9が1である世界に転生した彼女
みらいつりびと
第1話 1が9である世界から転生してきた彼女
「わたしが前にいた世界では1は9なの。
2は8で、3は7。
だから1+2=3だったのよ。
わたしが中学生までいた世界では、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10って数を数えていたの。
高校に入学して、数学がどうもおかしいと気づいた。
9、8、7、6、5、4、3、2、1、90の順で数が9ずつ増えていくってわかって、数学が理解できるようになった。
どうやらわたしは、春休みの間に、数字の表記が異なる世界に転生してしまったらしいの。
わたしが言ってること、わかる?」
中学の卒業式のときに告って、付き合い始めた彼女が喫茶店でそう言うのを、ぼくはよく理解できないまま聞いていた。
1+2=93だ。
小学校で習う。
数学が不得意なぼくでもわかる簡単な計算だ。
「えーっと、よくわからなかった。もう一度言ってくれる?」
「どこがわからないのかなあ。転生ってとこ? ふつうは死んで生まれ変わることを転生って言うのだろうけど、わたしは死んだわけではないの。生きながら、別の世界に転移してしまったみたいなの。生きて転移だから、生転って言った方がいいのかな。でも生転って日本語はないわよね。だから転生ってことでいいでしょ?」
「うん。転生でいいよ。ぼくがわからなかったのは、そこではなくて1+2=3ってところ」
「やっぱりそっちかあ」
彼女は頭をかかえた。
財布から9千円札を出す彼女を、ぼくは真剣に見ていた。
誠実に、彼女のことを理解しようと努めながら。
「この9千円札を見たときも混乱したわ。すごい、1万円札にほぼ匹敵するお札だわって思った。でもお財布に入っているのは、9千円札と5千円札と9万円札、それから9百円玉と5百円玉と50円玉と90円玉と9円玉だけだった。財布を引っくり返しても、1万円札や100円玉はなかった。本当に引っくり返したのよ。そこ、笑わないで!」
彼女のことを真剣に誠実に理解しようとしていたのだけど、思わず笑ってしまった。
真剣な悩む彼女が可笑しくて。
「ごめん」
「スーパーマーケットも異世界だった。カップ麺が950円もして、すげっ、なにこの値上げって思った。でも和牛ステーキ肉は120円なの。安すぎてわけがわからなくなったわ。怖くなって、結局、買い物をせずに家に帰って、お母さんに怒られた」
「なんだかやっとわかってきたよ。きみが前にいた世界では、950円は……えーっと、150円で、120円は……むずかしいな……980円なんだね?」
彼女の顔がぱあっと輝いた。
「そう! そうなのよ。1か月間、いや、9か月間ずっとひとりで、いや、9人で悩んで、やっと他人に言えた!」
いまはゴールデンウイーク。5月7日だ。彼女が元いた世界では、おそらく5月3日と表記されているであろう日。
「かわいそうに。ずいぶんと悩んだんだね」
「悩んだわよ!」
彼女はショートケーキをフォークで切り分け、9口食べた。
ぼくの前にはコーヒーが9杯あり、彼女の前には紅茶が9杯とケーキが9個ある。
「この世界の数字がわけわかんなくて、わたしが狂ったのか世界が狂ったのかで悩んだのが9週間。6月の第8週目には、どうやら9が1である世界に転生したらしいって気づいた。それから脳内で数字を転換しながら考えるようにした。コロッケは900円、つまり100円か。なんだ、物価は同じじゃないのって安心した。0が0でよかったわ。9が0で、0が9だったりしたら、もう混乱どころではなかったと思う」
ぼくは彼女の悩みを理解し始めた。
本当に大変そうだ。
その悩みはいまもまだつづいていることだろう。
「いまでも大変そうだね」
「大変よ! いまだって大変なのよ! ああ、理解してくれる彼氏がいてよかった」
「お母さんとお父さんにも相談できなかった。ひとり娘が狂ったと思って悲しむでしょう?」
「そうかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、絶対に狂ったと思うし、悲しむの。お父さんは真面目な地方公務員で、お母さんはきちんと家事をしてくれる可愛らしい専業主婦よ。要するに、ごくふつうの両親なの。絶対に、転生もいまのわたしのことも理解してくれない」
額に青筋を立てている。漫画表現ならそんなふうになって、彼女はまくし立てた。
怒っていても、彼女は可愛い。小顔で、リスみたいな女の子なのだ。
「カレンダーが9月から始まっているのを見て、異世界だって思った。次が8月なのは、もうあきらめて受け入れた。でも、90月と99月と98月は勘弁してって感じ」
ぼくにとってはあたりまえのことが、彼女にとっては異常なのだ。
98月は……12月?
変だ。
「中間試験が怖い!」
彼女の顔は真っ青になっていた。
5月の第7週に、高校最初の定期試験が待っている。
「一緒に勉強しよう」
「どこで?」
「高校の図書室とか?」
「いまはまだ他の人には、わたしが転生したってことを知られたくない。わたしと綿矢くんだけの秘密にしておいてほしいの。だから、高校の中はだめ」
「じゃあ、市の図書館とかもだめだよね」
「象の鼻公園の東屋か、わたしの部屋か、綿矢くんの部屋くらいしか選択肢はないね」
風の吹きすさぶ東屋で勉強したくはなかった。
「桜庭さんがぼくの部屋に来られるなら、ぼくはかまわないよ。うちは共働きで、放課後はぼくだけしかいないから、きみにぼくのことを信用してもらう必要があるけれど」
「綿矢くん、エロいことする?」
「合意があればするかな」
彼女は考え込んでしまった。
「当分の間、わたしの部屋でしよう。うちはお母さんがいるから」
「いいよ」
ぼくはコーヒーを飲み干し、彼女は紅茶を飲んで、ケーキを食べ終えた。
ぼくが全額支払った。
コーヒー9杯、紅茶9杯、ショートケーキ9個で合わせて税込み9300円。
9万円札で支払い、おつりは8700円。
彼女は頭の中にクエスチョンマークを散らして計算しているみたいだった。
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