第5話 危険な嵐の予兆

 ぞくぞくと背中を襲う悪寒。

 イガイガと喉を攻撃してくる痛み。


 ピピッ。脇に挟んだ体温計が電子音を鳴らした。

 デジタル文字を確認して


「うげぇー」

 と思わず声が出る。


「何度?」

 ベッドの脇に立ちはだかる法子は、ひったくるように体温計を取り上げた。


「あらら、38度5分。風邪かしら?」

 そう言いながらおもむろに距離を取る。

 移るのを懸念しているのだろう。

 酷い母親だ。


「やぁね、こんな時に」


「うーん、でもテスト終わった後でよかった」

「毎晩、夜更かしばっかりしてるから免疫力が落ちるのよ。テスト前だけ詰め込んだって大した結果出やしないんだから、全く」


 法子は呆れた顔で体温計をケースに仕舞った。


「どうしようかしら? 旅行キャンセルしようかしら?」

 本来なら、今日から両親は北海道へ三泊四日の旅行に行く予定だった。


「ああ、いいよ別に。行ってらっしゃい」

「食事の用意だけは冷蔵庫と冷凍庫にあるけど」

「うん。それでいい」

「美惑ちゃんの分も作ってあるけど、どうしようか?」


 美惑が怒って、泣きながら帰ったあの日から1週間が過ぎていた。

 あの日、良太は約束通り美惑に電話をしたが、出なかった。

 電話に出るようにと催促のダイレクトメッセージを何度も送ったが未読無視。

 もちろん、DMではなく直接話すべきだと思った良太は、結局何一つ伝えられずにいた。

 帰宅はいつも夜遅い。アパートの前に停まるタクシーのヘッドライトで、美惑の帰宅を知る毎日だ。


「この頃忙しそうね。ドアに掛けてるご飯も取ってないし」

 美惑が食べなかった晩御飯は必然的に良太の朝ごはんになる。


「学校にはちゃんと来てる?」


「ああ、学校にはいるんじゃないかな? 校舎が違うからよくわからないけど」


 最初は心配で胸が痛んだ良太だったが、一週間もこんな日が続いたせいで、それが当たり前の事のように感じ始めていた。

 食事だって何もできない子供じゃあるまいし、お節介な母親にも若干うんざり気味である。


「何か悩みがあるみたいだったのよね。彼氏がいるような事言ってたんだけど、あんた何か聞いてない?」


 ズキンと頭が痛んだ。


「あ、いや、なにも」


「悪い男に騙されてなければいいんだけどね。どんな男かしら全く。あんな可愛い子を泣かせるなんて。美惑ちゃんに何かあったら、母さん黙ってないから」


 法子の声が、ズキズキと頭に響く。


「ちょ、あ頭いいたいから……」

 しっしと追い払う仕草をした手を、法子はパチンとはたいて、部屋から出て行った。


 静けさを取り戻した部屋でほーっと息を吐き、スマホを手繰り寄せて、学校のサイトを立ち上げる。

 欠席連絡を入れて、気を失うように再び眠りについた。



 目が覚めると、外はすっかり陽が落ちていて、群青の空は、ぼたぼたと雨を降らせていた。

 いつの間に置いたのか、机の上にはカロリーメイトとロキソニンが、トレーに乗せて置かれている。

 お腹は空いているが、カロリーメイトの気分じゃない。

 起き上がってみると、体は案外軽くなっていた。


 ヘッドボードに置いてある体温計で熱を計ってみると――。

 ピピッ。

「おお! 37度3分」

 平熱よりは高いが、今朝とは比べ物にならないぐらい体が軽い。


 時刻は18時30分。

 10時間以上眠り続けたらしい。


「あー、腹減ったー」

 一人ごちながら部屋を出た時だった。


 ピンポーンとインターフォンの音。

 リビングに降りてモニターを確認すると、そこには紺色に白い水玉模様の傘を差した、白川いのりの姿があった。


「うへ? え? どうして?」

 通話ボタンを押して「はい」と平静を装う。


「白川です。双渡瀬君?」


「ああ、うん。俺。ちょっと待って、今開ける」


