静かな月の光は悲しくも美しい
優しい音色が心地よく耳の奥に響き渡っていた。その音は静かで雅やかでそして物悲しくもあった。それはただの音ではなくて、小さな植物が芽吹いて新しい生命を誕生させるかの様な躍動を感じられ、そこに描かれる物語の想像力を掻き立てた。
彼女の心の中の風景は静かな夜を摸した絵画のようだと。彼はその世界に導かれる様に足を踏み入れた。
あたり一面が見渡す限りの闇だった。
謎めいた仮面をつけた道化師が夜の田園を列をなして行進している。横笛を吹きながら賑やかにそして静かに練り歩いている。
道化師の表情は読み取れないけれど、
不思議と感じられる仮面の下の悲しそうな表情。大人びて見えるその姿の背丈は高いが背中を丸めているので子供の様な背丈に感じられ、子供のように無邪気に踊っているけれども騒々しくなく雅やかに舞っている。
横笛から響き渡る静かでフラットのかかった色で表現される音の調べは、
愛や命を歌っているようで、
幸せそうな顔には見えない。
力強くも繊細な歌色は
遠くの方で闇夜を照らす
月の光に溶け込むばかりだ。
そして思うのだ。
静かな月の光は悲しくも美しい……。
「『月の光』はドビュッシーの作品の中で、おそらく最も愛されているピアノ曲よ。」
そう言いながら
けれども
。。。。。
音楽室に着くと彼女は慣れた手つきで鍵を開けて音楽室特有の防音扉を開いた。そしてはじめからそうすると決めていたかの様に、夜聡をピアノ近くの席を進め、黒光したピアノの蓋を柔らかい仕草で開いた。そうして彼女の美しくも繊細な女性らしい指はしなやかに鍵盤を撫で始めた。
放課後の校舎は誰もいないわけでもなく、
時折ピタリピタリと廊下を歩く足音が聞こえた。7月の終わりにしては冷ややかな空気の運動場では、大会を前に控えた運動部員たちが死に物狂いで熱気を放っていた。
高校一年生の7月の終わりなんていうのは、一つのターニングポイントみたいなもので、その校風に馴染めない者は奈落の底に落ちていく。
落ちるものは逃げ出し、歩む者は前に進み、受験を終えて遊びに目覚めた者は仲間たちと帰路へと急ぎ、目標を持つ者は自分との戦いに明け暮れる。運動部はグラウンドや体育館で精を出し、文化部の連中は各々の特別教室で己が信じる文化へと勤しむわけだ。だから残っている生徒なんていなかったし、教師たちも校舎、教室の巡回なんてしなかった。とりわけこの高校は、吹奏楽部は非常に優秀らしく数々の大会で金賞なんてとっていて部員も100人近くいるものだから、活動自体も音楽室ではなく、小ホールという学校の持つ施設を使っていたので、音楽室には夜聡と葉月の二人しかいなかった。
「ねー。音には生命が宿るのよ……。なんて言ったらあなたは私を軽蔑の目で見るかしら?」
「……どうだろうか。わからないけれども、少しわかる気がするよ。生命というか…ストーリー?その音と音との巡り合わせは、なんというかその弾き手の思考というか…世界感とかそういったものを存在させる?そんな気がするよ。」
夜聡がそう言うと葉月は口角を緩やかにあげて微笑み、夜聡に敬愛の眼差しを見せた。それから慣らしの様にひいていたメロディをとめて。目を閉じた。
「あなたなら私を受け止めてくれる気がするわ。」
そうして赤いメガネを外してピアノの上にのせた。それから小さなその美しい造形物の様な耳に髪をかけて優しく柔らかに再び鍵盤に手を乗せて『月の光』を奏で始めた。
。。。。
静かな月の光は悲しくも美しい……。
そんな事を感じながら夜聡は歩き続けた。
辺りの田園に張られた水面にはまだ稲は植っていない。その代わり儚くも美しい蒼白い満月が映り込んでいた。
「僕はいったいどこに向かっているのだろうか……。ん?」
気がつくと白い二足歩行の生き物が夜聡の前を歩いている。
「何……え…と…うさぎ?」
ただ何もない田園の真ん中の一本道を理由もなく歩く事に違和感を覚えているのにもかかわらず、なんとなくその白い生き物を追いかける。その生き物を追いかけながら、今は目の前にある森を目差すべきなのだという使命感にかられている。すると密やかな声がどこからか聞こえくる。森の方からだ。
「歌声?」
闇夜の静寂を月の光を頼りに白いうさぎを追いかけて森へ入る。
On nights when the moon is blue like this
Strange things may happen
Somewhere in a deep forest
I'm wandering about
。。。。
「夜聡……?」
微動たりしない夜聡。
けれども葉月は慌てる様子もなく、ピアノ上のメガネを手に彼と目を合わせながら呼びかける。
「夜聡……。」
一言も発せずに立ちあがる夜聡。
目には
自分が温めた椅子の半分を彼に譲り座る様に促す。葉月はにっこりと微笑んでこう言う。
「聞かせてくれるの?私の世界の続きを。」
夜聡が鍵盤に手を乗せると同時に、
静寂は突如として乱される。
音とも言えない悲鳴にも似た不協和音を
一通り叩き、部屋に響き渡った反響音が静まるのを待った。
それから大きく息を吸い込んだ。
ブンチャチャ ブンチャチャ ブンチャチャ
優しいワルツを奏ではじめた。
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