第3話 ヨウコ、愛してるよ
ぽたり、と赤い雫が洗面台に垂れた。それは重力に従って緩いカーブを描きながら排水溝へ。一筋の赤い道が黄ばんだ白色の洗面器の中を走った。
「ふぅー……ふぅー……」
ヨウコは顔を上げる。正面の鏡に自分の顔が映る。そして愕然とした。つい今しがた、実の父親を都合四回、包丁で刺し、絶命を確認してきたところだというのに、鏡の中の自分は不気味な程いつもの顔をしていたからだ。セミロングのウルフカット、眠たげなたれ目、チャームポイントの泣き黒子、バスケ部で鍛えた小柄だが引き締まった体、心地よい疲労を感じさせる表情。未だに制服を着てしまっているせいで鏡に映る全てがまるで学校帰りに手を洗う様な、そんな日常感に包まれていた。
「情緒豊かな人間だと思ってたんだけどな」
自嘲を込めた呟きが歪に吊り上がった口角から漏れる。人を殺した後、それが日常かのような態度で帰り血を洗いながら笑うなんて、まるで出来の悪いアニメのサイコパスキャラみたいだ。安っぽいにも程がある、最悪だ。
「勿論、ヨウコは情緒豊かな人間だよ」
ぽろん……となぜかアコギの音を響かせてミキは急にヨウコの部屋から登場した。
「何そのギター」
「押し入れの奥で見つけてね、弾けそうだったから弾いてみただけだよ」
「さいですか」
もう何か反論するのも馬鹿らしくなってヨウコは自分と凶器の包丁に付いた血を洗い流す作業に戻った。
「しっかし、何一つ手伝ってくれなかったよね」
恨めし気にぽつりとヨウコが呟く。
「君の親父さんの殺害の事かい? そりゃあそうだろう。家庭内の問題だ。私が手を出す分野じゃない。それに私は殺人共犯の罪を負いたくないからね」
「あんだけ思いっきり殺人教唆しといてよくいう……」
あきれ顔のヨウコはもうすっかり綺麗になった手に、三度目の洗剤を乗せた。
「あはは、それはそれ、これはこれってね。しかしどうだい? やりたかった事をやり終えた気分は?」
「なんか……普通」
「それは意外だね、てっきり自分の犯した罪から逃げその後始末、死体の隠ぺいを強要してくる憎き親父を殺して気分がいいとか言うものかと思ったんだが」
「あーそれは無いかな。私別にお父さんの事殺したいほど憎んでたかって聞かれるとNOだし」
「へぇ……じゃあなんでヨウコはお父さんを殺したかったんだい?」
その質問でヨウコはもう十回目になる洗剤を絞ろうとする手を止め、キュッと蛇口を閉めた。なんだか片手間ではなく離さなければならないような気がしたからだ。
「ねぇ、興味ないかもしれないけど、聞いてくれる? ウチの話」
「変な事を言うね。私が親友の話を聞かない薄情な女だと思うかい?」
「ったく一言多いのよ」
「とはいえ、そんな話をする場所がこんな狭い洗面台の置いてある脱衣所ってのはいただけないんじゃないか?」
「あ、じゃあアタシの部屋に行く? それともリビング?」
「何を言ってるんだい。脱衣所があるって事は風呂場がすぐそこに在るって事だ。見た所制服のままって事は帰ってきてから風呂にも入ってないんだろう? 言っちゃ悪いが臭うよ」
「嘘⁉」
慌てて腕を鼻に寄せクンクンと嗅ぐヨウコ。鼻腔の中に入ってくるのは血の臭いばかりだった。
「それに、お約束だろう? 大事な話は風呂でやるって。てことでお湯を張ってくれ。私だって友達の家の風呂で友達とキャッキャウフフやりたい願望位あるんだ」
*
〝ぽちゃん〟と髪についた水滴が湯船に落ちる軽い音が浴室全体に反響する。
二人は今狭い浴槽の中で向かい合って座っていた。
「驚いたよ、ヨウコがあんな洗い方をするなんて……」
「やめてミキ。もう済んだ話じゃない。私hあ世間一般的な体の洗い方をして、今こうして湯船につかってる。それだけで一人の乙女の自尊心が救われるんだよ。協力して」
「是非もない。乙女の自尊心より大切なものなどこの世には存在しないことくらい、私だって理解している。しかし……あの洗い方はまるで……クククッ! ダメだ思い出し笑いが止まらない!」
言い終わらない内にヨウコはミキの頭を押さえつけ、湯船の中に沈み込ませた。
「がぼっ!がぼがぼがぼ!」
「私もうきょう一人殺してんのよ、二人目くらい訳ないわ」
「ブハッわ、分かった。肝に銘じる。さっき見たことは金輪際記憶から消そう」
「そうしてもらうと助かるわ。アンタの命がね」
「あはは、ヨウコには助けてもらってばかりだな。さて、本題に入ろうか」
「あーなんだっけ」
「ヨウコの家族の話さ」
そういってミキはポロンとギターを鳴らした。
「言っとくけどそれ風呂に持ち込むようなものじゃないからね」
*
「一ヶ月前まで、私の家はそこそこ幸せだったと思う。いや幸せだった。世間一般の中流階級と比べても中の上はあったと思う。両親が健在で家はタワマンとはいかないけどマンションだし、外車じゃないけど車二台持ちだし」
「それは随分と自慢してくれるじゃないか、ちなみに畔原家は片親のボロアパート住みで原付が一台あるだけだよ」
「いえーい親ガチャ最高ぉー!」
「癪に障る笑顔でダブルピースを向けて来るんじゃないよ。全く」
ばちゃばちゃと嫉妬を込めた湯をヨウコに向かってかけるミキ、ヨウコはそれを笑って受ける。強者の余裕なのだろうか。
