ヒロインファースト 2

「もうお腹ペコペコだよー。あぁしんど!」


 すごい。ハルはほとんどネネと同じセリフを吐いた。


 車道の白線の内側を歩く。もちろんおれはちゃんと車道側を歩いている。


 常識だ。世の男共の常識だ!


 なんてな。まあこんなジョークを吐いてないとやってられない。


 それくらいハルが心配なのだ。それになんか今日のハルは空回りしている気がする。


「おいしいご飯~~~~! あぁー喉がイガイガするー!」


 なんか言動が支離滅裂だ。


 おいしいご飯ってなんだろうか。食べたいのか? それならおれがいくらでも作ってやる。


 なんせ厨房に立った回数は、全国の高校生のうち十本の指に入るだろうからな。


 近所のスーパーへとたどり着いた。中型店である。コンビニよりは大きいが、ヨーカド○なんかと比べると遥かに小さい。


 まぁ必要なモノは牛乳一本だけだからな。


「んで、なに買うの!? アタシ気になる雑誌あるんだけど買っていい!?」

「ダメだ。牛乳一本だけな。お前が今日落とした奴」


「あぁそっか……ごめんね。そっかそっか。たしかになくなっちったよねー」

「雑誌、そんなに買いたいのか?」


「あたしが載ってる奴。………………アタシ自分が載ってる奴あんま見ないようにしてるんだけど、たまには買いたいなーって思ったから」


 それはいったいどういう心境の変化だろうか。


 それにしても、モデルって自分が載ってる奴読まないのか……。何か意外だった。


「あたしさ、そろそろあの、おとうさんと距離つめた方がいいかなって思ってて。それでアタシの仕事かの話したいんだよね」


 なるほどな。


 不思議だ。あのハルが他人との距離をつめるのに、こんなにためらいを覚えるなんて。


「お前ならふつうに打ち解けられると思うぞ」


 なんて、このときのおれは極めて無責任な発言をした。


「そ……だよね。あたしならへーき、って感じ! けどどうせちゃんと話つけるなら、仕事の話とかしたいなーって思って! ほら、アタシのこと知ってもらいたいじゃん!」


 たしかにな。お前のやってることは素晴らしいことだ。おれなんかじゃできない。


 この中肉中背のおれではな。


「まぁおれの親父はそこまでひねくれもんじゃない。お前の仕事の話を聞いて大喜びしてくれると思うぞ」

「そっ、そかな!? へへっ、アタシってすごい!?」


「あぁすごいすごい。だからもうちっと離れてくれ。暑苦しいぞ……」

「めっちゃドキッとした!? したんだろ!? ほらいえよ~~~! ほらほら!」


「るっさいだまれぶち殺すぞ!」

「こっわ。うわさいてー。あんたなんかからかいがいないわ」


 ほっとけ。だがおれは、いやおれだけじゃない。きっとハルにとってもこの距離感が心地よいモノなのだ。


 義理の兄妹。だが、あくまで同居しているだけ。


 そして、どこまで行っても友達でいられる、この距離が。


「あった~~~~~~~~~~~~~~! 見てみて! 明日斗すごくない!? アタシ牛乳売り場見つけた!」


 全然すごくない……。ふつうだいたいどこに何の商品があるのかくらい、経験則でわかるもんなんだけどな……。


 常識がどこかずれてんだよなこの子……。いやそこがハルのいいところなんだけどよ。


「一番安いのでいい」


 はるが牛乳を手に取った。我が子を抱えるようにそれを持って、心底笑顔でレジに持って行く。


「あっ、でもさ! アタシ思ったんだけど! 牛乳って店にいっぱいあるくない? だってパンケーキとか作るときふつうに使うし、なんならカプチーノとか作るときも使うじゃん!」


「あぁあれは業務用だ。って言うかあんまりその話をココでしちゃダメだ。とにかく店で使うモノは店で使うモノ、うちで使うモノはうちで使うモノだ」


「そーなんだ。じゃあ……もしかしてつまみ食いとかしたらだめなかんじ?」

「ダメに決まってる。ちょっと待てお前したのか?」


「……………………い、……いや」

「したんだな。ふざけんな! お前さすがにそれはアウトだ。バイトに示しがつかなくなる」


「うぅ、ごめんなさい。もう二度としません」

「もう二度とするな。おれも小学生くらいの時それやって親父にガチギレされた」

「ひえぇ……。わかりました……」


 こうしておれたちは牛乳クエストを消化した。なんで牛乳だけ買うのにこんなに疲れてんだろうな。




 スーパーを出た瞬間、ぬるっとした空気がおれの全身を襲った。


 ?


