現実世界では得られない何か

まだ7月の終わりにも関わらず、遠くで茅蜩ぼうちょうが夏の夕暮れを匂わせていた。


今年は異常気象と流行病で世界の人口の3%が命を落としたらしい。2月のはじめに某国で見つかった新種のウイルス(後にバグテリアウイルスと名付けられた。)は瞬く間に全世界へと感染を広げて、人類は滅亡の危機に怯えた。必要以上の外出はさけ、ほとんどの会社へ政府は補償をつけて会社を休業させた。

その影響もあって各学校法人(義務教育下も含む)も一ヶ月間の感染予防と言う名目で学校は閉鎖され、自宅待機を余儀なくされた。


思えばあの頃からかも知れない。


MFFという類の人間が世間を騒がせ始めたのわ。人々は外出を制限され、社会との繋がりを遮断された。孤独を紛らわす方法としてネットへの依存心が強くなった。

をそこで求めはじめたのだ。


しかし迷惑な話だ……。

自宅待機一ヶ月の影響でほとんどの学校法人は夏休みの期間を短縮したのだ。

通常ならば7月も半ばを過ぎればもう夏休みだというのに……。




「夜聡……。夜聡……。」


「え?」


短時間で二つの幻夜と現世を行き来したせいか、深い眠りの後の様な微睡の中を少し彷徨う。


「大丈夫……一体何を考えてたの?」


心配そうに声をかけながら、一方で葉月はいつもと同じように自分の荷物を整理して片付け始めていた。まるで先程共有していたであろう世界の事など無かったかの様に。


幻夜の余韻に少し浸り感情の昂りを感じながらも少しずつ現世界の空気を取り入れて、そして幻夜の空気を吐き出していく。酸素を取り入れながら二酸化炭素を吐き出すように。

教室のガラス窓の外の風景。

夏の夕暮れの日差しと蒸れた汗の匂い。

耳に残る茅蜩の鳴き声。

ここは西洋の街並みではなく夏の匂いがする学校の教室である事を認識し始める。

まだまだ明るい夕方の黄昏時は忙しなく鳴く虫の声で騒々しくも物悲しい。

夕暮れの色は美しくも刹那さを感じるのだ。


少し遠目で荷物を片付けている葉月を見てみる。それはまるで何事も無かったかの様に、放課後の部活終わりの女子高生でしかない。葉月は(というか女性というのは全般的に)気持ちの割り切りというか切り替えというのがとても早いのかもしれない……などと思うのは偏見だろうか?

そんな事を考えながら、ピアノの椅子の右側に座って、まだ陽の沈まない夕方の空を見ながら、その腑抜けているであろう顔をしっかりと締め直して何でもない様に取り繕った。



「現実世界では得られない何かについてね……。」



と思わず考えていた事を口走る。

それを聞いて葉月は


「なにそれ?」


といって夜聡の方を見た。



「いや……ようやく夏休みだな……って思ってね。この半年はいろいろありすぎて、なんだかとても長い一学期だった気がするよ。まるで長い夢でも見ていたようだ。」



ひとしきりカバンに荷物を入れ込んだ葉月が夜聡を見ながら微笑んだ。


「たしかにね。夜聡てさ少し感傷的な人なのね。」



冷静に取り繕っているはずなのに、

葉月にはいつもなんだか取り乱される。


「葉月は……。」


そう呼びかけながら、自分が何が言いたいのかわからなくなって口籠る。


「なに?」


「いや……いい曲だね。『moon river』だったかな。君の弾くピアノはいつも優雅で心が満たされる気持ちになる。」



ほんの少しの間、彼女は少し目を瞑りながら先程の世界を頭の中に思い描くようにしていたように見えた。


「美しい街並みを思い描いたわ……。ヨーロッパの……そう、フランスとかね……ほらなんだったかしらセーヌ川。行った事なんてないけどね。想像というものは自由ね。写真集やテレビから流れる映像情報を得ただけでも、その世界は想像できるもの。ふふふ。」


と聞こえるか聞こえないかわからないくらいの鼻歌を歌いながら(それはおそらく『オーシャンゼリーゼ』のように思える。)そう言った。それから彼女は確認の手を止めて、自分のリュック中からきれいな夕焼けの絵柄のついた、クリアファイルを取り出した。

そして鼻歌をやめてしばらくの間、頭の中に思い浮かんだ事を整理するようにしてから、再び話はじめた。


「それでなんだったかしら……

     現実世界では得られない何か?」


「なんだ聞こえていたのかい?」


「ふふふ。もちろん聞こえていたわよ。」



「まーなんだろう……この半年間で世界は目まぐるしく変化した。世界中の人間が引きこもって得たものっていったい何なんだろうなーって……。」


「つまりそれが、『現実世界では得られない何か』という事かしら。」


「うん。」


「なんて言うのかしら……それは自分を表現する機会?とか自分が何者なのか?みたいな事を感じる事じゃないかしら。そのこういうのは、なんて言うのだったかしら……。」


「自己肯定感。」


「それ!!それね。つまり自己の形成というか、自分が何者なのかわからなくなった時に、人は誰かに賛同を求めるのではないかしら。『お前はそれでいいんだよ』ってね。」



「自己肯定感ね……。」



「あなたの音に足りない物も、もしかしたらそのたぐいなのかもしれないわね。あなたはきっと自分の音を、というか自分の世界を曝け出す勇気がないのよ。誰かに否定されるのを恐れている。」



「否定されるのを恐れている。」



「そうね。けれどもそれは誰しもが持っている事で、特別な事ではない。」



「そう。でも自己満足?は良くない。自分では良いと思っている事が、他人にとって良い事であるかはわからない。」



「そうね……でも、少なくても私はあなたの事をもっと知りたいし、あなたとなら音を通して理解し合えると思っているわ。」



「音を通して理解し合える……。」


そう口にだして言ってみた。


それから音を通して理解し合えるという事はどういう事なのかを考えてみた。


初めて葉月の弾くピアノを聞いた時、その魅力的な音色に引き込まれた。それまで感じたことの無い音の持つ世界感を感じたのだ。

それから僕はピアノという物に魅了されて、その音を取得しようと空想に励んだ。

葉月は僕の空想の音を指先の動きだけで感じ取ってくれた。

そして僕たちは幻の夜で出会った。


彼女は言った。幻夜での出会いは、同調や同期するようなものだと。いずれにしろ音の世界を理解し合えるというのは、いわゆる感性の共感というか、波長が合うというか、そういった事なのだと思う。いつも僕の弾くピアノの世界には彼女がいたのだ。


……あれ?


いつも僕の弾くピアノの世界には葉月がいたはずなのに……あの時は……あの白い怪鳥に出会った幻夜に彼女はいなかった。


「葉月……。」


そもそもあの時は葉月の弾きはじめた、繊細な音を聞いてその世界を想像していたはずなのに……、気がつけば僕は1人で『サンバテンペラート』を弾いていた。何故あの時、彼女は僕の音に同期しなかったのだろうか?


「なにかしら?」


「僕は先程、君のいない幻夜でとても大きくて真っ白な鳥に出会ったんだ。」


「大きくて真っ白な鳥。」


「そう。それは鳥というよりも……肉食動物が、獲物を見定めたような鋭い目つきで、翼を広げれば2メートルに至る大きさの、言ってみれば怪鳥呼ぶに相応しい存在だった。」


「怪鳥……。」


「君は白い大きな怪鳥を知っているかい?」

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