第3話 本当はね、君が傍にいてくれたら他に何もいらないんよ

 キッチンではガスレンジの上でミルクパンがグラグラと沸騰し、湯気を上げている。

 今にも吹きこぼれそうな勢いだ。

 良太は急いでガスを止めた。

「あ、お湯沸かしてたの忘れてた」

 美惑は震える声でへなへなと床に座り込んだ。


「いいよ。大丈夫、気にしなくて。何もなかったんだ、大した事じゃない」


 ガスを止め忘れたぐらいで取り乱すなんて美惑らしくない。

 美惑の身に何がおこっているのか、良太はにわかに聴くのが怖くなった。


「喉が渇いてて、お茶を飲もうと思って……」


「うん。何飲む? ミルクティ?」

 キッチンの上の棚にミルクティの箱が目に付いて、そう訊ねた。


「うん」


 箱からスティックを取り出して、粉末をカップに投入し、お湯を注いでやった。

 スプーンでクルクル回すと、甘ったるい香りが立ち上る。

 美惑の匂いに似ていると思った。


 法子が持たせたサンドイッチと共にトレーに乗せて、テーブルに運ぶ。


「とりあえず、胃に何か入れた方がいいよ」


「そうやね。そういえば昨日ずっと寝てて、何も食べてなかったっちゃん」


「そうだと思った」


 美惑は小刻みに震える指でアルミホイルを開くと、少しだけ瞳に生気を宿した。


「うわぁ、サンドイッチ。美味しそう。手作り?」


「うん、母さんが作ったって。美惑の事心配してる」


 美惑はたっぷりとたまごが詰まったサンドイッチを両手で持ったまま、しゅんと項垂れた。


「ごめんなさい。心配かけて」


 こんなに弱弱しくしおれた美惑を見るのは初めてで、良太は戸惑った。


「謝らなくてもいいよ。大人は勝手に心配するんだよ。お腹いっぱいになったら元気になるよ、な?」


 その言葉に美惑はなぜか目を三角に尖らせた。


「はぁ?」


「あ、ごめん。そういう、事じゃ……ない、よな?」

 どういう事なのかわからないが、違ったらしい。


 しかし、よほどお腹が空いていたのか、美惑は良太を睨みつけながらも、サンドイッチにかぶりつき、ふぅふぅしながら熱々のミルクティをすすった。


「食べながらでいいんだけどさぁ、何があったの?」


「何がって?」


「いや、助けてって、言ってたから」


「うーん。上手く言えないんだけど、辛い時とか苦しい時? そういう時、やっぱり良太が傍にいてくれたらどうにかなる気がするっちゃん」


「だから、その辛い事とか苦しい事が何なのかを聴きたいんだよ」


 美惑は急に何かを思い出しように、ダンっとカップをテーブルに置くと、スマホの操作を始めた。


「本当、ムカつくっちゃん。これ!」

 そう言って、スマホの画面をこちらに向けた。


 それは、SNSのDM受信の画面で、メッセージ冒頭だけが表示されているDMがずらりと画面を埋めていた。


 一瞬目に付いた物だけでも相当酷い。

『ビッチ死ね』『二度とメディアに出るな』『金返せ』『お前を殺して俺も死ぬ』『今からお前んち探し出して……』


「通知が鳴る度に、傷つけられる。怖いよ、良太」


 自業自得だな、という言葉を飲み込む。


「これは……。脅迫だし、殺害予告だし、警察案件だな」


「無駄だよ」


「どうして?」


「こんな人たち無数にいる。多分この人たちが検挙されたとしてもまだまだ後からいくらでも沸いてくるって、同じ事務所の先輩が言ってた」


「じゃあ、どうすんの?」


「とりあえず、一個ずつブロックしたり通報したりしてるんだけど切りがないよ」


「アカウントは消せないの?」


「消せるけど、消したら逆に怖い」


「どうして?」


「この人たち、ここに書き込めなくなったら、私の事探し出して殺しに来ると思う」


「まさか」


 美惑はまた鋭く尖らせた目で良太を睨んできた。


「オタクを甘く見てるでしょ。彼らにとって推しの恋愛は重罪なのよ」


「それはわかる」

 言いながら、良太の背筋も冷たくなった。


「社長がもっとセキュリティがしっかりしたマンションに引っ越しなさいって」

 美惑は膝を抱えて、悲しそうに、そして不満げに眉をしかめる。


「引っ越すの?」


「引っ越したくない! ここじゃないと意味がないよ。良太の傍じゃなきゃ……意味がないっちゃん……」


 抱えた膝の上に顎を乗せて、うつろな目で宙を見つめる。

 今にも捨てられそうな子犬みたいな目が、良太の胸を締め付けた。


「逆に安心かもよ? 美惑みたいな人気のアイドルがこんな安アパートに住んでるなんて誰も思わないでしょ」


「けど、学校はすぐにバレそう。生徒の中にも危険なオタクはいるし。下校の時付けられたらお仕舞やん?」


「学校はリモートにするしかないよ」


 美惑は上目遣いで良太を睨みながら、こう言った。


「俺が守るとは、言ってくれないんだね」


「あ? え? えー、だってさぁ……」


 現実的に考えて無理だろう! 口では何とでもかっこいい事言えるかもしれないけど、例えば刃物持った狂人が襲って来たとして、一人で立ち向かえるわけないだろー。


「そんな無責任な事言えるかよ。少女漫画の世界でもあるまいし」

(ラブコメだからね、これ)


「あ、そうだ、いけね。忘れるとこだった。俺、ちょっと用事あるから帰るわ」


「は? 用事ってなに?」


「いや、買い物。母さんに頼まれてクリスマスツリーの飾り買いに行くの」


「どこに?」


「駅前のショッピングモール」


「ピオン?」


「うん、そう。ピオン」


「私も一緒に行く」


「は? 無理だろ」


「なんで?」


「ヤバいでしょ。今一番ヤバいでしょ」


「大丈夫。変装する」

 美惑はさっきとは打って変わって、別人みたいに血色のよくなった顔でにぃっと笑って見せた。


「変装って言ったって、先ず、その髪色は隠せないよ」


 美惑の髪は独特のブリーチカラーで、複雑な色見をしている。

 ミルクティ色というらしいが、良太にはベージュにしか見えない。

 この髪色を若い子がよく真似てインスタをにぎわせている。

 美容院では、「美惑ちゃんみたいな色にしてください」と言えば通じるらしい。


「黒に染める!」


「え? いいのかよ?」


「うん。どうせ無期限活動休止だしイメチェンする!」


 青春ドラマの主人公みたいに、美惑は目線を上に向けて立ち上がった。


「けど、今から美容院予約取れるかなー? クリスマス前とかどこも予約埋まってそうだけど」


「黒染めのカラー剤あるけん。自分で染めればいいっちゃーん!」

 美惑は立てた人差し指を、顔の横で天井に向けた。


 ――っておいおい。一緒に行く気満々なんですけどー。また白川さんとのデートが遠のくーーーーーー!!!


「ねっ、良太。髪染めるの手伝ってくれるよね? ね!」


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