4 ペペロンチーノを食べてみたい

 寒い。

 わたしは女子トイレのいちばん奥に追い詰められている。

 目の前のクラスメイトはトイレ掃除に使うバケツを持っていて、それでざばばーっとわたしに水をかけてきた。寒い、冷たい、汚い。

 絶望だ。

 誰も助けてくれない絶望の断崖絶壁だ。

 怖い。

 クラスメイトたちはわたしを抑えこむと、口に柄のついたタワシを押し込んでくる。


 そんな恐ろしい夢を見て目を覚ました。汗びっちょりだ。

 ここまでの暴力を振るわれたことはないはずなので、たぶん脳内で脚色されてしまったのだろう。

 はあ、とため息をつく。


 疲れた、と思っていると弟がドタバタと帰ってきた。またゴブリンさんを連れてきたのかと思ったらふつうに一人だった。


「姉貴、腹減ったよ」


「わかった。冷食のパスタでいい? 晴人の好きなナポリタン買ってきたよ」


「おれ、ペペロンチーノってやつ食べてみたい」


「そんなの買ってないよ……」


「じゃあ次冷食のパスタ買ってくるときはペペロンチーノな!」


「……からくて食べられなくても知らないよ。なんでまたペペロンチーノ?」


「だって名前がかわいいから」

 はあ。


「あとさ姉貴、おれスマホ欲しい」


「なんつうムチャなことを……スマホってめちゃめちゃ高いんだよ? 十万円以上するんだよ? それを壊したりなくしたりしないで使えるの?」


「姉貴ができるんだからおれもできる!」


「……まあ、父さんか母さんが来たら相談してみるけど……」

 というわけで冷食のナポリタンを二人前チンし、二人でつつく。


「姉貴、グリーンカレーってうまいのか?」


「どこでそんなもの覚えたの」


「こないだ学校で、クラスのやつが川向こうの街の無印で買ってきて食べたって言ってた。おいしいらしいぞ」


「川向こうの街ねえ……車がないと無理だよ? 無印ってフジノヤショッピングセンターに入ってるとこでしょ?」


「だから姉貴、車の免許とれよ」


「そんな無茶な。それにうちには駐車場がありません」


「えーっなんでだよ。高校三年生のひとって免許とるんだろ?!」


「免許をとるには教習所に通わなくてはなりません。それには年齢かける一万円のお金が必要です」


「えっ?! だったら若いうちにとったほうがいいじゃん」

 ド正論である。弟の口から正論が出てくるとは……。


「でも十八万円、ぽっと出せる?」


「十八万あればなにが買えるんだ?」


「うーん……あ、猫。ペットショップの安売りになってる猫。耳が折れてないスコとか足の長いマンチカンとか」


「猫?!」

 弟はしばらく考えて、

「猫ならご近所で生まれたからもらってほしいとか捨てられてるとかあるけど、免許はそういうわけにいかないもんな」と呟いた。


「そういうことです。諦めてください」


「はぁい」


「きょうは河原でなにしてたの?」


「鳥の写真撮ってた。でもこのデジカメ、うまくピントが合わないんだ」


「それでスマホが欲しいわけね」


「おう。スマホって映画撮れるくらいカメラがいいんだろ?」


「まあ……そういう機種もあるね」

 わたしは少し天井をにらんでから、

「でもあんたのことだからえっちなサイト見て架空請求詐欺がくるとかソシャゲにお金溶かすとかして大変なことになるんじゃないの?」

 と、弟をジト目で眺めた。


「そーゆーのに興味はない! 写真が撮りたいんだって!」


「そんならデジカメで我慢しなさい」


「えっ、一眼レフ買ってくれるのか?!」


「そんなわけあるか。そのコンデジを使えって意味ですー!」


「姉貴のケチ!」


「ケチで結構!」

 軽くケンカしかけたのでとりあえず話すのをやめてシャワーを浴びた。弟もあとからシャワーを浴び、部屋着でぐうたらすることになった。


 テレビをつける。いつも通り馬鹿馬鹿しいバラエティ番組をやっている。

 この街のある県は民放が三局しかない。Xで話題になるアニメはだいたい配信で観ている。


 スマホのちっちゃい画面とちゃちい音では味わいが半減しているだろうなとは思うが、アニメのDVDというのはなかなかレンタル落ちにならない。


 レンタル落ちになっても全十二話だと何枚も買わなくてはならないので、アニメは配信で観て、面白かったなあとよく咀嚼しているのだった。


