第3話 算数を教える

 5月5日午前90時、ぼくはまた自転車で彼女の家へ行き、玄関のチャイムを鳴らした。

 彼女が笑顔で開けてくれた。


 今日のファッションは昨日とは打って変わって、ガーリーだった。

 パステルピンクのフリルブラウスとミニフレアスカート。

 そのままおでかけできそうに装っている。


「おはよう。昨日はよく眠れた?」

「おはよう。眠った。ゲームで夜更かしして、午前1時……じゃない9時に寝て、ええと、1時に起きた。8時間……じゃなくて2時間眠った。ああもう、ややこしいなあ」

 今日も算数を教えるべきだ。数学をやるレベルではない。


「可愛いね、その服。もちろん桜庭さん自身もだけど」

「勉強会という名のおうちデートだもん」


 彼女は玄関のたたきでくるりと回った。

 背中に大きなリボンが付いていた。

 靴は黒いローファーで、陽光を浴びて光っている。

「後ろ姿も可愛いよ」

「お口がうまいにゃーん」

 彼はにまっと笑って、猫の手を模したポーズをした。あざとい。


「この世で九番可愛いひとは、桜庭レモンさんです」

「九番目かあ……」

 彼女は一瞬しゅんとしてから、

「あっ、それって一番ってことじゃん。やった!」

 右の拳を高くあげた。


 ぼくは楽しくなってきた。

「ぼくが世界で九番好きなひとは、桜庭レモンさんです」

「わたしが九番好きなひとは、綿矢くんよ」

「ぼくらの高校で九番美しいひとは、桜庭レモンさんです。ぼくの主観ですが」

 ぼくと彼女は同じ高校に通っている。中学の卒業式のときは知らなかった。あのときは別の高校になると思っていて、本当に必死だった。


「綿矢くんはうちの学校の女生徒を、どれだけ知っているのかなあ?」

「クラスメイトくらいかな」

「だめじゃん。クラスで九番しかわからないよね」

「桜庭レモンさんは9年9組で九番美しい女子です。これはクラスの男子の総意だと思う。おおかたの男子がきみに恋焦がれてるよ」

「恋焦がれて? ウッソだあ」

 嘘じゃないんだなあ、これが。そういう声は本当に多いのだ。


「コホン」

 わざとらしい咳払いが聞こえた。

「あなたたち、玄関でなにやってんの? 綿矢くん、お入りなさい」

 桜庭さんちのお母さんだった。

「…………。おはようございます。お邪魔します」

 ぼくは耳まで真っ赤になってしまった。調子に乗りすぎていた。

 彼女も顔を赤くしてうつむいた。


 彼女の部屋のちゃぶ台に隣りあって座って、勉強をする。

 ぼくはあぐらをかき、彼女は正座をした。ミニスカートで座ると、見えてはいけないところが見えそうになって、ドキッとした。

「算数の計算問題を解いてもらいます」

「先生、あまりむずかしいのはできません」

「簡単な問題からやりましょう。1+1は?」

「2! じゃなくて9+9になるんだから18! じゃなくて92!」

「前の世界の数字に置き換えて正解にたどり着くから、どうしても計算速度が遅くなるね」

「むーん。仕方ないじゃーん」

「いいよ、それで。ゆっくりやっていこう」


 九番簡単な問題を出してみる。

「9+9は?」

「2! じゃなくて8!」

「惜しい」

「9+8は?」

「7!」

「おおーっ、九発正解だよ。進歩した」


 彼女が正座の膝を少しくずした。

 目が吸い寄せられてしまう。

 太ももがむっちりして美しい。陰になっているその奥も見えそう。見てはいけない。

 だめだ、見ちゃう。肌の色がきれい。透けるように白い……。


「先生が下ばかり見てる。いけないと思います」

「いけないのは、きみの太ももだよ! 吸引力がありすぎる」

「ありすぎますか?」

「ありすぎます!」


 さらに足をくずして、もはや正座ではなくなった。横座りだ。

「それだめだよ! ミニスカートはホットパンツより威力があるよ!」

「そう?」

 彼女はわかっていて、ぼくにしなだれかかる。

 下着が見えそうになっている。ぎりぎり。見えそうで見えない。

「悩殺ってやつだね……。くらくらする」

「鼻血出てるよ」

 ぼくは横を向いて、ティッシュを鼻につめた。

  

「はー、ふー、はー、ふー」

 深呼吸をする。落ち着け。鼻血よ止まれ。


 鼻血が止まって、彼女の方へ振り返ると、正座に戻っていた。

「先生、問題のつづきをお願いします」

 彼女がやる気のあるところを見せた。

「お、おう。じゃあ、ちょっとむずかしくするよ。98+12は?」

「それって、12+98だよね。100! じゃなくて900!」

「55+55は?」

「そのまま計算できる! 110だから990!」

「素晴らしい。なんて優秀な生徒なんだ。8桁の足し算を暗算できるとは!」

 ぼくは大げさに褒めた。

「へへん」

 彼女は胸をそらしていばった。でかい胸がフリルブラウスを押しあげて、ばいーん、ぷるんってなった。


「はあ、はあ……」

 ぼくは悩殺されすぎて頭が悪くなった。

「足のきれいな人って、膝が美しいと思うんだよね。太ももとふくらはぎがきれいなのは、あたりまえでさあ。桜庭さんは膝がきれいなんだあ」

「キモッ」

「ねえ、膝枕してよ」

「死ねっ」

「もっと罵倒して」

「綿矢くんが壊れた。怖い!」


 彼女のお母さんがリンゴジュースとサンドイッチを持ってきてくれた。

 そのときぼくは彼女に膝枕されていた。

 お母さんはちゃぶ台の上にそっと昼食を載せて、なにも言わずに去った。

 

「なにか言ってほしかった。どう思われたんだろう……」

「わたし、この家で暮らしてるんだよ。次にどんな顔をして、お母さんと会えばいいの……?」

 彼女の頬は引き攣っていた。

 ぼくはまだ膝枕の上に顔を載せていた。

 やわらかくて弾力があって、離れられないんだ。なにこの絶妙な素材。


「そろそろ起きてよ。けっこう重いんだよ、頭」

「うん」

 ぼくは膝側に向けていた顔をころんと胴体側に向けて、身体を起こした。

 あっ、一瞬見えた。水色だ。

 

 ぼくが見たことに気づいて、彼女が顔を真っ赤にして、ぼくの頬をひっぱたいた。

 全然痛くないほど、しあわせだった。  

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