夜には月が必要だ

夜道を歩くのは嫌いではない。


日常的に絡まり合った糸を解くには、

雑踏の中ではなく静寂な闇が必要なのだ。

さんざめくネオン街を抜けて郊外へ向かう。

街の薄ら暗い空は紺碧というべきか、

あおくない黒のような、

黒くないあおのような、

人工的な光を浴びて闇に病むのを免れている様にすら感じるのだ。

住宅街を抜けると辺りの街灯はすっかりと数を減らし闇の色を増していく。人工的な光を失った夜はまた漆黒へと向かい始める。

遠くに見えるぼんやりとした光。

闇の中での距離感なんていい加減なものだ。

近くに感じながらなかなか辿りつかない。

夜道を歩くのは嫌いではないけど、

静かな空間は頭の中の不安を煽る。

夜とは人の心のようだ……。


そう思いながら夜聡よざとはその光の方へと歩みを進めた。



。。。。


あの動画を見た日を境に夜聡よざとはすっかりとピアノという物に引き込まれてしまった。図書館に通い、楽譜を読み漁りピアノの基礎という基礎を文字で追った。

それから何度も何度も頭の中で鍵盤を空想して、その空上くうじょうの鍵盤を毎日頭の中で叩いた。本来ならば、本は購入するべきだし、ピアノを習うというのが最善の方法だとはわかってはいたが、夜聡はなんでもすぐに購入すれば良い、お金で解決という事にいささか抵抗があったのだ。

それに家にはピアノなんてなかった。

目を瞑りワイヤレスのイヤホンから音を読み取りそして何回も何回も、瞼の裏の空想世界で指を踊らせていた。時々本物のピアノを弾いたらどんなだろうか?と想像はするけれど一度もその、行動にいたらなかったのは、

その妄想が好きだったし、まーある意味それで満足していた?のだと思う。



「それ『月のワルツ』よね?」


「え?!」


イヤホン越しに聞こえた声に耳を疑った。

赤い縁の眼鏡をかけた黒髪の女子がいつの間にか自分の横に立っていた。



葉月はるなはクラスでも存在感を示すタイプの女子ではなかった。他の女子と戯れるわけでもなく、成績も真ん中より少し上くらい。教室ではいつも読書に耽っている。そんな印象だ。人気があるわけでもなく、嫌われてもいない。話しかければ楽しく話すし、自分の身の上話もする。(…らしい。実際話した事があるわけじゃないからわからないけど。)噂によるとどこかの神社の一人娘だとかなんとか……。けれども彼女の黒く艶やかな髪の毛は清潔感にあふれて、いつも黒いゴムで後ろに一つにくくられて、少し朱に近い赤い縁の眼鏡のかかった耳は小さくけれども妙に美しく存在感を示していた。

彼女は控えめで目立たないにも関わらず、

夜聡よざとの中ではきれいな耳の女の子という印象があった。


「ごめん急に話しかけて。」


「あっいや……」


いや本当は違う……。

本当は前から彼女のそのきれいな耳に魅入られていたのだ。その耳を意識したのは入学して間もない頃音楽室から聞こえたピアノの音だ。そもそもSerufuiros(セフィロス)でピアノを検索したのは、それがきっかけだったからだ。


。。。。


その日夜聡よざとはいつもの様に一人で教室で宿題を終えて(家に帰っても絶対にやらないので)

いつものように昇降口へと向かうはずだった。まーそれは彼にとってのルーティンというやつで、毎日同じ行動をとらないと落ち着かない難儀な性格も助けて、ほぼ毎日同じ帰宅行動に勤めていた。おそらくクラスメートにはちょっと変わった奴と認識されていたに違いない。

けれどもその日に限って夜聡よざとは昇降口にはまっすぐ向かわず、教室を出て反対方向に向かって歩きだした。

それはおそらく……というか、多分耳の奥にピアノの音を聞き取ったからだ。

何と無く本能的にそちらに向かって歩きだしたのだろう。正直なところ何故そうしたか?と言われても全く思い出せないのだ。


曲名はわからないけれど、

聞き覚えのあるメロディ。

心地よく軽快なのにどこか物悲しい。

西洋人が賑やかしい大きな街を歩く様な、パリのシャンゼリゼやらローマのスペイン階段やら見た事もない青い空の下を優雅に歩くようなリズム。まー海外なんて行った事ないけど。ちょっと昔に流行ったアニメの映画の曲だったように思う。ピアノの音色に暫し聴き浸りながら、口元は綻び少し心地よい気分になる。そこにいる艶やかできれいな髪で小さな耳の女子。夜聡よざとはすっかり彼女という存在に導惹みちびかれかれていた……。



けれども夜聡よざとは意味もなく高鳴る興奮と感情を、今までそうしてきたように自分の目の奥から刺さる様な冷ややかな鋭い針の様な刺激でプスリとさして消し去った。

そしていつだって心の声でこう言い捨てるのだ「なにを一人ではしゃいでるんだ。バカだな僕は……。」

憧れはいつまで経っても憧れじゃないか。

僕の人生は無難に平常にそしてで良いじゃないか。



それなのに……。


。。。。。


夜聡よざと君てさ……。」


「えっと……夜聡でいいよ。呼び捨てで。

君は?葉月はるなさんと呼んだ方いい?」


と、なんの動揺もしていない素振りで冷静を振る舞う。それはやはり万人には素っ気なく思えて、冷淡だか感情のないとか思われていて、だからいつだって友達はいない。

なのに……それなのに。


「ううん。葉月はるなでいいよ。あ……ごめんね急に話しかけて。それでその曲って……。」


とその小さな耳にイヤホンをつける仕草をする。そんな彼女を見て思わず口元が緩んだが、すぐにキュッとつぐむ。



葉月はるなのお察しの通り『月のワルツ』さ。けれどもなんでわかった?」


なんて冷たくあしらうように言ったつもりだったのに彼女はまるで動じないように思える。


「だってその指の動き……。」

なんて言いながら楽しそうに指を動かす。


「指の動きって言ったって……鍵盤を見ているわけでもないのに?」

興味なさそうに話すのも楽ではない。


「私14歳の時にピアノの発表会で弾いた曲だもの。それに……。」



「それに?」


「好きなのよ。」


とか言われても意味もなく?息をのむ。


「『月のワルツ』がね。昔みんなの歌で聞いて以来ずっとね。だから夜聡の指の動きを見た時にすごくドキドキしたの。すぐにわかったわ。ところで……。」



すっかりと葉月のペースにのまれる。


「私あなたが弾いてるピアノ聴いてみたいわ。」



「いや……それは無理かな。」


「何故?」


「いや……何故って……。」


だって実際僕は本当にピアノなんて弾いた事がないし、弾く場所だってない。

それに……。


「今から行こうよ音楽室。」


と手に持っている音楽室と書かれた無機質な緑の透明なキーホルダーのついた鍵を見せる。


「え?」


「私これから行くの。音楽室のピアノ借りるから鍵借りてきたところ。」


「あ、うん。」


て……何で僕は立ち上がったんだよ。


そして僕はグズグズと荷物をまとめて彼女を追いかけた。



。。。。


夜道を歩くのは嫌いではないけど、

静かな空間は頭の中の不安を煽る。

夜とは人の心のようだ……。

夜には月が必要だ。

そう思いながら夜聡よざとは遠くに見える、その光の方へと歩みを進めた。




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