曾祖父の手記

@kodati55

曽祖父の遺品より




拝呈 前文御免下さい。若し間違いましたならば、御免下さい。


先生は、前テニアン国民学校にご奉職されて居られました辻野先生では御座いませんでしょうか。私は、先生に一方ならぬお世話様になりました、テニアン島第一農場第一班に居りました標記のごとし大津広瀬で御座います。あの節は種々御厚情に相成り有難う御座いました。厚く御礼申し上げます


実は先生も御存じでも御座いましょうが、テニアン島及びサイパン島は今次戦争の結果米軍に占領され、日本大本営に於いてはサイパンテニアン両島の日本軍及び在住民は一人残らず大和桜と散り、全員玉砕を発表したが、玉砕した筈のテニアン島から私等日本人約一万一千人ほど生き残って帰還してきました。


帰還してきて初めて知人の消息が知りたし中にも先生のご様子が知りたく、方々手を尽くしましたが判らず、今回富山県庁内学務課にお願いしましたら、探していただいたような次第に御座います。先生御家内皆々様方には、お変わり御座いませんか。奥様御壮健の御事と遠察申し上げます。先生、テニアンで御別れ以来何年になるでしょう。


年々内地へお帰りになられまして、本当にご幸運で御座いましたね。テニアン国民学校で無事帰国されました先生方は、広津先生外四、五名位生存して帰還してきました。教頭先生も生存しておりましたが、藤崎校長及び深澤先生は死にました。噂に依ると、深澤先生と藤崎校長は、日本軍のためにやられたような話も御座いましたが、真偽の程は判りません。


あまり評判がよくありませんでしたからね。辻野先生 先生は本当に良い時期に内地に帰られてご幸福でした。昭和十九年二月二十三日午前四時、テニアンサイパン初空襲を受け、市街地及び工場の一部がやられ、ハゴイ飛行場に有りました飛行機四十余台がやられました。全島に於いて相当の被害が有りました。


この空襲以後、日増しに形成悪化の兆しが見えたために島全部農場の耕作者も市街地の人も小学校の生徒と毎日毎日飛行場整備作業に没頭し、学課と製糧作業もみんな打ち捨てて国のためと思い尽力しました。今にして考えて見ると全く馬鹿馬鹿しくてなりません。


十九年の三月には満洲より雷部隊が進駐してきました。先生御存じの私の家にも小○小隊全員三十二名位が宿泊しました。二月の初空襲以後六月まで時折警報が出るくらいで大した事も御座いませんでしたが、六月十一日午前十一時四十分ころ突如けたたましく空襲警報が発せられ、私等は第三基地の作業中で御座いましたが、牛車をとばして帰宅し荷物をまとめ家族を引連れて第一農場事務所へ行き、道路に有○せめんで作りしアンキヨウ中へ避難、此処で二週間程居住し、ここも駄目になりカロリナス下段の山中に避難、四五日居り、方三四日目に愈々最後の避難場所カロリナス東海岸の洞くつへ避難しました。ここで、八月三日まで居りました。敵は六月十一日よりテニアン島攻撃を始め、七月二十三日テニアン港より上陸作戦を試み失敗、二十四日ハゴヒ海岸より強引に上陸開始、激戦の果て、ついに上陸されてしまいました。当時、テニアンサイパン間の海上は敵艦船で水の色さえ見えないくらいの有様で御座いました。敵に上陸されるや、私達も生還なんて考えませんでした。全島全員一人残らず玉砕の覚悟をしましたのでしたが、○○第一航空艦隊司令長官角田中将の訓令に各々将兵全員玉砕せるとも、在住民は一人でも余計生き残ってくれ、決して死んでくれるなという言葉と、あと二三日過ぎると日本より援軍が来る、テニアンサイパン奪還のために吾が連合艦隊日本を出航す、なんていうデマに迷わされ、とうとう生き残ったような有様で御座います。しかし先生、彼のカロリナス東海岸ジャングル中に避難中に起きた悲惨なる有様は到底話しても信用されないくらいでしょう。先生も御存じのとおり、テニアンは十一月頃より六月頃までは乾燥期で降雨なし、七月より十月いっぱいくらいは雨期で多量の降雨がありますが、十九年の年は、天候までが米軍の味方してか、七月になるも雨は降らず、敵の進撃するに非常に有利な有様でした。水がないためご飯は炊けず、火をたいて煙を出せば爆撃されるし、飲む水さえなく日に日に身体は衰弱してくる。七月二十四日、強行上陸した敵は、八月一日ごろにはとうとうカロリナス上段高地も占領、全然袋の中のねずみ同様になり、カロリナス台上に水汲みに出るには敵中突破せんにやならんし、全く弱りました。私たちは、八日間位全然飲まず食わず、人の小便、自分の小便さえ飲みました。青い木の葉一枚見つければ三四人してもんで汁をなめたり、本当に苦しい思いをしました。この当時には各方面にて悲しい自決がありました。第三農場の耕作者で福島県人の五十嵐という人は、出刃包丁で十五人さし殺しました。また、先生も御存じでしょうが、テニアン市街にて南貿の向かい角に浅沼理髪床がございましたでしょう。あの浅沼喜作郎はカミソリで十三人殺しました。


