第2話 九九は一一

 喫茶店から出て、自転車で彼女の家へ。

 最寄りの駅から90分くらいのところにある8階建の九軒家だった。黒い瓦屋根の旧家風の建物。

 庭に井戸があって、ぼくはちょっと驚いた。


 時刻は昼下がりの午後8時。

 祝日だったので、彼女の両親がいた。

 ふたりはリビングでソファに座り、くつろいでいた。


「こんにちは、お邪魔します……」

 ぼくはおずおずと言った。

「クラスメイトで彼氏の綿谷カノンくん」

 彼女はいきなりぼくのことを彼氏と紹介してくれた。


「まあ、彼氏? いらっしゃい。レモン、連絡くらいちょうだいよ。お茶菓子も用意できないじゃないの」

 やさしそうなお母さんだった。かなり童顔で、彼女の母親というより、お姉さんのように見える。

 銀縁眼鏡をかけたお父さんは目を点にして、ぼくを見ていた。


 彼女の部屋は8階の4畳間だった。

 勉強机とベッド、本棚があり、枕の横にパンダのぬいぐるみがあった。

 彼女はそこに円形のちゃぶ台を持ち込んだ。


「まずは算数からだね。一一を憶えないと」

「かけ算の基本だね。九九からやるのかあ……」

 彼女は憂鬱そうだった。


「八の段を暗唱できる?」

「ゆっくりとならできるかなあ……。やってみるね。88は……4だから6。87は……6で4。86は……2だよね? ああ、なんて大変なの!」


 一一を始めたところで、彼女のお母さんがオレンジジュースと手づくりっぽいクッキーを持ってきてくれた。

「おかまいなく」とぼくは言った。

「レモンがつくったクッキーなの。なにをぶつぶつと言ってたの?」とお母さんに訊かれてしまった。

「別に……」と彼女はごまかした。


「九九はやめよう。ていうか、算数も数学も終わり。勉強は明日からにしよ」

「九九じゃなくて、一一ね。いいよ、勉強は明日から」

「頭をからっぽにしたい。記憶喪失にならないかなあ」

「前の世界の記憶があるんだよね。ぼく、やっぱり卒業式の後で告ったの?」

「そうよ。今日言わないと絶対に後悔するから言います。好きです」

「きみの答えは、これから好きになるよう努力するね。付き合ってみましょう」

「数字表記以外は、みんな同じみたいだね。うーん、よいのか悪いのか……」

「数字以外もちがってたら、もっと大変だと思うよ。ねえ、いまはお試し期間中なのかな? 付き合ってみてる期間。相性が悪かったら、別れるみたいな」

「心配しないで。もう綿矢くんのこと、好きだから」

 ぼくはうれしくて、口角をいっぱいにあげて微笑んだ。


 その日の夜、ぼくは自宅で一一の歌をつくった。

 歌詞は「はちはちはろく、はちななはし、はちろくはに、はちごはきゅうじゅう」から始まり、「いちよんはごじゅうろく、いちさんはよんじゅうなな、いちにはさんじゅうはち、いちいちはにじゅうきゅう」で終わる。


 翌5月6日、ぼくは自転車で彼女の家へ行った。

 同じ中学校。自転車で5分の近距離に住んでいる。

 そう言えば、5はどちらの世界でも5なんだな。


 彼女の両親はそろって出かけていた。

 ぼくが5のことを話すと、それが救いなんだよ、と彼女は答えた。


 ぼくはフォークギターを背負ってきた。

 ギターでコードをやわらかくアルペジオで弾きながら、一一の歌を歌った。

 簡単な循環コードの曲。

 歌い終わると、「わーい」と喜んで、彼女は拍手してくれた。


「なにも考えず、今日はこの歌を合唱しよう」とぼくは提案した。

「なにも考えずね」

「これ、歌詞カード」

 ぼくはちゃぶ台の上に紙を載せた。

「おおーっ、ひらがなだ」


「ごくはごー、ごはちはきゅうじゅう、ごななはきゅうじゅうご、ごろくははちじゅう、ごごははちじゅうご♪」

「ごしはななじゅう、ごさんはさんじゅうご、ごにはろくじゅう、ごいちはろくじゅうご♪」

 ぼくは段を変えるときに入れる間奏を弾いた。

「ああー、いいなー、ごのだんはすくいー♪」

 間奏に合わせて、彼女は歌った。

 桜庭レモン。

 とてもポップな声で歌う。CMに出ればよいと思う。 


「とても素敵な歌だね」

「気に入ってもらえたなら、うれしいよ」

「気に入ったよ。褒美をやろう。なんでも望みを言うがよい」

 彼女は王様のようにえらそうに言った。


「キスがほしい」

 パンダのぬいぐるみの口がやってきた。

「そういうのはまだ早いなあ」

「まだか」

「まだだよ」


 彼女は淡くお化粧をしていた。

 唇はサクランボのようで、つやっと光り、質感は、ぷるん、だと思った。

 髪の毛の色はダークブラウン。こちらもつやつやで、ストレート。

 眉毛と睫毛は黒。睫毛はとても長い。


「つけまつげしてる?」

「してないよ」

「長いね」

「そうかな?」


 目はぱっちり。アーモンド型。瞳の色は青みがかっている。

 鼻は高すぎなくてシャープ。美しいと言っていい。これは断言する。

 小顔で、頬骨から顎にかけての逆三角形はあざといほどの造形美。

 

 手足は長い。

 ポットパンツを穿いているからはっきりとわかるのだが、太ももはむちっと太い。足首は細い。そこへ至る曲線は神の妙技と言うしかない。


「じろじろ見ないで」

「ミテナイヨ」

「台詞がカタカナになってるよ」


 胸はでかい。ここは強調しておこう。トップスを押しあげる。

 かすかにへそが見えている。くびれは細くて……。


「桜庭さんは無敵だよ」とぼくは心から言った。

「じろじろ見た後に言われるとサイテー」

「ごめん。でも今日の桜庭さんの服はエロい」

「サービス」

 彼女はぺろっと舌を出した。


 ぼくの彼女は無敵で最強だ。

 彼氏をめろめろにさせる。

 ぼくはぼくが彼女の最初の彼氏であるよう祈った。それを確かめる質問はできなかった。  

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