 弟は馬鹿馬鹿しいバラエティ番組をゲラゲラ笑いながら観ている。面白いらしい。わたしはどうもこの手の番組を今一つ好きになれない。ので、作画作業を進める。


 どうにかゴブリンさん漫画に着手することができた。一ページ目の線画は終わった。時計を見るともう11時だ。


「晴人、いい加減寝なさい」

 そう声をかけて振り返ると、弟はバラエティ番組をつけたままくってりと寝ていた。


 とりあえず弟に毛布をかけてテレビを止め、わたしも寝てしまうことにした。

 平穏だ。

 なんて平和なんだろう。


 翌朝目を覚ますとすでに弟がシリアルを用意していた。

 珍しく変な夢を見なかったので気分がいい。シリアルをしゃくしゃくと食べて、弟が出かけたのを確認し、テレビをつけた。朝ドラが始まるところだ。


 夏なので朝ドラは折り返し地点を過ぎて少し、というところか。

 きょうも面白かったので感想をポストし、さて、とパソコンに向かう。


 毎日更新の一ページ漫画をUPし、ゴブリンさんの作画を進める。


 線画が終わるころ時計を見ると昼だった。とりあえずいったん休むことにする。

 水出しルイボスティーをコペコペと飲み、きょうは弟もちゃんと学校に行っているのだな、と安心する。いや家にこないだけで、河原に行って遊んでいる可能性は大いにあるのだが。


 とりあえずなにか口にいれよう、と冷蔵庫を開けてチョコレートを取り出す。

 よし。元気百倍だ。作画作業の続きを進める。


 本当はアナログのほうが描きやすい。しかしアナログで描くには画材がいる。川向こうの街にいけば画材屋さんがあって、ふつうに漫画の画材も買えるのだが、買いにいくのが面倒なのでフルデジタルで作画している。


 漫画を描くというのは大変地味な作業だ。

 えねっちけーでやっていた「漫勉」という番組はとても面白かった。レジェンドと言える漫画家が続々と漫画の描き方を公開してくれるすごい番組だった。


 そういうのが取材に来るような漫画家になりたいなあと思って、自分にも功名心みたいなものがあることに苦笑いが出る。


 小さいころから日陰者だったので、人気者になるのはずっと夢だったわけだが。

 そういう明るい人間の素質を、わたしは何一つ持ち合わせていないように感じる。


 とりあえず線画が終わった。あとは範囲を指定してトーンを処理していく。デジタルだとトーンがきれいだ。トーンくずだらけになることもない。


 ……できた。

 そういうわけでさっそく「実録! 弟がゴブリンを連れてきた話」をポストする。そう長いものではないし、誰かしらがいいねしてくれたらそれでいい、くらいの感じだ。


 さて、きょうはこれくらいにして家事をしますか。

 たまった食器を洗い、水切りかごに並べていく。


 きょうは焼きナスにしよう。皮を丁寧にとって冷やして、お醤油をかけて食べるやつ。夏は野菜がおいしくてうれしい。


 ナスをグリルで焼き、皮をとり、冷蔵庫に入れる。

 こういうものならわたしでも食べられる。


 学校というものを完全に諦めてから、変に食が細くなった。

 もともと食の細い人間ではある。だからきっと学校で使うべきカロリーが余っているから、食べなくても平気なひとになってしまったのだろう。


 外はまだ明るい。夏なんだなあと思う。

 そう思っていると弟が帰ってきた。なにやら赤い目をしている。


「……晴人、なにがあったの?」


「学校で、姉貴は漫画家だって言ったら、噓つき呼ばわりされた」

 まあそりゃそうでしょうねえ。メジャーデビューしてるわけじゃないし。


 実際のところ同人誌すら作ったことがないし。

「なんでそんなこと言ったの?」


「国語の授業で、お父さんお母さんの仕事の話を作文にしろ、って言われたんだ」


「それで当てられて姉貴は漫画家だって言ったの?」

 弟は頷く。


「なんでわたしなのよ。お父さんでもお母さんでもいいじゃない」


「だって父さん母さんなにしてるか知らないもん」

 それはその通りかもしれない。


 父も母も、毎日世界中を飛び回る職種だということしか知らない。なんの仕事をしているのか、はっきりと教えてもらったことはない。


 なにかヤバい仕事なんだろうか、とも思うが、たぶんそうではない。単純に説明が難しい仕事なのだろうとわたしは思っている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る