第一農場第二班班長の阿部正四郎は、日本軍の銃を借り、前線に出た切り三日も四日も帰らぬところから、妻女と子供等は覚悟を定めて自決の覚悟をし、一番小さい子供より順々に因果を含めて細ひもで絞め殺しました。当時高等一年に在学中の子供を殺さんとした折に、お母さん東京はどっちか、天皇陛下の御在す東京の方角はどっちかと母に尋ね、教えられると、はるか宮城の方向にきちんとすわり、君が代を奉唱し終わって、天皇陛下万歳を唱え、いじらしくも母の手にかかり、遂にカロリナスの露と化しました。しかし、一番大きい長女は女だけに死ぬのが嫌だと泣かれたため、自分まで死におくれ、僅かに五日目に正四郎が元気に帰ってきたため、そのまま親子三名だけ米軍のために捕えられ抑留されるようになりました。このほかにも数知れぬほどの自決が○、第一農場の○藤壽喜郎は銃で自分の子供三名を殺しました。カロリナスの金田清五郎一家及び渡辺忠吉郎一家は防空壕内に於いてダイナマイトに依り自決、カーヒー及び第四農場方面在住の八丈島出身者百五六十名は、大きな洞くつの中に円陣を作り、中心に大きなダイナマイトを置き、点火。全部死にました。


会社に勤務しておりました二条さんは立派に自決、赤木農政課長、寺島警務課長も自決、支庁テニアン出張所長は生存、また、真偽のほどは判りませんが、広津先生たちがカロリナス山中より四十余名の人たちの一緒に第二班の耕作者何某のタンクへ水取りに来る途中、広津先生外一名が途中に於いて小便をしておる中に、あとの連中が一足先に耕作者のタンクに到着したとたん、サイパン島より打ち出した敵重砲弾が運悪く懸命に水を汲んでいる場所に落ちてついに一人残らず死に、途中で小便をしておられた広津先生ともう一人の二人だけ、奇跡的に生命が助かったと話しておりました。実際にサイパン島より打ち出した重砲、空よりは爆撃、機銃掃射、海よりは艦砲射撃、陸では戦車砲の攻撃が物凄く、とても日中なんか出て歩かれませんでした。


