第4話 狩猟と陸上部と赤点

 サンドイッチを食べながら、彼女と話をした。

「中学9年生のときから、きみが好きだった」

 そう言うと、彼女は一瞬首をかしげた。9年生は、彼女の前の世界では、1年生。

 まだ違和感があるのだろう。

 慣れてもらうしかない。


「ぼくは男子陸上部で長距離を走っていて、きみは女子陸上部の短距離のホープだった」

「憶えてるわ。あまり話さなかったけど、綿矢くんも陸上部だったね」

「足が速いのは、モテる要素のここのつだけど、どうしてかわかる?」

「ここのつ……。遅いより速い方が、かっこいいからかな?」

「足が速いと、狩りで有利なんだよ。遅いと獣に逃げられる。人類は数百万年に渡って、狩猟採集をして生き、進化してきた。足が速い異性はモテて、伴侶に選ばれる可能性が高かった。その選択眼は、遺伝子に刻まれて、現在も残っている」

「ふーん」

「こんな話、面白くないかな?」

「つづけてよ」


「短距離走が速い狩人は、獲物にさとられないように隠れて近づいて、射程距離にとらえてからダッシュする。長距離走にすぐれた狩人は、遠くから獲物を見つけて、見失わないように追いつづけ、疲れさせて追いつく。きみは短距離型で、ぼくは長距離型」

「面白くなってきたよ。それから?」

「最後はどちらも槍投げで獣をしとめる。だから、走りとともに槍投げもきたえるべきなんだ。ぼくらの中学で槍投げがなかったのは残念だ」

「槍投げをしようなんて、考えもしなかったわ」

「まあ、槍でも弓矢でもどちらでもいいんだけどさ。現代では猟銃だね」

  

 ハムとレタスのサンドイッチと卵サンドがあった。どちらも美味しい。

 彼女はリンゴジュースでのどを潤してから、ぼくにたずねた。

「綿谷くんは、狩猟のために陸上部に入ったの?」

「狩猟に興味があって、いずれは猟銃免許を取得しようと思っている。狩りのために身体をきたえ、足を速くしたいというのは、確かに理由のここのつだよ。でも、陸上部に所属するのを決めた最大の要因は、女子陸上部にきみがいたこと。きみの走りは美しかった。その走りを近くで見ていたくて、ぼくは男子陸上部に入ったんだ。きみを好きになったのも、走りが速くて、その姿勢が美しかったから」

 

 彼女は不機嫌な表情をした。

「わたしのピークは中1……中9だった。タイムが伸び悩んで……」

「中8できみが陸上部をやめた後、ぼくもやめた。面倒な上下関係のある部活をつづける理由がなくなってしまった。走りをきたえるのは9人でもできる。いまもぼくは走りつづけている」

「勝てなくなったら、陸上部がつまらなくなったの。第二次成長期、わたしは胸に走るのに邪魔な肉がついて……」

「第八次成長期ね。美しい肉だと思う」

「本当に重いんだよ。走るとぶるんぶるん揺れて、あっ、こいつ、にやけてる!」

「ごめん」


 ぼくは表情を引き締めた。

「ここで、いささか唐突だけど、美学の話をしたいと思う」

「本当に唐突ね。なんなの?」

「お椀か釣鐘か、どちらが美しいか、長きに渡る論争があった。釣鐘が優勢のようだけど、いまだに決着がついたとは言いがたい。ぼくはここで、新たな提言をしたい。お椀か釣鐘かという問題提起が、妥当ではないとしたら、論争は不毛になってしまう。梨か洋梨か、という観点を導入すべきではないか」

「なんの話をしてるの、綿矢くん?」

 彼女は本当にわかっていないのだろうか。


「きみはどちらが美しいと思う、梨か洋梨か?」

「そんなの決められない。梨も洋梨もどちらも好きよ」

 わかっていないみたいだ。きょとんとしている。

「たわわに実った梨か洋梨、どちらも好きなんだけど、どちらかしか選べないとしたら? ああ、いや、選ぶなんて、そんな僭越な……。手に入るなら、ぼくはどちらでもいい!」


