絶海の孤島へ

絶海の孤島へ 1

【1】


 澄み切った青い海は、それこそ雲ひとつない空を反射しているのか。それとも、もとより青いのか。周囲にはなにひとつない大海原を、白いクルーザーがひた走る。


 クルーザーといっても、操舵室に客室が続いており、そこからデッキに出られるという小型なものであり、デッキに数人が出ているというのに、客室はそこそこ狭い。


「それにしても、晴れて良かったですね。まぁ、天気予報なんてあてにはなりませんけど」


 出発前、アプリなどを駆使して当日の天候を調べたのであるが、しかしアプリによって予報が食い違い、仕方なく諦めたことがあった。まぁ、例の幼馴染である安楽が何も言わなかったということは、つまりこちらの天候は問題ないということだとは分かっていたが。


「それはそうと、幼馴染君を放っておいて大丈夫なの? デッキに出てからしばらく戻ってきていないけど」


 隣に座っていた髪の長い女性が、スマートフォンを眺めつつため息をひとつ。ついでと言わんばかりに「それにしても、このご時世でスマホの電波が入らないところがあるとか」と呟き落とした。


「あぁ、彼なら菱田ひしだ先輩と亜純あずみちゃんが見ててくれるらしいので。多分大丈夫じゃないかなぁ」


 幼馴染としては、真っ先に彼の世話は蘭がするべきなのであろう。その役割を菱田なる先輩と、蘭と同じ学年の亜純が買って出てくれたのだ。幼馴染でありながら、安楽は中途半端にイケメンの類に入り、亜純の反応からして気に入ったのであろう。長身の細心で、顔も小さい。ただ、目が隠れるほど伸びた髪の毛だけがマイナス点か。菱田先輩が彼女にくっついてデッキに出たのは――いいや、あえて詮索すまい。


「彼、大分苦しそうでしたからねぇ。普段から車酔いするタイプで?」


 客室には、進行方向に沿って、ソファーが向かい合う形で置かれている。申し訳程度のテーブルを挟んだ向こう側に座る、眼鏡の男が話しかけてきた。まだ彼の名前は知らない。なぜなら、この船に乗った時が初対面だったからだ。


「えーっと、実は彼に会うのは久しぶりだったりして。確かに、小さい頃はよく車酔いしていたけど」


 どう返していいのか考えあぐねた結果、蘭は愛想笑いでごまかすことにした。眼鏡の七三分け。あからさまに陰気臭い雰囲気が漂う彼。なんだか、勇気を振り絞って話しかけられたような気がして、やや申し訳ないような気がしないでもない。


「ってことは、小さい頃から大学まで同じってことか。そりゃ、ザ・幼馴染だなぁ。あっはっはっはっは!」


 眼鏡の隣で、持参したであろうおやつを次々と開けている男。その体型は随分と大きく、船があちら側に傾いているような気がしないでもない。少なくとも、ソファーは2人分のスペースを占領していた。チップスを食べた指を舐めながら豪快に笑う。彼もまた初対面の人間。面白いもので、見知ったものと見知らぬ者同士、それぞれのソファーに座った形になっている。


「ま、まぁ……腐れ縁ってやつですよ。あいつはフリーターですけど」


 対面のソファーに座るのは、眼鏡の男とデブ――大柄な男。そして、触ったら壊れてしまいそうなほど細身の女性と、化粧が一人歩きしているような、派手な化粧の女性、そして小柄で可愛らしい女の子だ。いや、女の子といっても、きっと年齢は蘭と同じくらいなのであろう。なぜなら、あちらは他の大学のミステリ研究会なのだから。女性陣については一言二言言葉は交わしたものの、それ以来お互いの距離を守っている感じだった。女子というのは、仲良くなるのに色々と時間がかかるものなのだ。


「御幸さん。悪いけどデッキまで来てもらっていい? 彼が呼んでる」


 デッキから日焼けしたサングラスの男が顔を出した。彼こそが蘭が所属するミステリ研究会の部長、菱田雅史ひしだ まさしである。ミステリーではなく、ミステリで切るのは彼のこだわりである。アウトドアが趣味で、年がら年中肌は日に焼けている印象が強い。なぜに陽キャがミステリ研究会にいるのか不思議でならないが、しかし話してみると、中々にミステリに造詣が深かったりする。


