1-2

 夕刻。


 石造りの噴水に腰を下ろした二人の男は、それぞれの思いに暮れながら静かに煙草をふかしていた。石造りの噴水から流れる水音が、二人の間に沈黙のリズムを刻んでいる。


「……まさか、本当に退席させてくれないとは」


 朱雨しゅうがポツリと呟く。その声には、どこか安堵と諦めが混じっていた。


「仕方ないさ。あの場では彼女がルールだ。誰も巫女様の命には逆らえないさ」


 中岡は煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら応える。その横顔には、長年の苦労が刻み込まれているようだった。


「だが、あの会議はただの茶番だ。藤本の策に載せられて、橘花たちばなも我々を排除しようとしている。……正直、面倒だぞ」


「あぁ、わかってる。藤本ふじもとの狙いも未だに掴めていないからな。そこに橘花の参戦。本当に、勘弁して欲しいね」


 朱雨は頷くと、真剣な面持ちで応える。二人の間には紫煙と言葉が飛び交い、煙草しえんと知略が場を支配していく。朱雨は短くなった煙草の火を消すと、二本目を取り出した。


 藤本と橘花。二人の関わる事柄ことがらは単純なように見えて複雑なのかもしれない。互いの立場や思惑が錯綜しているような感覚をあの会議を通して朱雨は感じ取っていた。


「それにしても、橘花があそこまで激昂げっこうするとはな。正直、驚いた」


「確かに。私に指揮権を奪われたからとはいえ、橘花の怒りは尋常ではなかった。何か裏がありそうだな」


 中岡は眉をひそめると、考え込むように顎に手を当てる。


「あぁ。それに、会議に参加していた他の連中も一筋縄ではいかない強者ばかりだ。彼らの背後にも様々な勢力や思惑が渦巻いている。ただでさえ、問題事ばかりだと言うのに話題は尽きない。全く愉快な連中だよ」


 朱雨は皮肉の混じった笑みを浮かべながら、煙草をくゆらせる。


 夕刻の空気に煙草の煙が静かに溶け込んでいく。彼らの前には、政治の裏側での暗闘あんとうや思惑が織り成す複雑な世界が いまも広がっている


「私も、常々そう思うよ。どれだけ表面上を取り付くっても、裏では闘いが繰り広げられている。政治とはそんなものだ」


 中岡の言葉に朱雨は遠い記憶を思い出す。いつか聴いた師匠の言葉を。


「────正義を口にした時点で人は等しく悪党、か」


 朱雨の声には、苦笑いが混じっていた。彼が置かれた立場や状況を考えると、師匠の言葉がますます重みを増していく。


「どうかしたか?」


 不意に中岡の声が響く。彼の声からは心配が滲み出ていた。


 朱雨は首を軽く横に振りながら、不器用に微笑む。


「いや、大丈夫だ。ただ、思い出していたんだ。師匠のことを」


「……お前の師匠はなかなかの名言家だな」


 朱雨しゅうは煙草に視線を落とすと、中岡の言葉に同意する。


「あぁ。この場に彼女がいたら、もっと話が盛り上がっただろうさ」


「そうかもな……」


 静けさの中で、噴水の音だけが響き続けた。夕刻の空気が哀愁あいしゅうを纏い、朱雨しゅうは過去の思いに沈んでいく。

 中岡は細くなった煙草の火を消すと、そっと立ち上がった。


「私は一足先に支部に戻る。とりあえず、藤本と橘花のことはコチラで調べてみるから安心しろ。お前はもう少しここでゆっくりしていけばいい」


「中岡……」


 朱雨は驚いたように顔を上げると、中岡を見つめた。


「気にすんな。お前も休める時に休んでおけ」


 中岡は微笑みながらそう告げると「それに」と朱雨の視線をそちらにうながす。

「可愛いお迎えが来てるぞ。慕われてるな


「……ちゃんとアイツらの兄貴が務まってるか、不安だけどな」


 朱雨はまだ火をつけて間も無い煙草を消すと、遠くに見える少女に軽く手を振った。相当に嬉しいかったのか、彼女は喜びいさんで駆け寄ってくる。中岡はその様子を見て、穏やか表情を浮かべた。


「じゃあな、朱雨。またなにかあったら声をかける」


「了解。また後で」


 中岡は軽く手を振ると、背を向けて歩き出した。噴水の音が再び二人を包み、夕刻に静けさが戻る。


 朱雨しゅうは少しだけ肩の力を抜くと、駆け寄ってきた少女と向き合った。


「蘭、お前一人だけか? 鈴はどうした」


 朱雨は首を傾げると、彼女と一緒にいることが多い双子の姉・『鈴』の姿を無意識に探す。二人一組で行動していることが多いだけに、蘭が一人で出歩いている状況に対して、多少の違和感を覚える。彼女はそんな朱雨の行動がしゃくさわったようで、口をへの字に曲げると肩を竦めた。白髪のショートヘアから覗く瞳が、じっとこちらを見つめている。