 なんだ? いやふつうに四月の空気と言われればそうなんだが……


 いやーに肌が散りつく。虫の知らせ、なんて便利な言い方はよそう。だが心なしかいやな予感がした。


 このスーパーは家から五分ほどの距離にある。すぐつく。


 おれは隣のハルを見て、あぁなるほどと思った。


 こいつに風邪をうつされた。そう考えるのが妥当だろう。たしかに風邪を引いた時って妙な倦怠感とか、寒気とかが襲ってくるモンな。


 なるほど。そう考えると納得いく。


 だが、なんか妙だ。これは本当に風邪なのか?


「牛乳おれが持とうか?」

「いいっていいって! アタシ牛乳もつの得意だし!」


 牛乳もつの得意ってどういう意味だろうか……。ハルの思考は相変わらず読めない。


 袋はもらわなかった。五円もするんだぜあれ? 信じられるか?


 帰り道。空模様はやけに暗い。星が見えないほどに曇っていた。


「わー、月が見えん……」

「わー、ってなんだったんだ……。てっきり感動したのかと思ったじゃねぇか」


「昨日めっちゃきれいだったのにね……」

「まぁたしかにな」


「そーだ! 翔太どうだったの!? いい感じに馴染んでた?」

「あぁもうばっちりだったぜ! おれたちのグループにもすんなり溶け込んでたしな。問題はないと思う」


「あの、オタサーの姫ちゃんとはどうなったの? 仲直りした?」


「いやむしろ対立した感じだ。ケドある程度の衝突はしょうがないだろうし、そもそも翔太もマルチアミューズメント研究部のオタサーグループとは完全に派閥争いする覚悟らしい。

 新しい学生生活が本格的にスタートって感じだな」


「へへっ、そっか! まぁ色々あるだろうけど、翔太の独り立ち見守る親みたいな気分だなっ!」

「ほんとにな。きのうはありがとな、ハル」


「いいってことよ! ……うぅ、しっかし冷えるなー。こんなに寒いとは思わなかったよ」

「だな」


 ハルは上下水色のジャージ姿だった。


「お前の恰好はとてもモデルとは思えんな」

「なんですって? アタシのことバカにした! うわ、サイッテー。あんた忘れちゃったの? 四十秒で支度しろって言ったのあんたじゃん!」


 うっ、その通りだ。じゃあおれのせいじゃねぇか……。ごめんなさい。


「まぁ着替えるの面倒かったからよかったけど、せめて髪整えてからにしたかったって言うか! つかさ! あんたって女心わかってないよね!」


 めっちゃ罵倒されてる……。ヤバい。ハルの額に青筋が浮かんでいた。しかもひとつやふたつじゃない。四つはある。十字路が四つだ。めっちゃ切れてんじゃん……。


「はぁああ……まぁ牛乳買うって言うのは、アタシの責任でもあんだけどさ」


 おれたちは大通りを脇に逸れて、坂道をあがり、小道に入った。ここは人通りがかなり少ないな。って言うかもう八時半である。親父が腹を空かせて待ってる。


「……ん? あそこに誰かいない?」


 おれは感じ取る。なんだ? あそこ……うちの店のすぐ近くだ。


 おれは背中にチリチリと走るものを感じた。おれが感じていたものはこれだったのか?


「まて」


 おれは家に戻ろうとするハルを呼び止めた。


 確証はない。おれの勘はよく外れる。今回もハズレであって欲しい。


「どうしたん?」

「いやな予感がする」


 ハルは首を傾げる。なにをそんなに怖がる必要があるのかと。


 たしかにそうだな。おれの考えすぎかも知れない。だが妙だ。店自体はやっている。だがこの時間帯はあまり客が来ないはずだった。


 そして何よりあの人影は、やけに行ったり来たりを繰り返している。


 まるで誰かを探しているようだった。


「なんだろ? アタシ達になんかよ――っ!」


 はるがすぐにおれの服の裾を掴んだ。なんだ?