「でもま、それも一ヶ月前までだった。一ヶ月前、お父さんの浮気をお母さんが知ったの」
「それは修羅場だねぇ」
「前々から気配はあったらしくて探偵雇って確証を得たのが一ヶ月前。そっから家庭は荒れたよぉほんとに荒れた」
「まあ想像はつくよ。えてして、家庭とはそういうものさ。ヨウコはそれをどう見てたんだい?」
「両親は私には隠してるみたいだったけどバレバレだった。だけど気づかないふりをしてあげてた。お互いのことで手一杯な所に私の世話まで押し付けたくなかったし。どうとでもなるとも思ってたし」
「どうとでも?」
「そう。元々両親二人とも好きあって結婚してたんだ。ここに至るまでの三十年以上の結婚生活、本当に仲が良かったから、浮気ひとつくらい水に流す余裕は全然ある様に見えた。それにこじれて離婚となったって私がすることといえばどちらに付いていくかを選ぶ程度の事。どうせ大学では一人暮らしをする予定だったんだからその予定を早めたって良い。両親とも大好きだったから仲たがいをしているのは辛かったけど、それこそ私が対応すればいいだけの悲しみでしかなかったから、実際の所二人の離婚は私にとって大した問題じゃなかったんだよ。あの日までは」
「一ヶ月前だね」
持ち込んだギターをまたポロンと鳴らしてそう言うミキ。流石にヨウコもイラッとした。
「そう、一ヶ月前のあの日、私が学校から帰ると父さんがお母さんを細切れに解体してジップロックに詰めてる最中だった。あの時の父さんの顔ったら忘れらんないよ『ああ面倒事を押し付ける事ができる相手が返ってきた!』って。まるで天使でも見るみたいでさ」
「それから、毎日学校に行ってはお母さんの死体を処理する二重生活が始まったのかい?」
「そういうこと」
「なるほど、しかしわからないね。今の話を聞いても、お父さんを殺したくなる理由はお母さんの復讐だとか、死体処理を強要されたことへの恨みくらいしか思いつかないよ。けどそれは違うんだろう?」
「違うというか、メインじゃないね。まあ理由の一つではあるよ」
〝でも〟といったあとヨウコは息を吸い込んだ。
「一番の理由はさ、一緒に居るべきだと思ったんだよ」
「お父さんとお母さんがかい?」
「そう。さっきも言ったけど、元々好きあって結婚して、仲睦まじく三十年間を歩いてきたんだ。こんな殺人ぐらいで、片方が死者、片方が生者なんて、お父さんもお母さんも可哀想じゃん。だから、二人とも死んで一緒の世界に居させてあげた方がさ、絶対嬉しいに決まってるじゃん。私は一人で寂しいけど、それは私がどうにかすればいいだけのことだし……」
湯船に肩まで浸かりながら至極当たり前の様にそう言葉を綴るヨウコ。そんなヨウコをまるで化物でも見るかのようにミカは凝視し……
「ブッハ!!!!!!!!!!」
心底愉快そうに大きく笑った。
「え⁉ 何々⁉ 急にどしたの⁉」
「いやなに、ヨウコは優しいね。素晴らしいよ。流石私の親友だ」
「いやマジで気持ち悪いんだけど! わ、私なんかおかしな事言ってる⁉」
「いいや。君は何も違ってない。ヨウコ、ヨウコ、こっちを見て」
ミキはそう言うと、バスタブの中でずいっとヨウコに顔を寄せた。唇があと数センチで触れてしまう程の至近距離。がっしりとヨウコの頭部を両手で掴み、逃げる事ができないようにしたミキはヨウコの目を真っすぐと見つめ、にへらと毒々しく笑顔を作った。
「ヨウコ、ああヨウコ。君は最高だ。本当に、本当にね。だから私はヨウコが何をしようと全部許すよ。誰に、何をしようと、私が全部許してあげる。他の誰が何と言おうと気にするな。私が許してあげる。全部、全部ね」
そう言いながらミキの顔はどんどんとヨウコに近づいてくる。あわやキス……となる直前、ミキは体の力を抜いてその頭をヨウコの耳元に着陸させた。
「だからどうか忘れないでいて、私に何をしてもいいんだ。ヨウコが私に何をしようと、それも私は喜んで全部許してあげる。ヨウコ、愛してるよ」
耳元でささやかれた言葉、それが意味するところはさっぱり解らなかった。しかしヨウコはその言葉が自らの魂に刻み付けられるのを感じた。
「ふふっ分かってくれたみたいでうれしいよ! しかしこれ以上はのぼせてしまうな。そろそろ上がろうか」
まるで何もなかったかのように湯船をざばりと波立たせて立ち上がるミキ。
「ったく、自分の都合ばっかり」
続いてヨウコも立ち上がる。しかしそこでミキが何かに気付いたようにヨウコに向かって口を開いた。
「しかし、殺されたお母さんは天国へ行くだろう? まっとうに暮らしていたんだから。でも流石に人を殺したお父さんは地獄行きだろう。死んだところで天国と地獄じゃあいっしょになれないんじゃないか?」
「ははっ。お母さんは後々お父さんが来るっていうなら、天国行きなんか捨てて地獄で待ってるような人だからそこは大丈夫」
「へぇ……それは……」
〝仲睦まじい両親だ〟と言いかけたミキの口が泊まって数秒考えこみ口を開いた。
「ヨウコ、お母さんはどっちの意味で待ってるんだ?」
ヨウコは歪に口角を釣り上げて凄惨に笑った。
「どっちの意味だろうね」
〝ボチャン〟と湯船に落ちる水滴がひときわ大きな音を立てた。
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