第3話 「イヤだ! 行かないで」なんて言えない

「お待たせー」


 語尾に音符とハートを躍らせて、美惑がバスルームから戻ってきた。

 ついでにシャワーを浴びたのか、衣装に合わせて雰囲気を演出しているつもりなのか、髪先から雫が垂れている。


 雫が伝う首筋。


 その下には、もちろん揺れる……、いや理性を揺るがすぷるっぷるの果実。

 丸みを帯びた小さな三角形の布は、小さい、とても小さい、とても……。


 たった3枚の小さな布で、かろうじて大事な部分が隠されているその姿は、とても神秘的に見えるのだから不思議だ。

 丸見えよりも、むしろ、そそられる。


「どう? かわいかろー?」

 肘をぎゅっと曲げて、きゅーっと胸を寄せるから、小さな布がズレそうでハラハラする。


「あ、そうだ。インスタ用の写真撮っておこー。良太、写真撮っちゃらん?」

 そう言ってこちらに背を向け、テーブルの上のスマホに手を伸ばす。

 真ん中だけを細いヒモで隠した、形のいいお尻が眼前を支配した。


「ああ、うん。わかった」

 こちらに背を向けた状態でスマホを操作する美惑。

 その手が止まった。


 マイクロビキニの破壊力で、忘れていたが……。


 朱理。


 あいつから連絡が入っていたのだ。


「あ~~ん。良太、ごめん。仕事やん。今から出かけんといかん」


「え?」


 ――行くのか? あいつの家に?


 美惑はクローゼットからざっくりと編み込まれたベージュのセーターを取り出し、水着の上から羽織った。


「着替えないの?」


「ふ? 着替えない。下着と変わんないし、これでもよかろー」


「そんな事ないだろ。下着と水着は全然違うだろ」


「どう違うの?」


 下着なら簡単に服は脱げないけど、水着なら――。気が緩んで脱いでしまうかも……

 そんな不安を飲み込む。


 何故なら、美惑は別世界の住人なのだから。

 こちらの世界に棲む、良太の常識など通用するはずもない。


 良太の知らないところで、大人の男たちを手玉に取り、これからも成り上がっていくのだろう。

 プロデューサーや大物芸能人に枕営業なんて、美惑にとったら当たり前の事なんだ。

 良太はぎゅっと拳を握った。


「いや、別にいいや」


 良太には問いただす資格なんてない。


 それに、もしも美惑が、その天才アーティストと付き合う事になれば、良太だって今後、美惑の目を気にする事なく、脅かされる事なく白川と付き合えるのだ。


 こんな好都合はないだろう。


「もう行くの?」


 美惑は壁掛け時計を見上げて、うなづいた。


 大きく胸元が開いたセーターからは、少し屈めば溢れそうな谷間が覗く。

 黒のテカテカとしたショートパンツに、セーターの裾を雑に押し込んで小さなショルダーバッグを肩に掛けた。


 クローゼットにくっ付けている小さな鏡を見ながら、前髪を整えてリップグロスを引く。


 ためらいも、陰りも見せずに、美惑は良太の顔を見て

「ふっ?!」

 親指を立てて、玄関の方を指さした。


「もう、出る」


「あ、そっか」


 お前もさっさとこの部屋を出ろよ、という合図だと受け取った。


 美惑より先に玄関に揃えていたスニーカーを履いて外に出る。


「じゃあ、また」


「うん。今日はありがとう。勉強教えてくれて」


「うん、気を付けてね」


「…………良太?」


「なに?」


「大好きだよ」

 そう言って、少し寂しそうに笑った。


「…………」


 ――嘘だ! 


 意を決したように歩き出す美惑。

 その後ろ姿に思わず声をかけた。


「美惑!」

 良太の手の届かない、遠くに行ってしまう気がした。


 それなのに


「なに?」


 振り返った美惑の顔を見て、何も言葉が出なかった。


「ごめん。なんでもない」





 Side-美惑


 夜の街は、温かそうなネオンがしきりに瞬いているが、息は白くなるほどに寒い。

 少し湿った髪が冷たくて、ちゃんと乾かさずに出て来た事を後悔した。

 

 急に真面目な顔で「美惑!」なんて名前呼ぶから、胸が破れるほど苦しかった。

 好きだって言ってほしかったのに。


 ――ムカつく!!


 朱理が住んでいるマンションは六本木駅から徒歩で5分ほど。

 良太以外の男性の家に行くのは初めてだ。


 途中、コンビニに寄って、夜食用のおにぎりやサンドイッチを購入。


 ――さてと。長い夜になりそうだな。


 心の中の呟きは、決してぼやきではない。

 これから先の事を想像すると、自然と頬が緩み、足取りが軽くなる。

 太もも辺りまでのロングブーツのヒールを軽快に踏み鳴らしながら、朱理のマンションへと向かった。


 入口で部屋番号を押すと、すぐに自動ドアが開いて『どうぞー』と甘く掠れた声が聞こえた。


 まるで水を張ったように眩しいエントランスを通り抜け、エレベーターに乗る。

 ガラス張りの壁の向こうには壮大な夜景が広がっている。




 ドアレバーを下ろすと、カシャっと小気味いい音を立てドアが開く。

 玄関にずらっと並ぶ色とりどりの高級そうな靴を見て、尻込みしたくなる。


「美惑ちゃーん。おはよー」

 朱理がラフな服装で、ニコニコ笑いながら玄関まで出て来てくれた。


「おはようございます。朱理さん眠そうですね」


「そう。昨日徹夜だったから。途中で寝ちゃうかも」


「ふふ」


「寝たらたたき起こしてー」


「任せてください。たたき起こすのは得意です」


 そんな冗談を言いながら、部屋に入った。


「ロリプラの美惑ちゃん、入りまーす」

 朱理がそう言いながら、リビングのドアを開けた。


「美惑ちゃん、おはよう」

「おはよう」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」


 音声プロデューサーや撮影スタッフが次々に挨拶してくる。

 その都度、丁寧に「おはようございます。よろしくお願いします」と頭を下げる。


「大丈夫? 緊張してる?」


 少し強面な音声プロデューサーは、美惑のこわばった肩をポンと叩いた。

「えへっ。少しだけ」


 ――嘘。全然緊張してない。でもこういう時はびびってる感じを出しておいた方が可愛がってもらえるのだ。


「この度は、コラボ依頼受けてくれてどうもありがとう。僕が作った曲、美惑ちゃんに歌ってもらえて光栄です」

 朱理は首をコリっとコリっと鳴らしながら腕を大きく回した。


「朱理君、美惑ちゃんの大ファンだからねー」

 音声プロデューサーが揶揄う。


「いやいや、そう言うのやめてくださいよ。犯罪じゃないですかー! 僕はあくまでも美惑ちゃんの声に惚れてるんですからね」


 朱理は照れながら大げさに両手を振って、周囲の笑いを誘った。


 

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