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 それが聞こえたかは定かではないが、菱田が引き返して榎本に声をかけた。


「詳しいことは、あえてここでは言わない。ただ、榎本さんには同行してもらえるとありがたいかな。さすがに男が1人も残らないのはまずいから、細川さんは彼女達の側にいてやってくれ」


 安楽だけではなく、榎本まで連れて外に向かうようだ、なにがどうなっているのか説明してほしい。説明できない理由があるのだろうか。


「ねぇ、なにがあったの? 私達にも教えてよ」


 蘭の考えを代弁するかのごとく、英梨が菱田の背中に問う。再びエントランスのほうに戻ろうとしていた菱田は、振り向きもせずに呟いた。


「まだ断定はできない。断定はできないけど、多分――彼女は死んでると思う」


 言葉の最後のほうで、菱田がえずいたように見えた。断定できないというのはどういうことなのか。それはさておき、また殺人が起きてしまったというのだろうか。


「え? 死んでるって――」


 菱田の言葉の意味を改めて細川が問うたが、しかし菱田はそれには答えずエントランスのほうへと姿を消した。


「とにかく、指名されたみたいだから行ってくるよ。細川、なにがあるか分からないから、いざって時は女の子達を守ってやれよ」


 榎本の言葉に「あぁ、任せとけ――」と、細川は自信なさげに言った、体に反比例して気は小さいようだ。


 菱田達が外に出てからしばらく、風の音に混じって、ガラスが割れるような音がした。続いて安楽の情けない叫び声のようなものが響く。


 察するに、窓ガラスを外から割ったのであろう。鍵のかかった扉から、外の冷たい風が隙間風となって蘭の頬を撫でた。


 あちらでどんなやり取りがあったのかは不明であるが、しばらくすると中からツマミを回す音が聞こえた。カチャリと音がしたのちに扉が開き、榎本が姿を現す。榎本は、なぜか体で中を見せないようにガードしながら扉を閉めた。


「はっきり言っておく。君達は見ないほうがいい。正直、僕ですら精神的にきついんだ。絶対に見ないほうがいい」


 そう言う榎本の靴は、なぜか朱に染まっていた。他人の靴になんて気がいかないものだが、榎本のは白くて明るい色だったはずだ。


「いや、さっきからこそこそとなにを隠してるんだよ?」


 きっと、自分だけが残る羽目になってしまい、仲間はずれにされているように感じたのであろう。頑なに扉の前から動こうとしない榎本を引っぺがすようにしてどかす細川。ただ太いだけではなく、それに見合った力はあるようだ。


「――え? えっ?」


 部屋の中を見た細川は、困惑したような様子で扉から離れ、その拍子に扉がゆっくりと閉じる。しかし、その間際に蘭は見てしまったのだった。


 細川が口元をおさえながら近くにあった部屋のドアノブに手をかける。女性陣の部屋だというのに遠慮せずに部屋の中へと飛び込んだ。しばらくすると、嘔吐する音が聞こえてきた。どうやら、かなり切羽詰まっていたらしい。ただ、その気持ちも今の蘭なら分からなくなかった。


 ほんの一瞬だけ見えた部屋の中は、蘭の部屋とは違って朱の壁紙だった。そればかりではなく、床も白のカンバスに赤い絵の具をぶちまけたような朱だ。そう、榎本の靴に付着していたものと同じ朱。


 しかし、床にぶちまけられたものは、絵の具だけではなかった。どのように状況を飲み込んでいいのか分からないが、蘭が抱いた印象は、不謹慎ながらも、捌くことに失敗した魚。まな板の上で、ちぎれた臓物がぶちまけられているような状況。そこに、マネキンの手足のようなものが一緒に転がっている時点で、蘭は瞬間的にそれがなんなのかを理解してしまったのだ。壁紙の朱と床の朱は血だった。


 ――なによりも目が合ってしまった。ベッドの上に並べられた、亜純の首から上と、麗里の首から上。2人の焦点がまるで合わない目と。


 こんな時、力一杯悲鳴を上げることができたら、どれだけ楽なことか。それをしてしまったら、夕食で食べたものまで一気に出てしまいそうな気がした蘭は、ぐっと喉の奥まで声を飲み込んだ。膝から一気に力が抜け、立っていられない。その場に尻餅をついた。


「だから見るなって言ったのに――。変な好奇心を持たれても困るから、やっぱり言葉だけで状況を伝えておくよ」


 榎本が雨の付着した眼鏡のレンズを指め払いながら口を開こうとした。しかし、部屋から転げ出てきた細川が声を上げる。


「バッ、バラバラ死体じゃんか! し、しかも生首が2人分? 本当かよ! 誰があんなことを?」


 細川の言葉を聞いた真美子達は、目を大きく見開いて、互いに顔を見合わせる。きっと、それでも榎本はオブラートに包むつもりでいたのだろう。細川のダイレクトな言い方に舌打ちをする。