「やっぱりちょっと散歩してから帰ろう?」

「ん? 誰か知り合いなのか?」

「いや、知り合い。うんそう! だから早く、ね!?」


 慌てたようにハルが言った。もしかして元カレとかか? そいつがストーカーして、店までやって来たとかか? ありえる。


 おれはハルに引っ張られるようにして、小道を歩き出した。



 ――次の瞬間だった。



 おれは目を疑った。その怪しい人影が、こちらを向いた。一瞬のことだった。彼の目がギラリと光ったかと思うと、こちらを見つめるなりすぐに駆け出してきた。


「――――――――まじっ! 速く!」


 ハルが叫んだ。おれたちは全速力で駆け出した。


 なんだ、なんなんだあいつは――!? おれは叫び出したかった。心臓が高鳴る。小学生の時に不審者に遭遇したらすぐに逃げましょうと言われたことを思い出す。


 あんな奴が今の今までお店の前でうろうろしていたって言うのか? 


 一体いつからあそこにいたんだろうな? おれの思考は加速していく。


 だがそんなことを考えている余裕なんてなかった。ハルの手が、おれの手を握り返してくる。


 手汗がひどいな。おれの汗か、ハルの汗なのかはわからん。だが二人とも緊張しているのはたしかだった。恐怖が、すぐそこまで迫ってきている。


「こっちだ! はる? 体力は持つか?」

「……………………ちょっとやばいかも」


 だろうな。おれは健康的な男子だが、ハルは風邪を引いている。そんな体力が持つとはおれだって思ってない。


 足音が迫ってくる。路地の陰から、たたたっ、と近付いてくる。


 街路灯がチカチカと瞬き、おれたちは動けずにいた。


 今おれたちが立っているのは、一本道だった。だから逃げるとしたら直線でしかあり得ない。


 反対側から人影が近付いてくる。巨体だ。百八十センチはあるんじゃないのか?


 走り方はまるでホームレスのそれだった。のっそのっそと近付いてくるその人体は、やがてある場所で足を止めた。


 彼我の距離十メートルほど。ハルは戦慄したように目をひらき、おれの背後に隠れた。


 男だ。どう見ても男だ。無精ひげを生やして、顔はアカまみれだ。まるでホラー映画から出てきたようなその人物は、黒いTシャツに黒いパンツ姿。


 この恰好で若ければイケメンに見えただろうが、あいにくおれの目から見たそいつは、おじさんそのものだった。


 心臓がバックンバックン言っていた。おれ達は点滅をくりかえす街路灯の下にいた。二つの人影が奇妙に点滅する。おれたち二人の陰だ。


「………………はる?」

「…………な、んで………………?」


 おれは心配になって声を掛けた。なるほど本当に知り合いらしい。おれはハルを自分の体の後ろに密着させるように隠し、軽く腰を落とした。




「何の用だ。おれたちをつけ回すってことはなにか用があるってことだよな?」

「久しいな、ハル?」


 おれの話を聞く気はないようだった。せめて話くらいは聞いていただきたいもんだぜ。


「なんの用かって聞いてんだ。おれの話を聞けよ」

「てめぇには用はねぇんだ。なんだてめぇ? あぁ、なるほど。再婚相手のガキか。ちっ、胸くそわりぃ」


 再婚相手………………? なるほどおれは理解した。こいつはハルの元父親か。


 再婚のことを知っている、そしてハルのこの態度を見るにそういうことだろう。


 しかし――父親見ただけでこれだけ怯えるなんてな。


 よっぽどこいつはハルになにかした、ということだろう。


 もしかして首の傷もこいつにつけられたのか?


「ずいぶんと清潔感のない男だな。そんなんじゃどこ行っても嫌われるぜ」


 おれはあえて挑発した。マズかったか……? しかしここは強気で出ないと、弱みにつけ込まれてなにをされるかわかったもんじゃない。


 だいいち。


 こいつはどこか追い込まれているように見えた。金銭的なことか? 多分そうだろう。身だしなみが整ってない奴はだいたい心に余裕がない奴だ。


 おれは辺りを確認した。やっぱり誰もいねーな。朝の時間帯は往来があるはずなんだが、この時間帯だと誰もいない。


 なにかしでかすにはうってつけの場所っつうことだ。おれは警戒心を強めた。


「おれは絶対に認めない。あの女がおれを捨てたこともな」


 何を言い出すんだこいつは。おれは、はぁ? と思わず言い返しそうになった。だが堪えた。


 ハルの息づかいが荒くなった気がした。なんか言い返したいのなら言え。


「………………いいかげんにしたら? あんたがアタシ達を捨てたんでしょ?」


 ハルは相当に怒っていた。だが男は肩をすくめるだけだった。


「おれが? お前をいつ捨てたって? お前がおれを捨てたんだろうが。女ってのはどいつもこいつも自分勝手だよなぁ! ふざけやがって!」


 がつん、と音がした。この辺は近隣住民がゴミを捨てるための収集場になっていた。もちろんゴミは朝のうちに出すので袋などは置かれてなかったが、周りのブロック塀が音を立てて崩れ落ちた。


