第6話 命のカード

 Side-白川いのり


「いや、行かないで」

 勇気を振り絞って、そう言った言葉に良太は俯いた。

 とても困った顔で、とても苦しそうに……。


 そして何度目かの「ごめん……」


 胸が苦しかった。

 今、彼の心の中にはもう、いのりはいない。なんてわかっている。


「いいの。行ってあげて」


 彼は驚いたようにいのりの顔を見た。


「ちゃんと言いたかったの。行かないでって。本当の自分の気持ちを言いたかっただけだから」


 いのりは母のようになりたくなかった。

『行かないで』と言えず壊れていく母をずっと見て来たから、自分はあんな風には絶対ならないと決めていたのだ。


「もしかしたら……明日、行けないかも」

 良太はまた俯く。


「うん。わかった」


「ごめん」


「いいから、早く行って!」


 その言葉で、か細く繋がっていた糸を勢いよく断ち切るように、彼は玄関を飛び出した。

 自転車の車輪が勢いよく石畳を転がる音を聞きながら、いのりは下唇を噛みしめた。


 命のカードを切るなんて、ずるい女。


 ――私は、絶対に負けない!!




 Side-良太


 ひたひたと点滴の落ちる音までもが響いてきそうな静かな廊下で、良太は法子と共に処置室から医師が出て来るのをひたすら待っていた。


 法子は両手を組んで、まるでお祈りするみたいに額に添えている。

 その顔は、これまで見た事がないほど憔悴していて、痛々しい。


 白川の家を後にして、力いっぱいペダルを漕いで、自宅に到着した時には悪夢が待っていた。

 アパートの敷地を取り囲む報道カメラマンと野次馬。

 その向こう側には派手にパトランプを点滅させているパトカーが数台停まっていて。

 アパートをぐるっと取り囲むようにに、立ち入り禁止の黄色いテープが張られていた。


 隆司は家で留守を守っている。

 アパートの住人からの問い合わせなどの後処理で右往左往していた。

 病院は幸い自宅から自転車で10分ほどの距離で、群がる報道陣を振り払い、野次馬をけむに巻きながら、良太はここまでやって来た。


 時刻は24時を過ぎたところだ。


「幸いね、飛び降りた下に、ちょうど大型のトラックが停まっていたのよ」


「やっぱり自分で飛び降りたの? 事故とかじゃなくて?」


 法子は悲痛に頷き言葉を続ける。


「屋上の防犯カメラに飛び降りる姿が映ってたわ」


 良太はため息を吐きながら頭を抱えた。


「屋上から飛び降りたの?」


「そう。屋上から」


 てっきり自分の部屋のベランダだと思っていた。

 屋上と言えば、余裕で地上10メートルはある。


「一階の曽根さんが明日引っ越しでね、元々トラックの運転手をしていたそうで、業者を頼まずに自分でトラックを手配していたの」


「へぇ」


「停める場所がないから、アパートの横に邪魔にならないように横づけしておいていいかって相談を受けたんだけど、問題ないからどうぞって」


「その上に落ちたの?」


 法子は力強く頷く。


「ちょうどホロが被ってたから、それがクッションになったと思うの」


「じゃあ、そんなに大した怪我じゃない?」


「救急隊員の人が言うには、恐らく命に別状はないだろうって。ただ、トラックに着地した後、地面に転がり落ちたみたいで頭からは血が流れて、意識がなかったから検査次第よね。たまたま通りかかった住人がすぐに119番通報してくれてね」


「そうか」


「だけど、どうしてあんな事……」


 法子は言葉を詰まらせた。


「忘れ物を取りに帰るって言って、家を出た時、やっぱり無理にでも一緒について行くべきだった」


 そう言って顔を覆った。


「美惑ちゃんのお母さんになんて説明すれば……。ママ……申し訳なくて」

 良太は法子の背中をそっとさすった。


「母さんは悪くない。悪いのは俺なんだ」


 法子はぱっと顔を上げて良太の顔を見た。


「けんかでもしたの?」


 良太は首を横に振る。


「俺と美惑は……実は……」


 その時だった。


 処置室から緑の作業着を着た医者が出て来た。


 弾かれるように立ち上がる良太と法子。


「黒羽さんの、ご家族の代理の方ですね?」


「はい、そうです」


「こちらへどうぞ」


 と、小さな会議室のような部屋に案内された。

 パソコンが乗った大きな机に座ると、対面の椅子に促した。


「どうぞ、おかけください」


「あの、先生。美惑ちゃんは……」

 椅子に座りながら、待ちきれない様子で法子が口を開く。


「はい。今から説明しますが、今はもう意識が戻って、普通にお話ができる状態です」


「よかった」

 法子と良太は顔を見合わせて安堵を分かち合った。


 医師はパソコンを操作し、モニターをこちらに向け、数枚のMRI画像を見せると、小さな人体模型を取り出し説明を始めた。


「足首と肩、ちょうどこの部分ですね」

 模型を指し示す。


「ここと、ここに骨折が見られます。MRIで見るとわかるのですが、白くなってる部分にひびが入っている状態です。

 恐らくトラックの上から地面に落ちる際、足の方からゆっくりと滑り落ちた形のようです。

 本人によりますと、この時の記憶が定かではないようで、あくまでも憶測になりますが。

 頭部は側頭部に裂傷がありまして5針縫ってます。CTとMRIで検査した結果、頭がい骨、脳共に異常は見当たりませんでした。外傷だけですね。意識障害も今の所は見当たりません」


「よかったー。ありがとうございます。しばらくは入院ですか?」


「いえ、骨は大きくズレたりしてるわけではないので、固定して自然と繋がるのを待つような感じですね。無理すると折れてしまったりするので、しばらくは安静です。日常生活は多少支障が出るかもしれませんが、無理のない範囲で普通に過ごされて大丈夫かと思います。今夜は念のため入院してもらいますが、明日まで大丈夫そうであれば退院できます。その後はご自宅で引き続き経過観察をお願いします」


「わかりました。ありがとうございました」


「えー、ただ。やはり自殺未遂という事になりますので、今夜も含めて決して目を離さないようにお願いします。突発的に飛んだようなので。たまたま幸運が重なりましたが、本来なら命を落としてもおかしくない所ですので」


 きーんと空気が張り詰める。


「わかりました」


 良太と法子は、医師に深々と頭を下げ礼を言った。


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