「生首が2人分……って、誰と誰の?」


 亜純の部屋でなにかが起きたかもしれない。そこから出てきた情報は、随分と飛躍して生首が2人分というもの。真美子が困惑したかのように首を傾げるのも無理はない。


「新たに2人が犠牲になったわけじゃないよ。確かに、死体は部屋の中に2体分あるみたいだ。細川が言った通り、バラバラに切断されているけどね」


 あえて、どちらかの遺体の腹が裂かれ、臓物らしきものが床にぶちまけられていることは伏せたのであろう。おかげさまで、その光景を思い出した蘭の喉元まで、改めて酸っぱいものが込み上げてくる。


「しっかりと確かめたわけじゃないけど、僕が見た限り、部屋の中には彼女――リネン室で殺された神楽坂と、加能さんの死体があったと思うんだ」


 生首と目が合った蘭は断言できる。あれは、麗里と亜純の生首だった。英梨が口に両手を当て「そんな……亜純が殺されたっていうの?」と漏らす。その声は震えていた。


 これまで、何度か安楽と一緒に事件に巻き込まれてきた蘭だが、ここまでの衝撃は初めてだった。人の命に差はないのかもしれないが、その場で会ったばかりの人が殺害されるのと、これまで当たり前のように親しくしていた人が殺されるのとでは雲泥の差がある。面白半分で安楽を連れてきてしまったことを本当に後悔した。例えそれがジンクスに過ぎずとも責任を感じずにはいられない。


「みんな揃っているな。無事に中から鍵を開けられたみたいで良かった」


 外に向かった菱田と安楽が戻ってきた。榎本は菱田の姿を見ると溜め息をひとつ。


「あの、言っておきますが、医大生だからといって、遺体に対する耐性が強いわけではないので。血やらなんやらが飛び散ってるグロテスクな部屋に入って、中から鍵を開けろ――とか言い出すのは、これっきりにしてくださいよ」


 察するに、部屋の中に入るように指示したのも、榎本が中から鍵を開けたのも、菱田の指示があったからであろう。


「いや、神楽坂さんが死んでいるのを発見した時、誰よりも冷静に振る舞っていた印象が強くて。悪かったよ」


 部屋の中の様子は少し見ただけだが、きっと蘭の思っている以上に酷い有様なのであろう。


「おいおい、外側の窓には鍵がかかってたうえに、外から板を打ち付けられていたんだ」


 ふと、雨合羽も脱がずにぶつぶつと呟く安楽の言葉が耳に入ってきた。


「扉には内側から鍵がかかっていた。窓から出入りすることはできない。つまり……つまりだ。これは、密室殺人ってことになる」


 鍵のかかった扉、板が打ち付けられた板。確かに安楽の言う通り、これは密室殺人だった。


「これはいよいよ、それぞれの部屋で過ごすのも気を抜けないということになってきたな。とりあえずみんな食堂に集合しよう。今後の方針を相談しておきたい」


 菱田の一言で、凍りついていた現場が動き始める。いつもはずっとぶつぶつ呟くばかりの安楽が、蘭のもとにやってきて「大丈夫か?」と手を差し伸べてくれた。


「うん、ありがとう」


 安楽の手を借りて立ち上がると、安楽と共に食堂へと向かう。一同も菱田の指示で、食堂へと向かい始めていた。


「蘭、俺はもう一刻も早くこの島を出て帰りたいんだが、どうすればいいと思う?」


 安楽からの問いかけに、蘭はそれっぽく答える。


「そ、そりゃ、事件を解決すれば帰れるとは思うけど――」


 正直なところ、いくら事件を解決できたところで、帰りの船がなければ帰れない。しかも外は嵐で、いつから船を出せるようになるかは不明だった。でも、蘭はあえて嘘をついた。安楽のポテンシャルを引き出すために。


「嫌だなぁ。事件のことを探っているって犯人に悟られて殺されたらどうするんだよ。最初の事件の謎だって分かってねぇし、その上で密室殺人まで? いやいや、多分無理……多分無理だけど」


 蘭は確信した。これはいよいよ安楽のスイッチが入ったようだ。ならば、きっと彼の口から出るはずなのだ。実に頼りなく、しかしそれが事件解決へとつながる最初の一言。


「その、あくまでも無理しないように、できるだけ頑張る。で、解けたら解く」

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