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「ちょうど腹が減っていたところなんだ。いやいや、なかなかに気が利く方がいるじゃないか」


 それが彼の本心なのか、それとも彼女達のことを気遣ってなのか。どちらなのかは分からないが、安楽は手近にあった椅子に座る。その様子を横目で見ながら、榎本はやや声をひそめて真美子達へと言った。


「とりあえずみんなで食べよう。糸井田、小川。細川にもきっと悪気はないんだと思う。許してやってくれ」


 細川は部屋にこもり、残された重たい空気は榎本によって緩和された。そして、取り残されてしまったは菱田だった。菱田は咳払いをひとつすると、やや気まずそうに一番端っこの席に座った。それを見た真美子と香純も着席。最後に残った蘭と英梨が着席して、予定にはなかった朝食会が始まった。


 特になにかを話すこともなく、淡々と食事をする。スープはまだ暖かく、限られた材料で作られた割に美味しかった。優しい味とでも言おうか。バケットの焼き加減も程よい。久方ぶりにまともな朝食を食べた気がする。


「糸井田。ちょっといいか――」


 食事がひと段落ついたところで、榎本が真美子に声をかけた。たまたま近くにいた蘭だから聞こえた程度の抑えた声でだ。


「なに?」


 榎本に合わせて小声で問う真美子。榎本が菱田のことを気にしている様子から、どうやら彼に聞かれたくない話のようだった。


「後で朝食を細川のところに持って行ってやりたいんだ。用意してもらってもいいか?」


 もし、今の菱田がそんなことを知ったら、頭ごなしに怒鳴られるだけだ。明らかに菱田のことを避けた会話なのであろう。菱田とて良かれと思って仕切ろうとしているのだろうが、細川と口論したりと空回りしているような気がする。


「でも、細川が食べたくないって言ったのは間違いないし、持って行っても食べてくれないかも」


 今さらながらに気づいたのだが、真美子はばっちり化粧をしているようだった。いや、よくよく見回してみれば、香純も化粧をしているようだった。いつの間に化粧をしてきたのか。


「いや、俺達がすでに食べるから、毒なんて入っていないことを証明できてるだろ? それに、いくら鍵がかかるといっても、この状況で1人ってのは、色々とリスキーな気がするから、ちょっと説得したいんだ。それに、このスープ、本当に美味かったから」


 その言葉に真美子はくすりと笑う。


「榎本って、いつも眉間にシワを寄せて、難しそうな顔してるけど、根は優しいよね」


 すると、榎本はそれを鼻で笑って「今さら気づいたのか。僕は昔からそうだぞ」と、今度はうっすらと笑みを浮かべた。


「さて、問題はどんな理由をつけて細川のところに向かうか――だが」


 榎本と真美子の会話を盗み聞きしているような形になっている蘭だったが、思わず真美子と目が合ってしまう。


「あ……朝方ばたばたしてたし、御幸さんと天野さんって、まだメイクできてないよね? だったら、榎本も一緒について行くって形で出たら自然じゃない?」


 真美子につられるようにして、榎本の視線も蘭に集められる。ちょうど自分がすっぴんのままだったことが気になっていたわけだが、タイミングがあまりにも良すぎた。


「さっき、糸井田達もメイクをしに2人で部屋に戻ったんだったな。うん、単独で行動することにはならないし、俺がどちらかに頼まれたという形にすれば、自然とここを離れる口実になるか。よし、彼に提案してこよう。そっちは準備を頼む」


 お互い、このように口裏を合わせないと食堂を出られないというのは不便だが、しかし全員で集まっていればリスクを減らせるというのも事実だ。手間ではあるが、菱田とてやりたくてやっているわけではない。彼のことを邪険にするのは違う気がする。


「分かった。それじゃあ、準備するね」


 真美子がその場を離れると、少し離れた席から代わりに香純がやってきた。さっきまでは英梨と話をしていたようだが。


「あの、私達――これからどうなるんでしょうね?」


 漠然とした不安。本人でさえ他人に説明するのは難しい――そんな、あまりにも漠然とした不安感が香純から漂ってくる。迎えが来るまで日にちがあるし、その日になっても嵐が収まらなければ迎えは来ないかもしれない。彼女にとっては、きっと拠り所となっていたであろう麗里が死んでしまったから、どうしていいのか分からないのであろう。


「私がイッ君……あ、安楽と一緒にいると事件に巻き込まれるって話はしたと思うけど、その話には続きがあったりするんだよね」


 蘭はバケットにバターを塗る安楽のほうへと視線をやる。バターナイフにバターを乗せ、軽く伸ばすと、新たにひとかけのバターを乗せる。そしてまたバケットに伸ばす。


「それは、こうして私がここにいるってこと。彼、事件に巻き込まれる自分の体質は分かってて、だから好きでもないのに探偵小説とか推理小説とか読み漁ってね。その知識だけで事件を何度か解決に導いているのよ」


 幼い頃の誘拐事件は、彼の地頭が良かったおかげで解決できたし、その後の窃盗事件については、すっかり推理小説マニアとなっていた彼の知識が、事件を解決に導いた。他の事件だってそう。彼は巻き込まれてしまった自分の体質を呪いながらも、なんとか事件を解決へと導く。


「えっ――あの人が。その、あんまり頼りにはならなそうだけど」


 香純は外見よりも内面で人を見るのか。確かに、頼りにならない時はとことんならないし、いざとなっても文句や愚痴混じりで事件を解決しようとするのだから、決して格好のいいものではない。


「小説とかドラマに出てくる探偵とは別物だからね。必死になって、なんとか事件を解決するっていうか、いつもギリギリの一杯一杯なんだよ」


 ぼんやりと眺める蘭の視線の先では、バターナイフにバターが乗せられ、それが伸ばされ、またひとかけのバターがバターナイフに――。


「ちょっとそこ! バター塗りすぎだろ! 高血圧になる! 高血圧に!」


 延々とバケットにバターを塗り続ける安楽に、思わず立ち上がって注意する蘭。食堂の視線を一同に集めてしまった。


「――そんな細かいことを言うな。頭を回転させるには脂肪分が必要なんだよ。脂肪分が。その、主にトランス脂肪酸的なやつが」


「それを言うなら糖分じゃないの? 糖分」


 蘭の言葉は聞こえていないとばかりにバケットを頬張ってしまった安楽。それを見ていた菱田が吹き出した。笑った彼を見たのは久方ぶりではないか。


「悪い、不謹慎なのは分かっているけど、笑ってしまった。君達は本当に面白いコンビだな」


 どうやら、安楽と蘭のやり取りが面白かったらしい。笑わせようとしてやったわけではないから、なんだか恥ずかしい。


「別に笑うことが不謹慎というわけじゃないさ。それよりも空気がギスギスするほうが良くないと思う。あなたは良くやってくれているとは思うが、もう少し肩の力を抜いたほうがいい」


 榎本がフォローを入れたところで、菱田もようやく冷静になれたようだった。ややうつむくと「あぁ、そうだな」とこぼしてから続ける。


「みんな、すまない。少しばかり自己中心的に物事を見ていたようだ。変な空気にして申し訳なかったよ」


 菱田が頭を下げる。どうやら、蘭と安楽の漫才もどきから、場の空気が変わってくれたようだ。そこに榎本がすかさず続ける。


「さて、少し和やかになったところで、こちらのお嬢さん方のお色直しをしに、少し僕達は離れるよ」


 菱田にはすでに了解をとっていたのであろう。それでも「気をつけて行ってきてくれ」との言葉まで引き出せたのは、蘭と安楽の掛け合いがあったからかもしれない。バターは世界すらをも救う。

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