雨が降らんためにジャングル中に避難しておる私等も日増し衰弱してき、私の妻も目に見えて弱ってくるし、この年しばらくぶりに三月八日に女の子が生まれ六か月でしたが、妻が弱っても子供は母の乳房にすがりつくし、両方とも死ぬような結果になる。どうせだめなら親を助けようと思い、八月三日午前九時ごろ、可哀想ではあるがとうとう女の子をわが手にかけて殺してしまいました。このころは米軍はカロリナス台上をも占領せるため蟻のはい出る所もないくらい押し寄せてきました。当時私たちの隠れて居りました洞窟中には総勢六十人ほど居りましたが、三日まで降雨なく、四日も降らなければ全員海に投身して自決の相談をいたし、みんなでゆっくり寝ようと三日の夜は心安らかにみんな休みました。明くれば八月四日相変わらず天候は朝から晴天、雨どころか火でも降りそうなかんかんたる天気にみんながっかりしておりました。この時、米軍はカロリナス台上より東海岸へ下降し始め、午前九時ころには私たちの洞くつ付近まで押し寄せてきました。先生も御存じかと思われますが、先生がテニアン御在島中に居りました私の男の子で一番末っ子の壽夫という子供がございました。この子は一週間以上も少しも飲まないため、ことごとく衰弱しさながら身体は針金のごとく痩せてがい骨同様になり一寸目をはなせば醬油をがぶがぶ飲む始末、起き上がることもできず、はい出すことさえできず、敵は目の前に迫る。どうせ捕まれば殺されるし、敵に殺されるくらいなら親の手にかけて殺した方が好いと思い、私と妻と二人が可哀想とは思えども如何とも仕様なし、因果を含めてついに殺して毛布に包み、そっと寝かしたとたんに、洞窟の両側に米軍が五六十名ほど侵入、逃げるに逃げられず遂に捕まり壽夫の死体をそのまま置いて、米軍に連れられて上がり、約一千程上がりしところでいったん休みました。この間三十分ほど休みました。ところが、二十分ほど休んだ折に何処からともなくかすかに母さん母さんと呼ぶ子供の泣き声、耳を澄まして聞くと、殺した壽夫の声と似て居る。私の心は張り裂けるほど苦しく、黙っておるがとても我慢しきれず、米兵に手真似足真似で許しを得て、飛ぶようにして降りてみましたら、なんと、殺したはずの壽夫が息を吹き返し、立つこともはい出すことさえできえないほど弱っていた子供が如何して来たか、死んだ場所より約二十間ほど離れた岩の上に立って泣いておりました。私は只呆然としてなす術さえ知らず、夢中でおんぶして上がりました。この子供は現在小学校一年生になっております。この外に私の友人の平泉藤七郎の妻は同じく生まれて一年足らずの子供を、ちちを飲ませ添い寝をしておりながら、泣きながら喉を〆て殺してしまいました。戦争さえしてくれなかったら斯様な悲惨なことは起こらなかっただろうに、誠に残念でなりません。死ななければ私の女の子も今年五歳になっておりましたのにと思うと、本当に残念でなりません。


八月四日、米軍のため捕えられ、ハゴヒ収容所に送られ到着したその晩です。今まで長い間全然降らなかった雨が八月四日午後六時ごろより物凄い豪雨となり雷さえ鳴るどしゃ降りで、何にもない野天に雨に打たれ寒さに震えながら一晩過ごしました。次の日より天幕を張って入れてくれましたがしばらく水も飲まず食事さえしませんでしたため、水の甘味しいことご飯の甘味しいこと、みんな食うわ食うわ驚くほどでした。私達がハゴイに送られし当時、最早八千余人ほど居りました。伊藤精一、五十嵐徳治たちはもう来ておりましたが、○藤春喜郎は私達より約二か月ほど遅れて上がってきました。ハゴヒ収容所に四日滞在、八月八日にチュウロ―収容所に移住、内地へ帰還するまでチュウロ―にいてきました。チュウロ―収容所に居る中は、なかなか待遇もよく、各部隊に作業に行きますが、一日の労賃は米ドルで三十セント、班長から五十セントずつくれました。私は海軍のPX(酒保)へ三十六人の作業員を連れて班長として勤務、約半年ほど働き、ここをやめてチュウロ―キャンプ内の米軍より選ばれ、米軍の日本人巡査SPを勤務してきました。内地へ帰還するまでSPを勤務してまいりました。生存せる日本人を大部分収容せる米軍は本当に親切で、決して日本軍が宣伝せるような残忍な行為なんか決してしませんでした。収容所内に学校を建ててこれに児童を収容、中学校に女学校も建てて、○○学校の生徒に毎日昼食替わりに菓子の缶詰一個が配られるし小さい幼児には毎日一日二回ずつミルクを配給してくれましたし、医療設備の完備せる病院を建て、病人産婦を収容して診療してくれました。全体に食糧事情は豊富に給食してくれましたため、たちまち健康を回復、キャンプ生活していても、野球大会、相撲大会、陸上競技大会、女子のバレーなど、戦前の部落対抗戦のような感じが御座いました。しかし、収容生活中、時折日本の飛行機が米軍陣地空襲に来るときは、本当に涙が流れ、嬉しくって嬉しくって泣きました。カーヒー小学校より東方、第三農場と第二農場の境界までの広大なる土地が米軍のB二九の飛行場で、二千メートルくらいの滑走路が二本有りました。日本本土爆劇に来る折は、夕方四時ごろよりエンジンの調整を開始、七時ごろより出発しました。先生、日本爆撃する爆弾は、誰が飛行機に積み込んだと思われますか。みんな日本人が積み込んだのです。広島や長崎へ落とした原子爆弾さえ、テニアンから積み込んだと聞いたら、驚きましょう。海軍の大差が操縦し、陸軍の大佐が落としたことまで、米軍将校(私たちの警察署署長)が話して聞かせました。当時テニアンにはもう一個原子爆弾があったように聞いております ラソー山下のハゴヒ全農場からまたB二九の基地になりました。カロリナス台上は敵戦車隊が駐屯しておりました。私の高地及び伊藤精志氏の耕地はニグロ部隊の駐屯地が御座いました。


