ゴブリンさんと親父殿

31 浜田さん

 ゴブリンさんはなにやらぜえぜえ言っている。全力疾走だったらしい。


「どうしたんですか」


「白くて上に赤ランプの付いてる車が、親父殿の家の前に停まっていて」

 白くて赤ランプ……というと、救急車だろうか。


 親父殿になにかあったのか。ぞわっとする。そう思っているうちにサイレンが聞こえてきたので、通りに出て様子をうかがうと、確かに「カメラの田中」の前から救急車が走っていくのが見えた。


 これから暑くなりそうな、夏の朝のことだった。


 とりあえず家に引き返す。しばらくしたら二代目から連絡がきた。


「家の戸は開いてるから、ちくわちゃんとオーヤマブラザースの世話をお願いしたいんだけど、いいか?」というメッセージだ。


 決意をもって立ち上がる。弟と一緒に「カメラの田中」に向かうと、不用心なことに本当にドアの鍵が開いていた。重たいドアだから竹林院にも開けられないのだろう。


「失礼しまーす……」


「うなおー」

 竹林院の不安げな鳴き声が聞こえた。家族がいなくて寂しいのだろう。


 とりあえず茶の間に入り、二代目からの連絡を待つ。


 少ししたらメッセージがきた。

「ちくわちゃんのご飯は台所の土鍋の入ってる棚にカリカリがあるので、それを1日2食カレースプーンで4杯ぶん与えてください。オーヤマブラザースは同じ戸棚の子猫用パウチをひとり1袋、一日5回に分けてあげてください」


「わかりました」


「親父殿のこと心配してると思うけど、とりあえずいまは薬で落ち着いたので、もうすぐ戻ってこられると思う」

 そうなのか。それはよかった。


「お昼ご飯は炊飯器に炊き込みご飯が入っています」


「わかりました」

 そう返信して、弟に教えてやる。


「お昼は炊き込みご飯だって」


「やった!」

 弟は事態の深刻さがよく分からないらしい。しょうがない、子供だから。


 とりあえずプロット作業をすることにした。なんのスキルもない主人公が、現実世界に帰るために世界を冒険する話だ。


 弟はドリルを出してかりぽり勉強を始めた。漢字ドリルをやっているが実に字が汚い。


 昼前に二代目が帰ってきた。竹林院が猛ダッシュで出迎えにいく。

「おお、来ててくれたか。ありがとな」


「親父殿はどんな感じですか?」


「いまのところ薬で落ち着いてはいる。でも入院は免れないな。だから入院セットをとりに来たわけだ」


 なんでも親父殿はいつ入院してもいいように、名前を書いた前開きの下着やバスタオル、入浴セットなんかをひとつのバッグに詰めておいていたらしい。二代目はそれを担いで、

「じゃあ、もうちょっとしたら俺の友達がくるから……とりあえず入院の手続きしてくる。何度もやってっからすぐ終わると思うぞ」

 と言ってまた出ていった。


「親父殿、やばいのか?」


「わかんない。二代目はそんなにやばくなさそうな顔してたけど、親父殿そもそもかなりやばいからねえ……入院ってなったってことはだいぶまずいのかも」


「そうか、そんじゃ今度お見舞いにいこう。バナナ持ってけばいいよな」


 弟がのどかな顔をしているので、あまり不安がらないようにしよう、と覚悟した。


 とりあえずお昼に炊き込みご飯を食べた。そのあと竹林院とオーヤマブラザースにも、キャットフードを食べさせた。


 竹林院もオーヤマブラザースも食欲は旺盛だ。元気そのものである。


 それから少しして、地域の民生委員をしているという、パッと見がすごくおっかないおじさんがやってきた。二代目の友達らしい。


「達也が言ったとおりぜんぜん普通の子供さんじゃないか」


 二代目は達也という名前らしい。二代目と同級生なのだというそのひとは、浜田と名乗った。


「なに、学校でいじめられてるんだって?」


「はい」

 弟は真面目な顔で答えた。


「最初はおれが悪かったんです。姉貴はアマチュアの漫画家なんですけど、姉貴は漫画家なんだぞ、って周りに言ったら、ウソつきって言われるようになって」


「へえー! アマチュア漫画家なのか! すごいな!」


「すごいっすよね?!」

 それはいいのだ。


「ウソつき扱いされるようになって、だんだん教室に居づらくなって、まあそれはおれが悪いんですけど」


「ウソじゃないだろう、アマチュアでも漫画家は漫画家だ」


「そうですか?」


「そうだよ。ゆくゆくはプロを目指しているんだろう?」


「はい。まだまだ道は長いですが」

 わたしは恐縮した。


「素晴らしいじゃないか。夢や目標があるのは素晴らしいことだ」


 全肯定してくれる大人というもののありがたさよ。しばらく弟は、「あおぞらルーム」に入らなくてはならなくなった経緯を説明し、その「あおぞらルーム」が子供たちの間で軽蔑されていることも話した。


「それは先生が悪いな」

 浜田さんは腕を組む。すごく筋肉質だ。なんの仕事をしているひとなんだろう。


「でもおれも悪かったんじゃないですか?」


「悪くないぞ。先生が晴人くんを差別しているんだ。きっと先生からしたら、お姉さんが漫画家、っていうだけで差別の材料になったんだろうな。漫画家っていうのはすごくつらい仕事だってテレビで観たことがある。でも先生はバカにする理由にしたんだろう」


 浜田さんは立ち上がった。すごい存在感だ。

「ちょっと一服してくる。すぐ戻るから待っててくれ」


 どうやらタバコを吸うらしい。建物を出てしばらく浜田さんはタバコを吸い、ふうーっと息をして戻ってきた。


「さて……晴人くんはどうしたい?」


「おれは、ふつうに学校に通いたいだけです。高校を出たらカメラの専門学校に行って、写真家になりたいんです」


「それは達也にそそのかされたのか?」


「いえ。おれはカメラがずっと前から好きで、学校サボって河原で鳥の写真撮ってたときに、ここの――親父殿って名前なんていうんだ?」


「えっ、わかんない」


「親父殿に会ってここに来るようになったんだね?」


「そうです。そんでカメラのこといっぱい教えてもらったんです。それで一生の仕事にしたいって思ったんです」


「そうか。そうか……」

 浜田さんが納得しているところに、二代目が戻ってきた。


「ハマちゃん、久しぶり。相変わらず建築業は忙しいのか?」


「それなりにな。取り壊しとリフォームばっかりだ。それにしても達也がこういう慈善事業始めるとは思ってなかったぞ」


「慈善事業ってほどのことじゃない。俺にガキがいたらこれくらいなのかなって思ってな」


「……達也。俺らの世代の子供はもう独り立ちしてておかしくないんだぞ。俺の娘はもう大学を卒業して働いてるんだからな」


「そうなのか? まあそこはいいだろ。とにかくよろしく頼むよハマちゃん。俺はこの子らの親じゃないから、出しゃばるのも筋違いだしな」


「わかった。学校の腰抜け教師を説教してくる」


 浜田さんに説教されたらさぞかし怖いだろうな……。浜田さんは立ち上がると、一礼して「カメラの田中」を出ていった。

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