「あ、はい――」


 立ち上がろうとするが、船の揺れがあって上手くいかない。もう乗船してからしばらく経つが、いまだに海上で動くことに慣れていない。それでも菱田と入れ替わる形でデッキに出ると、どこまでも青い空と広がる海が蘭を待っていた。いや、絶景である。その絶景の中に、デッキへと横たわる安楽と、しゃがみ込んで介抱している――ように見える亜純の姿があった。


「ごめんね。迷惑かけちゃって……」


 蘭が近づくと、亜純が立ち上がり、なんだか嬉しそうにしながら声をひそめる。


「いいっていいって――。というか蘭、あんたあんなイケメンが幼馴染にいながら放っておいたの? ちょっとマジでやばいんだけど」


 亜純は髪の毛を後ろで束ね、ナチュラルに化粧をしている。そのせいもあってか童顔が際立っているように思えた。あちらの大学の小柄な女性と童顔勝負ができそうだが、彼女のことを良く知っている蘭からすれば、軍配はあちらのほうに上がるだろう。彼女――加能亜純かのう あずみは、同性である蘭から見ても尻が軽いのだ。


「別にイケメンだから隠してたわけじゃないし。そもそも、あいつそんなにかっこいい? 私には良く分からないんだけど」


 蘭がそう返すと、亜純は悪戯そうな笑みを浮かべながら「蘭にその気がないなら狙っちゃおうかなぁ」なんて言い出す始末。別に人の色恋沙汰に首を突っ込むつもりはないが、なんだか幼馴染としての敗北感のようなものがあった。


「蘭……蘭……」


 デッキの上で完全にくたばっていながらも自分の名前を呼ぶ安楽の姿に、つい先ほど覚えた敗北感のようなものは消え去った。いやいや、よくよく考えれば、安楽からは実に分かりやすい好意を抱かれているではないか。もっとも、いざそのような関係になれるかと問われると、どうしても尻込みしてしまうが。小さい頃からお互いのことを知っており、また家族間での付き合いもあるというのは、なかなかに年頃の乙女からすると複雑である。それに――いや、ハリネズミのジレンマを引っ張り出すのはやめておこう。


「全く、だらしないったらありゃしないわ。酔い止め飲んできたの?」


 それでも、亜純に対するささやかな優越感と共に、安楽のそばにしゃがみ込む蘭。特に何ができるというわけでもないのだが。


「あぁ、もちろんだよ。だって、探偵物の探偵って、なんか高確率で船酔いするから――そうはなるまいって。フラグを立てまいって、ちゃんと酔い止めを飲んできたんだ」


 どうやら、その辺りのケアはしっかりしているようだ。その動機がやや不純のような気もしなくはないが。


「昨日はちゃんと寝たの? 寝不足も良くないっていうし」


 安楽は顔を上げ、しばらく考えたのちに呟いた。


「いや、それが眠れなかったんだよ。寝なきゃいけないとは思っていたんだけどね」


 おそらく――というかむしろ、その辺りが船酔いの原因なのであろう。もちろん、薬で予防することも大切だが、その日の体調も影響する。まぁ、蘭もまた寝不足ではあるのだが。


「それにしても、酔い止めが効かなすぎだろ。ちゃんと今朝、確認して買ったんだけどなぁ」


 安楽の言葉を聞いて妙に納得してしまう。なるほど、どうやら薬がまるで効かないと言い切ることもできないようだ。後で確認してやったほうがいいかもしれない。


「とりあえず後悔しても仕方ないし、もうじきに島につくでしょう。なんかお茶とかいる?」


 蘭の言葉に力なく頷いた安楽。蘭は客室に戻ろうと踵を返した。いつのまにか亜純は客室に戻っていたようだ。お茶のペットボトルを取り出すと、デッキに戻る。

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