 ご立腹のようだな。自分がちょっと言われると傷ついて目についたモノに当たる。まるでお猿さんだった。


 サル野郎、と言い返してやりたいところだが、相手は腐っててもハルの父親だ。言い返したら、逆にハルが傷つく可能性もなくはなかった。


「用件を言えよ。おれたちの家の前でうろちょろしてたってことは、おれたち家族のうち誰かに用があったんだろ? まさか再婚を認めないから取り消せとかいうんじゃねーだろうな?」


「………………あぁ? てめぇはさっきから聞いてりゃごちゃごちゃと。おれに指図できる立場か? あぁ?」


「指図? おれがいつ指図したって言うんだよ」


 ゆっくりと男は距離をつめてくる。


「はる、下がってろ」


 おれの合図でハルは一気に後ろに下がった。その瞬間男がおれの元に全速力で駆けよってきた。


 ――ちっ!


 けっきょく暴力沙汰になっちまうのか。だがしょうがない。相手が先に襲ってきたんだから、こちらとしては正当防衛だろう。


 男は決死の覚悟を目に滾らせて近付いてきた。


 おれは一対一の勝負では勝てる自信があった。幼い頃から武道だけはやらされてきたからな。剣道柔道空手……とにかく一対一なら負けない。


 おれは冷や汗を垂らしながらも冷静に男の挙動を見た。拳が振り上げられる。


 素人じゃねぇか。おれはにやりと笑った。


 男の年齢は五十代くらいか。だからふつうにケンカしても、まず十代の、しかもそれなりに心得がある奴にかなうはずがない。


 勝った。


 おれはそう思った。


 

「――――――あぶないっ!」



 そう、それがハルの声だと気づいた瞬間には、遅かった。おれはそいつが、そいつの本性がいかほどに凶悪であるかを気づかなかったのだ。


「――――――は?」


 おれは思わず声を出していた。いや――漏らしていたといった方が正しい。


 ずん、と衝撃が襲った。恐ろしいほどの衝撃だった。


 なんだ、これ?


 体が熱かった。


 おれはおそるおそる自分の腹を見下ろした。そして再び男の姿を見た。彼は悪魔の笑みを浮かべてその柄を強く握りしめていた


 じんわりと赤いモノが広がっていく。近場だからと着ていった白いTシャツに、じわじわと赤いシミが広がっていく。


 おれは反射的に動かない方がいいと悟った。足を半歩分、ゆっくりと後ろに下げていく。


 だが男は容赦をしなかった。反応できないおれをあざ笑うかのように、そのナイフを、ギラリと光るナイフをおれの腹から抜いた。


 そしてもう一度、彼はすかさず踏み込んできて――



 ――――――――――――――――


 隙ばっかりだ。アタシはなにをやっていたんだろう。


「あすと――! あぶない――!」


 あたしは叫んだ。必死だった。


 今朝のニュースでわかっていたはずだ。父親が強盗を起こしたこと、そして奴は刃物を持っていること。


 父親の名前は圭一という。アタシは圭一を親とは認めていない。彼はあたしたちのすべてを壊した張本人だ。


 そして、新しい家族さえもこの時点で失わせようとしている。


 作り上げることのできない男。それがあたしの父親だった。壊すことしか能がないサルと言い換えても構わない。


 アタシは頭が真っ白だった。なにをしているんだろう。


 明日斗にナイフが刺さってしまった。どうしようどうしよう――!! 思考が加速していくのに、得られる結論がなに一つない。だいいち怖かった。明日斗の命が失われてしまうことが。


 そしてなにより、父親が怖かった。アタシを怒鳴りつける声は今もアタシの頭の中を反芻している。恐怖で足が竦む。


 動け――! アタシは必死に念じた! 動け動け動け!! 明日斗があぶない目に遭っているというのにただぼーっと見ているしかできない自分。


 そんなにアタシはちっぽけな人間になってしまったんだろうか? 違う! アタシは変わった。新しい父親から解放されて、自分自身を取り繕って学校のみんなと仲良くなった。それは間違いなくあたし自身が作り上げたモノだ。


