黄昏時の微睡

夜聡よざと

と誰かが呼びかけた。


頭の中にはまだあのワルツの音が流れている。


けれどもそれが今の現実ではない事は、本当は理解している。曖昧な意識の中で今自分が何処にいるのかを、ゆっくりと自らに示唆する。

瞼を開けば目の前には白と黒の鍵盤が、

規則的に、あるいは不規則に並んでいる。

およそそこから音が出ることなどある意味ではそのフォルムからは想像できない。

ただそれは結局ピアノという存在だと知っているからこそ、それが鍵盤楽器で鍵に連動するハンマーで金属弦を打って出される音を思い浮かべる事ができるのだ。


などと意味のない事を考えて結論付けてみる。それから一呼吸おいて今考えるべき事を整理する。なるほど自分が今この鍵盤に導かれる様に、瞑想の世界を創り出していたのだと改めて実感するのだ。


少しずつ自分の意識が微睡まどろみの果てから戻ってくるのを感じた。それはまるで1日の始まりの様で、1日の終わりの様でもあった。

いってみればそれは、時差ぼけをした腕時計の針を、横についているネジで、元の位置に戻す様に、ただ時計の針を戻すだけではない、日付けもAMPMも更にその月をも意識するように、自らの頭の回転率を正常に戻して、今ある目の前の出来事を把握していく作業を一つ一つ頭の中で形成していった。

それからゆっくりと隣に座る女性に目を向ける。自分の横に肩を寄せ合うように、朱色のフレームのメガネをかけた少女が座っている。けれどもそこに緊張感はなく、それはごく自然のように、(まるで空気でも吸う様に)彼女は存在していた。

 


「僕は……夢でも見ていたのかな……?」

と思わず腑抜けた事を口にする。



ふふふ…と微笑みながら

「どうだろうね?」

葉月はるなは言った。


頭を振りながら今(頭の中で?)起きた出来事を思い返してみる。およそ現実的とは思えないが、ただ一つ確かなのは今は目の前にいる葉月はるなはきれいな石の首飾りも民族衣装姿でもなく、朱色のフレームのメガネをかけた制服を着た女子高生でしかなかった。


彼女は何事も無かったように早速そそくさと自分の荷物を、体の大きさにそぐわない大きな白いラインの入った、黒いリュックサック(白いうさぎのキャラクターのキーホルダーがついている)に詰め込んで帰り支度をしていた。


「あなたの演奏なかなか良かったわ……。

なんて言ったら偉そうかしらね?」


そう言いながら葉月は少し音の空想に耽るようだった。それから

「また一緒に弾きたいわ。」

と呟くように言った。



夜聡もまた彼女にならって自分の荷物をそそくさとまとめた。といっても彼の荷物は最初から真っ黒なカバン(この学校の通学カバンらしく、やはり白いラインがはいっているが、小さな葉月はるなと違って180センチはある彼の身長では、同じ大きなリュックには見えない)から何も出されていなかったので、手持ち無沙汰で中身を見直しただけだが。何と無く目を合わせつらく横目で葉月を見ながら、無意識に弾いたであろう?(何せ彼は本当にピアノを弾いた事がないのだから)ピアノの事を、なるべく無感情で無愛想に聞いてみる。


「僕は……これを弾いていた?だろうか?」


まるでガサガサと慌ててて支度している夜聡を落ち着かせる様に、葉月は間を開けてゆっくりと頷きながら答える。

「ええ。」


それから決意した様に夜聡に体をむけて

「また明日ここへきてくれる?」

と言いながら椅子から立ち上がった。


夜聡よざとは返事に迷いながら、それでも無視してるわけではない、という様なわかりやすい考える素振りをして葉月の後を追った。


それから2人でリュックを背負って、

音楽室を出た。


外は薄らと赤らんだ夕焼け雲が黄昏時の微睡を色濃く演出しているかの様に思えた。


彼女は手に持っている鍵で音楽室の扉に鍵をかけた。


「来てもいいけど、僕には明日の放課後までに練習する術がない……。なんせ僕の家にはピアノなんかないからね。だから君を落胆させるかもしれない……。」


と、さも自信なさげにそう言うと、

彼女はその言葉を待っていたとばかりに

すかさず


「大丈夫。私が教えてあげるから。」


と言ってその後、夜聡の返事も待たずに、

「じゃーまた明日ね」

微笑みながら教室を去って行った。 



夜聡はただそれを見送る事しか出来なかった。それから今体験していた、不思議な世界感について考えてみた。


あれは……間違えなく曲目から想像し得る世界観だ。葉月の弾いた『月の光』を聞いてから、いつの間にその創造と現実の間へといざなわれたのだ。きっと誰が弾いても良いわけではなく、自分の想像たる世界観に彼女の作り出す音の創造と重なり得たのだと思うより仕方がなかった。(というより非現実的な事はそういう事でしか説明がつかなかった。)現世げんせ現夜あわらよ、それに幻夜まぼろよ……どれも聞き覚えのない言葉ばかりだ。

それから確かに彼女は『月の都』という言葉を口にした。



夜聡よざとは『月の都』という名前に聞き覚えがまるで無かった。

宗教では無いと言っていたが……そう思いながら、スマホを取り出す。


『月の都』……。


俗社会からの奪回を目指す組織。活動目的は

「すべての人が俗社会から想像力を奪回する権利がある。」

「想像力を得て現実社会に貢献する。」

そのための行動原理として

「生活する者の自給自足を目指して、

民族の共生共存を目指す。」

を内容とする理念を掲げる。


京都の山の奥に一つのコミニティー、

『月の都』を村として運営して、

自治体として組織している。

宗教法人ではないが創始者の「はた氏」

は神道家で自身は『月神社』の神主

注 月神社の御祭神は月読命



いやいや…… 『俗社会から想像力を奪回を目指す組織。』って思い切り宗教じみてるじゃないか……。と彼は思った。神道?神社の神様の事か?


「うーん……あまり関わらない方がいいだろうか?」とは1人でぶつぶつと呟く。


世の中の多くのカルト宗教団体の勧誘は大体にして異性からの誘いから沼にはまって行くものだと何と無く知ってはいるが……


葉月はるなとの連弾はとても有意義で、その世界観は忘れかけていた精神の高揚をも思い出させた。それに普段クラスメートとも距離を置いていた彼にとって、人との、しかも異性との関わりは心拍数を高めたのも確かだ。


ほどよい距離感で……と自分にそう言い聞かせ、イヤホンを耳にはめて、ため息混じりに家路へ向かった。

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