 ついに彼女は、ぼくの視線がどこに向けられているかをさとって、また頬をひっぱたいた。

 今度は痛かった。


「別れていい?」

「ごめんなさい。許してください」

 ぼくは土下座した。


「綿矢くんがこんなに下品な男子だとは思わなかった」

「ぼくも新たな自分を発見して驚いている。可愛い女の子の前でなにを言っているのか……」

「わたし、舐められているのかしら」

「きみがあまりにも美しすぎて、ぼくの理性が壊れたんだよ。早急に修理するので、どうか勘弁してください」

 ぼくは額を床に付けつづけた。

 彼女の視線が後頭部をちりちりと焼いているような気がする。


「顔をあげて」

 許しが出て、ぼくははしゃぎそうになった。

 それは早計だった。

 彼女が浮かべている笑みは、悪だくみをする魔女のようで……。

「今度の中間試験で、わたしが数学の赤点を回避できたら、別れないであげる」

 

 それって、難易度はどのくらいなんだ?

 ぼくは彼女の数学理解度を確かめるところから始めた。


「きみ、数学の授業はきちんと聞いてる?」

「あー、なにやってんのかわかんなくて、呆然としてたり、困ったりしてるだけ」

「数と式は、国語がわかれば、理解できると思うんだけど……」

「わかんない。この単項式の次数は8って先生が言ったとき、2でしょ、なんで2じゃないのって、ずっと考えてた。7が答えのときは、どうして3じゃないのか悩んでた。どうしてもわからなかった。わたし、わかんないって感じたものは、拒絶しちゃうんだよね」


「6月の8週目には、9が1だって気づいたんだよね? 数学が理解できるようになったって、言ったよね?」

「どうやらそうらしいって気づいたよ。嫌々受け入れて、なんで次数が8や7なのか、やっと理解できた。でも戸惑いは消えなかった。係数や次数が表示されていないときは、9が省略されているって説明されて、9は1、9は1って自分に言い聞かせた。でも、なんか納得できなかった」

「…………っ!」


「きみらが簡単にやっている暗算がわたしにはできないから、多項式の整理なんて、全然ついていけない。かっこでくくるのもわけわかんない。8でくくる式を見たとき、数式が全部暗号になった。8乗や7乗もわたしを混乱させた。あれが2とか3だったら、わたしもがんばってたと思うんだ。でも、8や7が答えだと理解したときには、数学はすでに拒絶の対象だったの」

「だったのって……。いまからでも拒絶しないで、努力しようよ?」

「あー、だめかも。ゴールデンウイークに綿矢くんと過ごして、わたしは小学校の算数からやり直さなきゃいけないって、思い知ったし……」


 ぼくは絶望した。

「きみの赤点は回避しがたい……」

「そこをなんとかしてよ」

 彼女は瞳をらんらんと輝かせ、笑みはますます妖しくなり、ぼくを見下していた。


「赤点って、何点以下だったっけ。80点かなあ……?」

「30……70点以上は取りたい。恥はかきたくないんだよね。見栄っ張りなんだ、わたし。ついでに負けず嫌い。陸上部をやめたのも、負けるのが耐えがたかったから」

「きみの本性がこんなことでわかるとは……」


 ものすごい難問を背負い込んだ。

 この子に70点を取らせるのは、ほぼ不可能だ。


「わたしの家庭教師になって……。嫌だろうけど……」


 彼女の表情から魔女っぽさが消えて、泣き笑いになっていた。

 ふつうの女の子……。


「やってやるよ」とぼくは言った。

 深山に入り込み、ユニコーンを狩る気になった。

 不可能に挑戦する。


「勉強を再開しよう。算数は捨て置く。高1の数学をやるよ」

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