「鈴なら結衣と買い出しに行ってるよ。……あと、双子だからっていつも一緒にいる訳じゃないんだけど」


「……まぁ、それもそうか」


 朱雨は蘭の言葉に驚きつつも、納得すると穏やかな笑みを浮かべた。彼女はそんな朱雨に対してため息を零すと「呆れた」と言い放つと、隣りに腰を下ろした。


「それにしても、お兄ちゃん、最近忙しそうだね」


「あぁ。ちょっと、な」


 朱雨は蘭の頭に手を置くと、苦笑いを浮かべる。蘭はそれを自ら受け入れに行くと「撫でろ」と指示を出す。内心、『お前、今年で十六だろ?』 と思ったが、断ると彼女から拳が飛んでくる可能性が高い。仕方なく撫でてやると、お気に召したのか、彼女はご満悦な様子で堪能している。


「で、さっきの人だけど中岡でしょ? 何かあったの?」


「あー……」


 朱雨しゅうは一瞬、言葉を詰まらせるが、よくよく中岡から口止めされていないことを思い出す。それに今回の件に関しては、蘭も関係がないわけではない。いずれ彼女にも報告はいくだろうが、早い方がいいだろう。朱雨は少し躊躇いながらも口を開く。


「あぁ、中岡だよ。ちょっとしたことでね」


「それって、ボクも参加した例の件について?」


 蘭の瞳が朱雨を射抜く。彼女の表情は真剣そのもので、先程まで甘えていた十六歳の少女の面影は何処にもなかった。


 朱雨は唾液を飲み込むと、覚悟を決め事の経緯を説明する。その間、蘭は終始一貫して、何かを考え込むように合掌をしていた。

 朱雨が話終わると、蘭は合掌をやめて遠くを見つめる。


橘花たちばなかぁ……。実際、例の件でかなりご立腹だったみたい。色々と周りに愚痴ってたって聞いたよ」


「彼の愚痴なら俺の耳にも入ってきた。相当にご立腹だったみたいだな。それを藤本に上手く利用されたんだろう」


 蘭は朱雨の言葉に頷くと、何処か納得がいっていない様子で考え込む。


「どうした?」


「……気になったんだ。橘花たちばなのところとボクたち機関が揉めることって、こんな言い方は嫌いなんだけど、いつもの事だよね? それによく揉めるとは言っても基本的には橘花の部下たちとで、橘花本人とボクたちが揉めることは殆どない。彼自身も感情を表に出すタイプじゃない。だから例の件で橘花がそんなに怒ってることが、正直、少し怖い」


 朱雨は蘭の言葉に頷く。蘭の言葉通り、橘花は普段は冷静で感情を表に出さない性格だ。過去の揉め事の幾つかも、橘花が口添くちぞええしてくれたお陰で解決したことすらある。正直、会議での橘花の印象は、今まで抱いていたものとは余りにも真逆の男だった。普段が温厚なだけに怒りが爆発した時の影響力が大きいのか、それとも会議で見せた姿こそが素なのか。


「一応、中岡が調べてくれてる。何かあれば直ぐに報告が来ることになってるし、心配する必要はないよ」


「だと、良いんだけど……。お兄ちゃん、気をつけてね」


 朱雨は蘭の心配を受け止めなると、彼女の頭をやさしく撫でる。彼女は少し驚いた様子で顔を上げるが、直ぐに微笑んで目を閉じる。髪が軽く揺れ、彼の手の感触を満喫してるようだ。


「大丈夫だ、蘭。それに窮地きゅうちの際には、お前たちが助けてくれるだろ?」


 蘭は一瞬、朱雨の顔を見つめると、ふっと笑った。


「分かった。お兄ちゃんがそう言うなら信じる。でも、無理はしないでね」


「お前がそれを言うか? いつも俺や鈴に心配かけてばっかりの癖に」


 その言葉に彼女は頬を膨らませると「それはお互い様でしょう」と、やや興奮気味に言い返した。朱雨は蘭の元気な姿に安堵あんどし、空を見上げた。


「さて、そろそろ帰るか。鈴と結衣もそろそろ帰ってくるだろう」


 そう告げると朱雨は立ち上がった。瞬間、蘭に袖を引かれる。


「お兄ちゃん」


「なんだ?」


 蘭は朱雨しゅうの顔を見つめると、照れくさそうに微笑む。


 決して口に出すことはないが、最近の蘭はとても綺麗だと思う。顔の造形は整っているし、胸こそ無いものの、つつましやかな体をしている。普段はボーイッシュな見た目と性格に慣れ親しんでいたが、ふと垣間見える女性の面影に、彼の心は静かな衝撃を覚えた。


「ボクと、デートしょう……」


「お前……何を言って」


朱雨は驚いたように蘭を見下ろすと、小さくため息をつい吐く。彼女の瞳の奥にはまだ少しの不安が停滞ていたいしており、感情が揺れ動いている。


 朱雨はやさしく微笑むと、蘭の頭を再び撫でた。


「分かった。どこに行きたい?」


 蘭はぱっと目を輝かせると「秘密だよ」と言いながら立ち上がった。二人は並んで歩き始め、特別な場所へ向かうような気持ちで帰路についた。

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