 急いでドアを開けると、思いのほか雨が強かった。

「すごい雨だね」


「さっきまでそうでもなかったんだけど。本降りね」


「ううっ、さむっ! 白川さんも寒かったでしょ、あ、どうぞ」

 と玄関に招き入れた。

 横殴りの雨は瞬く間に玄関土間にシミを作った。


「ありがとう。けっこう寒くなったよね。もうコートがいるね」

 少しぎこちなく笑う、白川。


「もしかしてお見舞いに来てくれたの?」


「あは、そう。一応学級委員だからプリントとか、授業のノートとか持って来た。リモート授業にも参加してなかったみたいだったから」


「わざわざありがとう。朝からずっと爆睡しててさっき起きた所」

 白川は通学リュックを上り口に置いて、中からノートと茶封筒を取り出した。


「はい。ノートとプリント」


「ありがとう」


「じゃあ帰るね。早く元気になってね」


「あ、ちょっと待って。少し雨足が弱まるまで雨宿りして行ったら? 制服も濡れてるみたいだし、風邪ひかせちゃうと悪いし」


「あ、ああ」

 白川は濡れた肩口を見て、少し気まずそうに頬を強張らせる。


「でも……大丈夫。バス停すぐそこだし」


「そっか。じゃあ」


「じゃあ、明日」


「じゃあ」

 白川が玄関を出ようとした時だった。


 ぎゅるるるるるるーー

 腹の虫がけたたましく泣き始めた。

 その音に振り返った白川と目が合い

「あはは~、そう言えば朝から何も食ってないんだった。うちの親、旅行に出かけてて」

 と照れ笑い。


「そうだったの? それは不便だね。何か作ろうか? まだ本調子じゃないんでしょ?」


「え? いいの?」


「うん。私、こう見えてもお料理得意なのよ。うちのお母さん料理教室の先生だから」


「へぇ、そうなんだ。それは作ってもらいたいな」


「本当? じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」


「あ、うん、どうぞどうぞ」

 白川は玄関の隅っこに寄せるようにして靴を脱ぎ、家に入った。


「さて、冷蔵庫の中の材料を拝見しまーす」

 キッチンに入り、冷蔵庫を背に立った白川は、お道化て見せる。


 ――はは。可愛い。


「きゃー、恥ずかしい、見られちゃう」

 両手で顔を覆い、白川のテンションに合わせる良太。


 くるっと冷蔵庫に向き直り、扉を開けた。


「え? あれ? これ……」


「ん?」


「お鍋に、肉じゃがと、お味噌汁。それからタッパーにサラダと金平ごぼう」


「え? ああーーーー!! そう言えば! 母さんが今朝準備してるって言ってたわ。意識が朦朧としてて忘れてた」


「なーんだ。心配して損しちゃった」


「ごめん」

 と両手を顔の前で合わせた。


「そっかー、じゃあ私はこれで帰るね」


「え? どうして?」


「理由がなくなっちゃた。ここにいる理由」


「理由?」


「そう。彼女でもないのに、男の子のお家に上がり込むなんて、ダメだから」


 潔く良太に背を向けて、彼女は玄関へと向かった。


「白川」

「ん? なに?」


「なんていうか、ごめん。いつまでも待たせて」


 白川は首を横に振った。


「いいの。返事を待ってる時間もなかなか幸せだよ。ふふ、じゃあね、バイバイ」


 そう言って、頬を赤く染めて、玄関に向かった。


「え? あれ? うそ?」

 玄関から、白川の戸惑いの声が聞こえた。


「何? どうした?」


 良太も急いで玄関に向かう。


「どうしたの?」

「私の靴が、片方しかなくなってる」


 玄関の角にきれいに揃えられていたはずのローファーは、確かに片方だけになっていた。

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