『珈琲と雨とslow jazz』
先程まで川面に映っていた月がいつの間にか夜の闇に紛れて、ひっそりと手を広げた雲の間に姿を消してきた。少し冷んやりとした風が緩やかに吹き始めた。
「私は一度父に連れられてあるホテルのラウンジの珈琲をいただいた事があるの。店に入ると父は初めからそうすると決めていたかのように窓際のカウンター席に座った。
私は父の後ろについて行って、そのカウンター席に父と横並びに座ったの。店内には珈琲豆の弾く音がBGMを邪魔しない程度に聞こえて、その豆の弾かれる素敵な香りが漂っていたわ。店内には緩やかなslow jazzが流れていてね。たしか「So What」だったかしら。窓から見える雨のある景色がとても印象的だった。まるで映画のワンシーンに私自身が溶け込んでいるようだったわ。不思議とね、それ以来私は『珈琲と雨とslow jazz』がすごく一つのものとして私の心に埋め込まれたわ。
そして、そこで飲んだ珈琲の味や香りは今まで私が知っていた量産物のコーヒーの様な物とは全く持って別の珈琲だったの。お砂糖もミルクも入れる気がしなかった。その香りに引き込まれて私は生まれて初めてブラック珈琲を飲んで美味しいと思ったわ。……もしかしたらその『珈琲と雨とslowjazz』という環境も助けたかもしれないけれどね。つまりその日の体験は私にとって唯一無二の物となったの。」
「唯一無二……。」
「そう。量産品ではない。そこでしか味わえない『珈琲と雨とslow jazz』という『added value』のついた特別な空間になった。」
「アディドバリュー?」
「まーいわゆる付加価値みたいなものかしら。えっと……つまり私が思うにはね、あなたに足りないのは、あなたが、あなた自身を信じられないから、あなたの音にはその付加価値が見出せないのじゃないかしら?」
夜聡は自分の弾いていた曲を思い返してみた。つい先程、白い怪鳥の前で僕が繰り広げた『サンバテンペラート』。頭にインプットしたあの葉月に見せてもらった動画の記憶をなるべく忠実に再現して音を運んだ。
「……僕は出来るだけ忠実に音を再現した。」
「そう。きっとあなたはなるべく忠実に音を再現したのでしょう……。自分らしさを出さずにね……。」
「自分らしさ……?」
「同じ楽曲を聞いても捉え方は人それぞれじゃない。つまり同じ楽曲でどの様なビジョンを想像するか?それが自分らしい音なんじゃないかしら?」
「ビジョン?」
「あなたは私と幻夜で出会った。」
「僕は君に幻夜で出会った。」
「あなたは私の弾くピアノで私の世界観に同期した。」
「僕は葉月の弾くピアノで君の世界を思い描く事が出来た。」
「自分と同じ捉え方をして、同じ世界観の中で出会えたらそれはものすごく素敵な事なんじゃないかしら?」
「けれども僕には自分の音を人が受け入れてくれる自信なんかないんだ。」
葉月は穏やかな顔で夜聡の顔をじっくりと見つめた。それから彼の視線を捉えるように彼の耳元で小さな声で「大丈夫だよ。」と伝えた。
夜聡は耳元にかかる葉月の声…というか息使いを感じながら、頬を薄らと赤めて目だけで葉月の方を見つめた。それから葉月はもう一度小さな声で「夜聡、大丈夫だよ。あなたの音はしっかりと伝わるから。私があなたらしさを引き出してあげる。」
私があなたらしさを引き出してあげる……
彼女は確かにそう言った。
いや本当にそう言ったのか言わなかったのか?それすら曖昧に思えた。小さな声は本当は彼女がだしているのではなくて、夜聡自身が妄想して葉月の目がそう言っているのではないだろうかと感じただけかも知れない。
そんな事を思っていると葉月が
「想像力は自分の信頼の元になりたっているのじゃないかしら?私があなたをもっと知りたいのは、あなたの持つ世界観をもっと知りたいからだし……そのあなたの音の可能性をもっと共有したいもの。」
と今度ははっきりとそう言った。
湿気の混ざった空気の匂いがした。
生暖かい風がゆるりと吹いて、冷たい雫がポツリポツリと頬に落ちた。
夜聡はベンチから先に立ち上がり、葉月に手を差し伸べると、彼女の手を取り川沿いを小走りですすんだ。暗くて良く見えないが川に降りつける雨雫は、次第に音を小刻みにサワサワと音を変えていく。
雨が降ってきて慌てているはずなのに、
2人は追手から逃げる恋人の様に必死で、
それなのに微笑みながら小雨の街中の方へと走った。
街中は美しい造形の西洋的な建物が立ち並ぶ。夜の街並みはただ静かに、そして都会的に優しく街灯の暖色系の光を保っている。
雨の鳴る音はやがて激しさを増し2人はどちらもなく緑色のテラス屋根の店先に入って雨を凌いだ。店からは芳しく炒られた珈琲豆の香りが漂っていて、店内からは優しいJAZZ調のピアノの音色が聞こえてきた。
『moonriver』だ。
「夜聡なら……。」
と葉月が空を見上げながらポツリ言った。
「あなたならこの景色にどのような『added value』を加えるのかしら?」
夜聡も空は見上げながらその質問について考えた……。いや本当は考えるまでもなくこの後の事を想像していた。
雨雲で暗く闇に閉ざされていたその空に、
程良い風が流れると雲間から薄らと黄色い光が漏れ始めた。
「雨夜の月」
と夜聡は呟いた。
「雨夜の月……素敵な響じゃない。私たちは見えない光に導かれているのかもしれないわね。」
2人はその空を見上げながら目を閉じた。
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