第6話 転機

 Side-美惑


 涙で歪んだ視界で走ったせいで、コンクリートの階段を踏み外し、派手に転んでしまった。

「いったーーい」

 痛みと情けなさで余計に涙が溢れる。

 捻った足首がじんじんと熱を持ち、すりむいた脛からは血が滲んで来た。


 このまま大声を張り上げて泣き叫びたい気分だ。

 冷たいコンクリートの上に座り込んで膝に額を押し付けた。


 傷の痛みは、冷たい外気が徐々に癒したが、虚しさと悔しさは消えない。

 良太は美惑の一番の理解者だと思っていた。

 どんな時も美惑を受け入れ、愛してくれる運命の人だと信じていた。


 だから、少々の浮気には目を瞑る覚悟もあった。


 それなのに……。


 元々信じられていなかったなんて。こんな悲しい事があるだろうか。


「良太……ひどいよ……。バカ……バカーーーー」


 心の声が自然とあふれ出した、その時。


「どうして泣いてるの?」

 甘く掠れた声が頭上から降って来た。


 その声で、瞬時に涙が引っ込む。

 ごしごしと顔を手で拭って、声の方を見上げると。


「怪我してるね。大丈夫?」

 朱理が美惑の足元に身をかがめた。


「え? ど、どうしてここがわかったんですか?」


「あ~、ごめんね。驚かせちゃって。そんな事より、手当が先だ」

 朱理は美惑に肩を貸し、階段を上った。


「部屋はどこ?」


 朱理を部屋に上げるのは気が進まない。


「ここで大丈夫ですので、あの、もうここで……」

 構わず帰ってほしい。そんな時、大人はどんな言葉を使うのだろうか?

 当たり障りのない上手い表現が浮かばず、美惑はしどろもどろになってしまった。


「足首が腫れてる。捻挫は癖になるからね。今後のパフォーマンスに響く可能性がある。処置は早い方がいい。僕は理学療法士の資格も持ってるんだ」


 立て板に水が流れるように、朱理がそんなセリフを吐いた後、にわかに沿道の人通りが多くなり始めた。


 更に人目について騒ぎが大きくなるとまずい。

 これ以上事務所に迷惑はかけられない。


 美惑は自分の部屋を指さした。

 目的地を見つけた朱理は美惑を片側から支えたまま、210号室の扉へと向かった。


 くじいた足首はやはり地面に付けた途端、激しい痛みが走る。

 とても一人では歩けそうにない。


 鍵を開けて、中に入ると、朱理は当たり前のように靴を脱ぎ奥へと侵入する。

 美惑をベッドに座らせると、「タオルはどこ?」と訊ねた。


「えっと、ここに」


 ベッド下の収納を引き出して、タオルを一枚取り出す。

 朱理はそれを受け取りキッチンに向かった。

 水道でタオルを濡らしながら、冷凍庫を開け、氷を取り出した。


「あのー、どうしてここがわかったんですか?」


 先ほどはぐらかされた質問を、再度試みる。


「あ~、一昨日君が使ったタクシー。うちの専属でもあるんだよ。ドライバーに、一昨日の深夜乗せた子の家まで送ってってお願いしたらここ連れて来てくれたよ」


「あー、あの、あの時は、何も言わずに帰ってしまって、ごめんなさい」


 朱理はタオルを絞りながら微笑んで首を横に振った。


 どうして、あのタクシーに乗った事がわかったのだろうか?

 

「そんな事より、あの日記者に写真撮られたでしょ」


「ああ、はい。とっても怖かった」


「週刊アクセスの記者だった。僕の所に掲載の許可をもらいに来たよ」


「え? そ、それで?」

 それで、あのタクシーを使った事がわかったのかと腑に落ちた。


「何もやましい事はないし、そちらが恥をかくだけで僕は一向にかまいませんよって言っておいた」


「え? そんな……。私は困ります」


 朱理は不敵な笑顔を浮かべながら、冷たいタオルを美惑の足首に押し付けた。


「冷たいっ」


「はは、ごめんごめん。君の事務所はあの記事買い取るだろうね。何もやましい事はなくても、アイドルのスキャンダルは事務所にとっても命取りだ。不要な火種は燃え盛る前に消し去りたいだろう。しかも君は稼ぎ頭」


「そんな事……」


「しかし、サンタピエールプロには掃いて捨てるほどアイドルが在籍している。いつまで守ってくれるかな」


「守ってくれます。社長は私にとって父親みたいな人なんです」


「さて、どうかな。替えのきかない唯一無二のアイドルだと自信持って言える?」


 美惑はうつむいた。自信を持って肯定する事ができなかった。

 現役高校生、童顔、ダンスや歌はそこそこ上手い。

 他に取り柄があるだろうか?

 美惑程度の、いや、それ以上に努力している魅力的な子は、事務所にたくさんいる。


「サンタピエールプロのホームページ見た? 声明が出てたよ」


 朱理は冷たいタオルを美惑に足首に巻き付けて、ポケットからスマホを取り出した。


 しばし操作した後、こちらにスクリーンを向けた。


『敬愛するファンの皆様、関係者の皆様へ


 この度、インターネットSNS上で拡散されております所属アイドル 黒羽美惑が関与した騒動について、深刻に受け止めております。

 この度の事態に際し、まずはファンの皆様、関係者の皆様、そして公共の場をお借りしている全ての人々に、深くお詫び申し上げます。


 当事務所は、今回の問題について厳正に対応するため、黒羽美惑の芸能活動を無期限で中止することを決定いたしました。彼女は未成年であり、彼女の将来を慎重に考える中で、このような決断に至りました。


 現在、事態の詳細については精査中であり、関係各所と緊密に連携しながら事実を究明しております。当事務所としては、真実を明らかにし、適切な措置を講じる責任を有しております。また、黒羽美惑 に対しても適切なケアを行い、今後の対応を検討して参ります。


 このような事態を招いたことに対し、改めて深くお詫び申し上げます。当事務所は、今後このような問題が発生しないよう、所属タレントの指導・教育を一層強化し、社会的責任を果たすことに努めてまいります。


 ファンの皆様、関係者の皆様のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。


 サンタ・ピエールプロダクション(株)

 代表 ピエール山田

 2023年12月18日』


 わかってはいたが、改めて正式に「無期限活動中止」を突きつけられた気がして、胸の内側がぎゅーっと狭くなる。

 どんよりとした不安が美惑を覆う。


「知ってると思うけど、サンタプロで無期限活動中止になったタレントが再度浮上した例は、これまで一度もない」


「え? そんな……。そんなはずない!」


「自分だけは違うって言いきれる?」


 美惑は何も言い返す事が出来ずに、ただうつむき唇をかみしめるしかなかった。


「うちの事務所においで。君には音楽の才能がある。僕が君をプロデュースする」


「へ?」


 思ってもいなかった誘いに、頭の中が真っ白になった。



 Episode3 完

 Episode4に続く

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