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いつしか、話は安楽達の間だけで済むものではなくなっていた。レストランにいる人間全てが、こちらに注目している。地元の知り合いが殺人犯だと告発されているのだ。嫌でも注目はしてしまうことだろう。
「……どうだ、この国は。中々いい国だろ?」
どんな形で反論するのかと思ったら、小さく溜め息を漏らして着席する管理人。窓の外に見えるオーシャンビューは、息をふと止めてしまいそうに蒼い。
「えぇ、正直――ここに来るためにパスポートを取得したような人間ですが、ここまで他国が魅力的だとは思わなかった。特にシエスタ……でしたっけ? 残念ながら今回はそれどころではなかったけれど、こちらには昼間に3時間ほどの昼寝休憩がある。この時間帯はお店なんかも全部閉まるなんて聞いていたから、その光景を見たかったものです」
安楽が答えると、管理人は小さく鼻で笑う。
「日本人は働きすぎなんだよ。日が昇ってから暗くなるまで会社で働いて、帰ったら寝るだけなんだろ? 昼間良くて1時間くらいしか休めないと聞いたぞ」
海外から見て、果たして日本人は働きすぎなのであろうか。基準が日本である日本人からすれば、他の国のことなんて分からない。管理人はきっと、娘さんから話を聞いていたのであろう。そう、今回の旅行においての唯一の共通点であろうに、中々語られることのなかった娘さんから。
「ですが、シエスタの後も暗くなるまで働くんじゃないですか? いやいや、話には聞いていましたが、こっちは夜の9時くらいまで明るいんですね。なんだか不思議な気分でしたよ」
犯人の正体を暴いているはずなのに、いつのまにか管理人との雑談になってしまっている安楽。そこに菱田が口を挟んだ。
「あの時間まで明るかったおかげで、外作業ができたんだけどな」
菱田の思いつきで、窓の外に板を打ち付けに向かった安楽。あの時、帰ってきてしばらくもしないうちに午後9時を迎えていたが、あの作業が照明もなくできたのも、ここが日本ではなくギリシャだから――ということだったのであろう。せっかくの海外も、そのほとんどを孤島で過ごしてしまったら、あまり意味がないように思う。
「ちなみに、管理人さん。日本語がそこまでお上手なのも、やっぱり娘さんの影響ですか?」
管理人はもう罪を認めたのか。それとも、今さら話をはぐらかして、なんとか逃れようとしているのか。その様子からは判断しかねる。
「あぁ、あの子は幼い頃から日本という国に憧れていてな。そっちの映画やらドラマやらを観て、ほとんど独学で日本語を喋れるようになっちまった。いずれ、俺を日本に連れてってやるんだ――なんて言い出してな。俺もほとんど独学だけど日本語を学んだんだよ。こっちのほうだと、外国語喋れるだけでガイドの仕事なんかも山ほどあるからな。ちょうどいい機会だと思ったんだ。ただ……」
管理人はそこで溜め息を漏らすと、首を横に降りつつ俯いてしまった。
「カンジ……だったっけか? 日本語にはさまざまな文字の表記があるとは思ったが、まさかカンジでつまづくとは。ひらがなやカタカナくらいは少し触ったんだが、さすがにカンジまではな」
犯人は細川の言葉を聞いておきながら、ダイイングメッセージをもみ消さねばならなかった人物。なぜか【神楽坂麗里】と、死者の名前が書かれているのに、それをもみ消さねばならないと考えた人間。その人物は漢字を読むことができなかった管理人に他ならない。
「……あまり喋りたくないのであれば結構なんですが、どうしてあんなことを?」
レストランの中の空気は完全に凍りついてしまっていた。外で続きをやったほうがいいのではないかと思うほどだった。それを気にした菱田が、店員に向かって声をかけたが、店員から帰ってきた言葉は「続けて欲しい」とのことだった。たまたま店にいた客も同意するかのごとく頷く。
「娘はそっちの大学のほうに留学してたんだよ。その時に、あんたがたと仲良くなったそうだ。元より、娘が日本に興味を持つきっかけとなった映画やドラマは、そのほとんどがミステリ物でな。あの日本の大学で、ミステリ研究会に入れたことを、大層喜んでいたよ」
遠い目をして語る管理人は、きっと父親の目をしているのであろう。子どもさえ持ったことがない蘭が、勝手に父親の目だと決めつけては申し訳ないと思うほどに、その瞳は澄んでいた。
「でも、娘は在留期間よりも早く帰ってきてしまった。事後報告だが、大学にも話をして、自主的に帰ってきたらしい。詳しいことは話してもらえなかったが、随分と落ち込んでいるようだった。こんな時、母親でもいれば違うんだろうが、残念ながら母親は娘が小さい頃に死んでしまってね。あいつのそばにいてやれるのは俺だけだったんだ。そう……寄り添ってやれたのは、俺だけのはずだったんだ」
勢い良く管理人がテーブルを叩いた。その音に、ただでさえ静まり返っていた周囲が、さらに静寂に包まれる。いよいよ、外から聞こえる波音でさえかき消されてしまいそうだ。ふと、誰かの視線を感じて、そちらのほうに目をやると、香純と目が合った。香純は蘭と目が合ったことが分かると、すぐに目を逸らす。どうしたのであろうか。
「娘が自分で命を絶ったのは、それから数ヶ月後のことだった。これだけ懸命に育ててよ、最後はガレージで首を吊って終わりだよ。なんとも呆気ないもんだった。車が来るから危ない――とか、小さい頃は良く手をひいてやっていたが、ようやく手が離れたと思ったら、ガレージで首吊りだよ。自分が親として何かを間違えたんじゃないかと何度も思ったよ」
会話の中だけでしか出てこなかった娘という存在。思い返せば、あちら側の大学の人間もまた、そこまで彼女の存在には触れなかったような気がする。それはもしかすると、すでに彼女が亡くなっているということは知っていたからなのかもしれない。
「だが、どうやら原因は俺の育て方にあったわけじゃないみたいだったんだ。日本で何かがあったらしい――。あえて、ここで聞きたいんだが、なにか知っている人はいないか?」
管理人の問いかけは、明らかに全てを分かったうえで投げかけているものに思えた。もうすでに彼は答えを知っている。知っているうえで聞いているのだ。娘が帰国することになってしまった理由を。
「あの……彼女、日本でミステリ作家をしたいって言ってて。それで、たまたまweb小説の賞レースに参加したみたいで。そこで、二次選考まで残ったんです。結果的に受賞は逃しましたけど。それが、どうやら麗里ちゃん、面白くなかったみたいで」
海外の人間が、日本という独特な文化を兼ね備える国で、しかも小説というものを書く。それは並大抵のことではないだろう。しかも、受賞は叶わなかったが、二次選考まで残ったとなれば、それはプライドの高い人間から嫉妬されそうではある。
「一次選考に残ろうが、二次選考に残ろうが、結果的に落選してるわけだろ? どうして神楽坂はそれが面白くなかったんだろうな?」
榎本がぽつりと言う。きっと、彼は公募などに小説を出すようなタイプではないのだろう。
「まぁ、考え方によっては二次選考まで残れたってことになるからね。二次選考で落とされた――という考えかたをしなければ、結果が出なかった人間からすれば、羨ましいんじゃないかな」
安楽がフォローを入れると、管理人が店員に向かって「酒を持ってきてくれ」と一言。しばらくすると、瓶ビールとコップが運ばれてきた。瓶ビールのラベルには見覚えがある。別荘の地下室で見つけたビールだ。
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