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「ほら、もうちょっとだから我慢しなさいよ」


 デッキに戻ると、相変わらず突っ伏している安楽のほう目がけて、ペットボルトを放り投げた。しかし伸ばした手が届かず、むなしくペットボトルはデッキの上を転がった。


「なにやってんのよ――」


 実際、安楽の手が届かなかったのは、おそらく蘭のコントロールミスがあったからだ。まぁ、飛びつけば取れなくもなかったと思うし、安楽がやらかしたことにしてごまかす。ペットボトルを拾うためにしゃがみ込むと、デジタル式の温度計と時計が、デッキの手すりに据え付けられていることに気づいた。随分と安っぽい作りのようだし、きっとデッキにいる時の時間を確認するため、設置されたものなのであろう。


「あぁ、そういえば時計を合わせるのを忘れてたわ」


 蘭の腕時計は祖母の形見であり、今時の腕時計のように電波で時計を合わせるものではない。基本的に手動だった。時間がずれることは随分と前から分かっていたのに、バタバタとクルーザーに乗り込んだから、すっかり忘れていたのだった。クルーザーに乗り込んだ時、操舵室にちらりと見えた時計を見て、時間を合わせなければと再認識していたはずなのに。


 蘭はその場で時計を合わせると、お茶を飲んで落ち着いたであろう安楽に声をかける。


「少しは落ち着いた? だったら、そろそろ中に戻ろう? 思ったよりも外は寒いし」


 空は青空で快晴だが、秋の初めということもあって、少しばかり肌寒い。ここにいたら風邪をひいてしまう。張り切って短いスカートを履いてきたことを後悔する。


「俺なら心配いらない。それなりに着込んできたつもりだから」


 そういう安楽の格好は、黒のズボンに上は長袖のシャツ。その上に黒のベストを着ていた。どこぞのバーで勤めるバーテンダーのような格好だ。蝶ネクタイがないだけ救いなのかもしれない。蘭に比べると厚着かもしれないが、しかしそれでも薄手のように思える。こういった旅行の時は、現地の気温が読めずに困ることが多いが、まさしく今回は気温を読み違えてしまったようだ。今年の夏は特に暑かったから、そのままずるずると暑いままだと思ったのに。


「――じゃあ、先に戻るから。あのさ、イッ君だけが部外者って形になるから、早めにみんなと仲良くなっておいてね。いちいちみんなに紹介して回るようなことはしないから」


 やはり、お茶を飲んで多少は落ち着いたのか。半身を起こすと、安楽はその長い前髪をかきあげる。今、この手にハサミがあるのならば、切ってやりたいほど長い前髪をだ。


「心配するな。その辺りの挨拶は船に乗る前に済ませてあるよ。全く、俺だって子どもじゃないんだ。つい先日、とうとうイカの塩辛を食えるようになったからな」


 その判断基準が、すでに子どもっぽいように思えてしまうのは気のせいか。ただ、安楽がみんなに挨拶できるかも、やや不安だった蘭。その言葉を聞いて安心する。安楽は人付き合いがあまり得意ではないタイプであるがゆえに、今回の旅行に馴染めるか心配だったのだ。誘った以上、安楽にも楽しんでほしい。


「はいはい、分かった分かった。それじゃ、私は戻るからね。早めに客室に戻りなさいよ」


 安楽も随分と楽になったみたいだし、何よりも潮風が肌寒い。これ以上、デッキに滞在するのは不可能だった。客室に戻ると、蘭と入れ替わりで戻っていた菱田と亜純がソファーに座っている。いよいよい手狭になってきた。


「小さい船で悪いなぁ。でも、親父が大切に乗ってた船だからよ。どうしても手放せなくて。まぁ、島まで後少しだから辛抱してくれよ」


 客室の現状を分かっているのであろう。操舵室で舵を握る男が振り返った。それに対して、対面の体格の良い――いいや、デブが口を開く。


「管理人さん、なにを言ってるんです。別荘を貸してもらえるうえに、こうして船まで出してもらったんです。これ以上、何を望みますか」

 