八月十日乃至十五日頃にはテニアンも完全に占領され、僅かな敗残兵としてカロリナスジャングル、マルポーサバネジャングル内に隠れているくらいが、米軍もこれを打ち捨てておいたくらいでした。


先生、私たちは昭和三年、開拓の大使命を帯びて勇躍渡○無人島に等しきテ島に開拓なして以来十有九年、その間幾多の悪条件と戦い、どうやら群島一の宝島とまで言われたテニアンも、十九年でとうとう米軍のために占領され、私等の開拓事業もとうとう水泡に帰したわけです。粒粒辛苦して蓄えし財産、家財道具、衣類、の果てまで何一つなく爆撃で失くし僅かな預金通帳さえ米軍に没収され、会社に預けた貯金さえ会社の金庫がマ司令部より凍結され、いつ明くやら先が判らず、全くの着の身着のままの裸同様に帰ってまいりました。山へ避難したのが作業衣そのままで避難したため、ジャングル中を歩いたため、まるで若目のような有様となり米軍のために捕えられし折の子供らは着物がなくガーゼを巻いて、まるでインドのガンヂーみたいな恰好で収容されました。


昭和二十一年二月一日、内地へ送還される折は、米軍の軍衣袴をもらって帰ってきました。日本金は(持っているもの)一銭も持たせず、明日出発という前夜金の持っている人は道路に積んで焼却してしまいました。私たちは着の身着のまま一銭も持たず浦賀へ上陸、久里浜収容所で会社より涙金百○もらい、テニアン出港の折米軍よりもらった煙草、オーバー、シャツ、ズボンなどを売り、三千五百○くらいのかねをこしらえ、同年二月十七日、懐かしの故郷へ二十年ぶりに帰りました。帰ってはみたものの、先生、私は全く裏切られたような感じがしました。戦争犠牲者として帰った私たちを迎えてくれた故郷の人の冷たい目。温かい気持ちで慰めてくれるかと心ひそかに期待してきたのがまるで反対でした。尤も、期待する方が悪かったかもしれませんが、あまりにも冷視されたのには本当に失望しました。私の親はないけれど、妻の母親が健在で御座いました。ところが、この母親なる人は現在自分の生んだ娘が生還したのに喜ぶところが、反対にやっかい者が帰ってきて困ったと言うような有様でした。裸同様で帰ってきた私の実家は何もなく、兄姉弟皆繊細疎開者ばかりが、どうとも仕様なく、せめて就職するまで十日か二十日間くらいお世話になろうと思い、なけなしの金を一千○だけ出し、外に毛布や品物を数点差し上げていったん落ち着きましたが、先生、世の中に実の母親でありながらこんな無情な母親があるでしょうか。たった三日置いてくれただけで早速追い立てられ行く先もなく、人様にお願いして村の神社の社務所へ無理に入れてもらいまして、いよいよ血の出るような生活を始めました。親子八名布団一組毛布八枚で、板張り家屋の社務所内で寒さに震えながら泣きながら明かした夜は幾夜もありました。金とてたくさんあるわけやなし、インフレ景気の商物価に悩まされ、子供らだけに食べさして自分たちは食べずに過ごしたことは幾度かこれほど苦しんでいても妻の実家の兄姉弟たちは知らん顔して見向きもせぬようなありさま、親なれど金と恨みました。しかし、考えてみると、人を頼る気持ちがそもそも間違っているんです。自分の生活は自分でたてていけば間違いもありません。私は人生初年兵よりやり直しの覚悟でまた新日本再建のため頑張る覚悟を決めました。二十一年の二月十七日、故郷へ帰り、三月一日より長男二三夫次男秀雄の両人を市内の鋳物工場に就職させ、私はこの月妻が産をするので三月いっぱい休み、四月四日より山形進駐軍の政府司令官ナン中佐の官舎へボイラー機関士として勤務するようになり、親子三人働いてどうやら生活してきました。ナン中佐宅勤務以来三年有余大過なし、現在まで勤めてまいりました。


