何故彼らはピアノを弾くのか?

生命のAndante

Andante《アンダンテ》歩くような速さで。


生命それは与えられた命を生き全うするさだめ

この世に生を受けた時から、

体内に赤い鼓動が脈打ち始める。

それは時を刻む音の事。

それは生きる為に歩く歩幅の事。

それは言ってみれば少しずつ自分に合った

歩く速さを探り生きる事なのであろう。

『生命のandante』

それは神から与えられた使命。

それはこの世で過ごす事を許された命に

『時を刻む』事という事。

生きるという事は、

誰にでも平等に与えられた時間を

過ごすという事に他ならない。




古びた分厚い本を閉じながら夜聡よざとは思う。

生きている理由てやつはいつだって曖昧で、数学の方程式の様に決まりきった答えなんて物は存在しない。だから平穏な日常は退屈で、そして張り合いなんてないのだと。


17歳という多感な時期もあってか毎日が退屈で忙しなくて、そして息苦しく思えた。


夜聡よざとにとってそれはつまり……

いやだがしかし、というべきかもしれない、

決してその人生の何もかもが上手く進んでいるわけではなく、むしろ目の前には些細な問題から先の見えない手のつけられない課題が詰まれてる……。

つまり夜聡よざとはその目の前の、山と詰まれた課題のいったい何から手をつけるべきなのかわからずにいたわけだ。


結局のところ、テレビから流れるゴシップネタ、スマホを開けば目に入る甘い蜜の様な他人の不幸話と、叩けばいくらでも埃のでる政治への批判、それに自分から時間という物をいとも簡単に奪うネットゲーム……それらを眺めるという一番何も考えずに済む方法で現実世界から目を背けてきたのだ。

ある動画サイトを視聴するのも彼にとってはいわゆる暇つぶしの一つであった。



Selfiros(セフィロス)

→self(自分の)+色(iro)たち(複数形S)という造語。←

という動画サイトは自分を自由に表現出来るサイトだ。


ある者は自分の知識を取りまとめ公表し、

ある者は世界の雑学を取りまとめ、

ある者は奇抜な事をして映像に残す。

いずれにしても彼等はその視聴者を増やして、自尊心を高める、または映像の途中に入る広告収入を得る事を目的としていた。

そういう人達を昔流行ったゲームのキャラクターになぞらえてFF(えふえふ)と世間では位置付けた。



夜聡よざとにとってFFという者たちの存在は本当の所、鬱陶しく思う職種の一つであった。


理由は二つだ。


一つは人がしない様な奇抜な事をして、興味本位で覗く人らを食い物にして莫大な広告料としての収入を得るが自由に生きるのを見ると怒りさえ覚えているからだ。つまり嫉妬にも似たこの感情は、自然と彼らを奴ら…と印象付けていたのだ。


けれどもその概念をくつがえしたのは

ピアノの演奏動画を配信する何人かのピアニストたちだった。


ピアニストだけでなく文化人(本当の意味での芸能人とでも言うべきだろうか?)という種の人たちは自分たちの存在感をappealする場がなければ活動する事すらできない。つまり存在意義すら不透明になる。その為の資金稼ぎを踏まえた自分の価値を再認識出来る場所と思えば、Selfiros(セフィロス)はなんと有意義な場所なのだろうと感心すらした。


それでも視聴者の感じ方はそれぞれなわけで、そのピアノ演奏すらピアノが弾けるという、自己満足のヒケラカシと捉える者もあるだろうが……。まーとにかく夜聡よざとピアノ連弾という奏法を用いた動画は彼の心をガッシリと掴み、ひどく心を揺さぶりかけたのだ。



その日夜聡よざとがSelfiros(セフィロス)を開いたのは、きっかけはあったにせよ、ほんの気まぐれとしか言いようがなかった。何せ彼は上記した様にFFというたぐいの人を少し毛嫌いに近い状態で避けたいのだから……。



都庁に置かれた黄色いピアノに細身のサングラスの男と外国人の男が小さな椅子に横並びに座り『ルパン三世のテーマ」を弾き始めた。それは一見奇妙で、それは一見穏やかな空気感であった。何せ大の大人の男が一つの小さな椅子に小さくなりながら座っているのだから。



ところが、


演奏が始まった瞬間に夜聡よざとはあっという間にその鮮やかに彩られた音たち世界観に飲まれた。


一つのピアノが奏でる二つの価値観、指揮する者はなく二人でアイコンタクトを取りながら自分の作り出した音達を並走させる。さらに演奏半ばで突然1人の男は立ち上がり、攻守交代かのようにポジションをいれかえたのだ。1人がメインメロディをかなで、1人は少しJAZZ調の伴奏で合わせる。(それとも伴奏にメロディを合わせるのだろうか?ピアノを弾かない僕にはわかり得ないことだが……。)

とにかく2つの視点で物語を繋ぎ作り出された短編映画を鑑賞している様で、物語の中でその二つの視点が自然と一つの結末至っていく時のあの気持ちの抑揚と同じ物を感じたのだ。それをどう表現すればよいか……、

『シンクロ』という言葉が一番シックリとした言葉として頭におさまるかもしれない。



連弾を終えて拍手喝采を受ける。

知らない人達がある日突然出会った、

そこにある音楽を聴く事に時間を費やし聴き入る音楽。チケットを取って好きな歌手の音楽を聴くわけではなく、ある種のカルチャーショックに近い新しい物を受け入れるかのような心の高鳴りを感じた。


「僕に足りない物きっと……。」

なんて突然思いつきで口にしてみる。


変化のない人生なんていうのは、

ただ曖昧に過ぎていく時間のようで、

何かをしたという……、

何か生きているあかしが必要なのかもしれない。



なんとなく人生に疲れを感じたのはいつからだろうか?


走っても走っても見えてこないゴール。

目的なく走り続ける。

それは何かから逃げている様で、

きっと得体の知れない何かに追わて、

走るのを止められない。

何に追われているのか?

それすら自分ではわからないのだ。

どこに向かっているのか?

どこまで走ればいいのか?

果てしない目的のない持久走のよう。


ではいったい僕ははいったい何の為に走り続けるのだろうか?



生き急ぐ必要がなぜあるのだろうか?


と誰かが言った。


自分にあった歩数で前に進めば良いではないだろうか?。それはつまり……

『生命のandante』歩くような速さで。

生きれば良いのだ。

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