 管理人さんと呼ばれた男の口元には、白髪の混じった髭が伸びており、その顔は日に焼けていた。話によると彼は地元で漁師をしており、これから向かう島と、そこに建てられている別荘の持ち主だという。蘭は直接面識はないが、娘さんがあちらの大学――今回合同で合宿をする安曇野医大あずみのいだいに通っていた伝手で、今回の合宿が実現できたとか。それにしては、娘さんらしき姿が見当たらないのだが、参加していないのだろうか。


「それにしたって、思ったよりも長い旅になったな。予定通り、俺が迎えにくるのは3日後の正午になる。生活に必要なものはある程度揃えているつもりだから、ゆっくり過ごしてくれ」


 至れり尽くせりとは、まさしくこのようなことを指すのであろう。どのような経緯で、ここに来ることになったのかは詳しく分からないが、簡単に話を整理すると、管理人の男が全てお膳立てをしてくれたらしい。


「だったら、なおさらに娘さんのことは残念でしたわ。久方ぶりにお会いできると思っていたのに。どうか、よろしくお伝えくださいませ」


 やはり、あちらの大学――安曇野医大の人間は、管理人の娘のことを知っているらしい。あちら側のソファーに座る細身の女が細い声で管理人に声をかける。


「え? なんだって?」


 しかし、その声はか細すぎて届かなかったらしい。管理人の男は振り返って、問いなおす。


「娘さん、参加できなくて残念だって! 今回のことも、せっかく企画してくれたのに」


 代弁するかのように、化粧が派手目な女性が言った。それにしても名前を知らないというのは不便だ。タイミングが合わず、安曇野医大の方々とはほとんど挨拶できずにいた蘭。クルーザーに乗れば、自然とそのような流れになると思っていたのに、そんなことにはならずに現在にいたる。


「あぁ、それは仕方がないさ。まさか風邪をひくとはなぁ……。だけど、せっかく招待したってのに、中止にするわけにもいかないからな。残念ではあるが、娘の分まで楽しんでいってくれよ」


 少しばかり話の内容に食い違いが出てきた。管理人の娘は安曇野医大に通っているという話だが、先ほどからの会話を聞いていると、どうやら安曇野医大のメンバーと娘が会うのは久方ぶりのようだ。なんだかモヤモヤとはするが、まだまるで親しくなっていない相手に対して、突っ込んで聞けるような雰囲気ではない。


「か、管理人さん。ちょっとお願いがある――」


 ふと、デッキのほうから声がしたかと思ったら、安楽がそこには立っていた。その真剣な眼差しに、一瞬だけ振り返った管理人も「な、なんだい?」と戸惑った様子を見せる。


「3日後に迎えにくるとかフラグでしかないから、ずっと島にいてくれませんか? 船が爆破されても困るので、船で寝泊まりしてもらうことになります。それで、嵐が来そうになったら、その予兆が出るや否や俺達を乗せて全速力で帰りましょう! 事件が起きてしまう前に!」


 真剣な面持ちで何を言っているのか。その、あまりにも滑稽で突飛な発言は、おそらく事情を知らない人間からすれば、冗談に聞こえるのであろう。案の定、安曇野医大のほうには大ウケだった。


「そうは言われても、俺も仕事があるし、船は仕事に使うからなぁ。それに、若い君達の中に、こんなおっさんが混じっても仕方がないだろ? 娘も家で待ってるから、俺は予定通り帰らせてもらうよ」


 苦笑いを浮かべているのが背中からも伝わってくる。安曇野医大は爆笑だが。特に七三眼鏡の笑い声が酷い。


「あっはっはっはっ! なんですか、それ。まるでこれから殺人事件でも起きるみたいじゃないですか。まぁ、確かにおあつらえ向きではありますけど」

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