幸いにナン司令官夫妻の信用を得て勤めさせて戴いたおかげさまで、今回ナン司令官横浜第八軍司令部へ栄転後、伍軍司令官カスター司令官のもとに勤められるようナン司令官より手配さしていただき、現在新司令官官舎で勤めております。これもテニアン島にて抑留生活中、米軍に英語を教わりしたため、どうやら生かじりにも米人と会話くらいでき得るようになりました御蔭です。先生、伊藤精一氏は現在私等の居る山形市の隣村、東村山郡大郷村の新井田に居住しており、精志夫婦は福島県岩城炭山で働いております。五十嵐徳治氏は、福島県の郷里で何をしているか不明です。○藤春喜氏は同じく福島の郷里で開墾地に入植、目下一生懸命に開拓をしているが、住所がわからなくなりました。その中に聞いてお知らせします。私方では長男二三夫はしない鋳物会社の工員として働いているし、次男秀雄は昨年神奈川県川崎市日本鋼管株式会社川崎製鉄所に入社、勤務中です。住所は川崎市藤崎町藤崎台に川鉄寮内で御座います。若し先生御暇がございましたならば、何卒秀雄にもお手紙でご訓戒致して下さるよう伏してお願い申します。と申しますのは、彼の秀雄儀、昨年十月休暇で帰郷、二日泊まって帰社した切手紙一本よこすやなし一銭の送金もせず、いくら当方より手紙を出しても返事すらない有様、誠に困った奴で御座います。先生よりよーくご訓諭くださるよう重ねてお願い申します。


先生、どうもあまり長くなり、何を書いたやらわからなくなりました。つまらんことは長々と書いてお読みになるにもつまらんで御座いましょうが御たいくつの折にでも読んでいただきたく御座います。弘子ちゃんも六年生におなりの由、定めしお可愛らしいお嬢様におなりの事と存じます。何とかして一度お目にかかりとう御座いますが、なんせ遠くてね。しかし生きて帰ってきたんです。同じ日本の土地に居られるですから、いつかはお会いできることと思います。それを楽しみにがんばります。先生、誠に申し兼ねますが、若し古いお写真でも結構です、御座いましたら一枚いただきとう存じます。私も近々中に移してお送り申します。


実は手紙が前後するようですが、この手紙が書き終えるころ、先生よりお手紙をいただき、飛び立つほど嬉しく拝見いたしましたが、全く嬉しくって嬉しくって妻八重子がわざわざ勤め先の官舎まで持参してきました。先生、有難う御座いました。奥様有難う御座いました。厚く御礼申し上げます。弘子ちゃん及びお坊ちゃまにもよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。


先生、私ごときつまらん者で御座いますが、今後とも行末長くご指導賜られんこと伏してお願い申し上げます。なお先生、今夏八月十四・五の両日、全日本陸上競技選手権大会が当山形市開催と決定し、現在県営グランドの大改造中ですが、この県営グランドがちょうど私の家の前で御座います。若し暑中休暇中で御座いましたら、遊びがてらにおいで下さるようお待ち申し上げます。先生、いつまで書いても限りがございません。また後程書いてお送り申します。先生奥様はじめ、時節柄御身お大切にお暮しのほど、遠い山形よりお祈り申します。


書くのを忘れましたが、テニアン小学校は爆撃及び艦砲でやられ、原形をとどめず、占領後多少修理して米海軍の酒保になり私が最初勤務しました市街地工場は何一つ残らず吹き荒びました。また、テニアン支庁桟橋は二か月くらいで掘り下げ、三千トンから六千トン級の汽船が八隻くらい横着けになるようになりました。リーフは全部防波堤になり、トラックが二台くらい自由に走っておりました。


では、これでやめます。さようなら。



大津広瀬



辻野先生


奥様へ


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