 明日斗ももちろんその一人だった。だから失いたくなんてない。


「…………………………ッッッ!!」


 アタシは飛びついた。ナイフを振りかぶった圭一の腕を押さえ込もうとする。アタシの力じゃかなわないことはわかってる! ケド明日斗が逃げるだけの時間を稼げたらそれでよかった。


「逃げて明日斗!! 今のうちに!!」

「だめ………………だ……………………!」

「この……………………はなせッ!」


 圭一は男性の中でもそこまで力が強くない方だとは思う。五十代という年齢も考えれば当然だった。ケドアタシは女だ。力じゃまずかなわない。


 アタシは体重を掛けて、なだれ込むように圭一を抑え込んだ。彼と一緒にゴミ捨て場のネットの上に倒れ込む。中にはクッションとなるゴミは入っておらず、アタシは膝をすりむいた。ケド構っていられるもんですか――!


「明日斗逃げて! お願いだから!」


 あたしが叫ぶ。すると明日斗は何のつもりか、アタシの方に近付いてきた。なにをしてんの!? アタシは怒鳴りつけたくなった。逃げてって言ってんでしょうが! 聞こえなかったのこのバカッ!


「………………ちっ!」


 圭一はアタシの背中を蹴り飛ばした。随分なことをしてくれる。ケドアタシはあいにく蹴られ慣れていたから、さほどの痛みは感じなかった。


「あんたたちどうしたのっ! ケンカ!?」


 遠くからおばさんの声が聞こえた。きっと近所に住んでる人だろう。騒ぎを聞いて駆けつけてきたのだ。


 途端、圭一が勢いよく振り返った。


 なんせおばちゃんは懐中電灯を持っていて、辺りを明るく照らしたからだ。


「ひっ――――――! 血!」


 おばちゃんは怯んだように懐中電灯を取り落とした。


 そこに紅い血のついたナイフを持った男の姿があったのだから当然だ。


「くそ――ッ!」

「待てッ! 待ちなさいってば!」


 圭一が一気に駆け出していく。ちょはぁ――!? ふざけんな! 逃げるとかない!

 

 どうして? どうして去って行くんだろう? これじゃあ一方的にこちら側が傷付けられておわりじゃん! 


「待てハル。おうな……」

「明日斗!? ケガは大丈夫なの!?」

「大丈夫だ……といいたいところだが重症だな。悪い、ちょっと休ませてくれ」


 明日斗はずるずると壁際にしゃがみ込んだ。出血がひどい。


 アタシが応急処置をするために、ジャージを脱いで腹部に巻き付けた。処置の仕方として正しいのかどうかわかんないけど、なにもやらないよりはマシだと思った。


「はる……いいかよくきけ」明日斗の呼吸は今にも消えそうだった。


 死なないよね!? アタシは不安でいっぱいだった。


「ごめん……あれあたしの父親。今朝コンビニ強盗のニュースがテレビでやってたんだけど、犯人あたしの父親だって気づいてた」

「そう……かよ。………………さきにいってほしかったな……」


「ごめんっ! でも、まさか今日父親に再会するなんて思ってなかったから」

「あいつは……なんであんなことしたんだろうな。なんで自分の首苦しめる真似するんだろうな……」


「明日斗ッ!? 死なないよね大丈夫だよね!?」


 父親がどうしてあんな行動に移ったのか。アタシにはなんとなくわかる気がする。生活に困窮したから、刑務所に入るために何らかの犯罪を起こそうと企んだのだ。


「へ、ーきだ。だが警察と救急車を呼んでくれ。そこに自販機があるだろう? そこに住所が書いてあるはずだ」


 たしかにアタシのすぐ傍には自動販売機があった。そこに住所が記載されているのは、アタシだって知ってる。


「いうとおりにしろ」

「う、うんっ、わかった!」


 アタシはすぐに言われたとおり警察と救急車に電話した。


「五分くらいで来るって!」

「そうか……おばちゃん、なんかとんでもねぇもんみせてすまなかったな」


「いいのよ! それより、止血! あ、ああああああんた本当に大丈夫かい!?」


 救急車が車での五分間、おばちゃんはうろたえっぱなしだった。


 あたしは思う。


 明日斗をこんな目に遭わせた父親が、とても許せなかった。

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