 ケドアタシにはわかる。あの笑い方には覚えがあった。

 アタシが黒野エリカから受けた笑い方だ。

 風太郎は黒野エリカに、アタシが受けたモノと同じモノを受けさせようとしているのだ。


「か、かえるね……! あたし、よ、用事思い出した」

「ちょっ、待ちなってエリカ! あ、アタシも行くから!」

「アタシも!」


 三人は示し合わせて店から出て行った。お代は……と思ったが、彼女達はまだなにも注文していない。


 風太郎は黒野エリカたちが去ったのを見送ると、急に笑いを収めた。あまりにも急変させたので、アタシはちょっと驚いた。やっぱり演技だったんだ。


「さぁって。この状況を何とかしないとなぁ……」

「え!? マジ!? 考えてなかったの!?」

「いやだって。あんなに大事になるとは思ってなかったもんで」

「てめぇおかしら! なにも考えてねぇとはどういうこったい!」


 風太郎と涼花が、あっはっはと笑い合う。楽しそうだ。

 すると洋介くんが手をメガホンにして叫んだ。


「すみませーん、ずいぶんと迷惑をおかけしましたー! 店員さんも、グラス代は弁償します! 本当に申し訳ありませんでしたー!」


 辺りがしんと静まりかえったが、やがてなぜだか拍手が沸き起こった。なんで?


「いやー面白いものが見られた!」

「めっちゃすっきりしたぞお兄ちゃんたち! お嬢ちゃんも!」


 あちこちから歓声が沸き起こる。これでよかったんだろうか。


「美琴、立てるか? なぁにそんなしけた面してんだ」

「……だって! だってだってぇ! あんたが助けに来てくれるなんて思わなかったもんっ! こわかった! こわかったよぉ………………!」


「おうおうよしよし。だが鼻水はちゃんとティッシュで拭こうな。おれの私服はティッシュじゃないんだからな。それともお前はそういった鼻水プレイがお好みなのか?」


「違うわ! あほ!」

「ぐはっ!」


 あたしは思いきり風太郎の手を叩いた。

 そこかしこから、あははは、と声が沸き起こった。漫才じゃないんですけど……


「け、けど……あんたには悪いこと言った。黒野エリカと一緒じゃんって。……けど、全然違った」


「だろ? 黒野エリカは他人を見下すことでしか満足を得られない人間共で、おれたちは常に上を向いて歩くかっちょいい高校生たちだ。その違いが十分に理解できただろ?」


「……ん、できたけどなんかちょっとあんたの言い方むかつく」


 アタシはべしっと風太郎の腕を小突いた。


「おう、おう……うちの女王様は乱暴だ……しくしく。どうしてくれようか姫君」

「女王様の言うこと絶対だし。っつうかあんた黒野エリカを追い詰めてるとき笑いすぎだし!」


「あれはちょっと本気で面白かったからなぁ! 最低だろ?」

「本当に最低だったね……。あんた本気で黒野たちから恨まれるけどいいの?」


「構わん。どうせ全員から好かれるなんてむりなんだからな。それよりも、ちょっと憎まれて嫉妬されてるくらいの方が、人生はちょうどいいのさ」

「あーはいはい。素晴らしいねあんたは。っていうか、これからどうする? せっかくだし喫茶店でゆっくりなんか食べてかない?」


「いいな。どうせなら洋介も一緒にどうだ?」

「おれがか? べつにこのあと予定がないから、構わないが……」


 洋介くんはアタシの方を見た。それから一つうなずいた。


「いいよ。ここのアップルパイすごくおいしいんだ」

「それ知ってる~! 洋介おっくれってるー!」


「何だその表現は。知ってたのなら、注文するのはそれしかないな」

「おう。当然、美琴も食べるよな?」

「え? あぁうん! あ、アタシも食べる……」


 アタシはとりあえずうなずくことにした。って言うか逃げ場なんてどこにもなかった。

 ちょっ、洋介くんと一緒ってマジぃーーーーー!?



 アタシはそれから洋介くんとお喋りした。

 これだけちゃんと喋ったのは初めてかも知れない。


 洋介くん、あたし、涼花、そして風太郎。四人で喋るのはいつもとは違って、ちょっと新鮮だった。

 憧れの洋介くんとこんなに喋ることができて、アタシは嬉しかった。

 趣味、兄弟、休日はなにしてるの、とか、色々聞かれた。

 もちろんアタシはその質問に対してハキハキと答えることができた。


 不思議と言葉がすらすら出てきた。

 もしかしたら黒野エリカに対しては怖じ気づいてしまっただけで、洋介くんに対しては、嫌われてないとわかったから、今まで蓄積したコミュニケーション能力とかがうまく発揮されているのかも知れなかった。


 会話はものすごく楽しかった。

 嬉しかった。

 けど、なんでだろう。

 アタシは、洋介くんと会話しながらも、ずっと風太郎のことを考えてしまっていた……。

 本当になんで!?

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