第2話 ヨウコは何がしたい?
「おーい、帰ったぞー!」
自室のベッドの上でうつらうつらと眠りの浅瀬を漂っていたヨウコを耳障りな父親の声が現実に引き戻した。
「あの人、帰ってきたんだ……」
ヨウコは判然としない意識だというのに憂鬱だけはしっかりと認識する自分の意識を呪いながらベッドの上で体を起こす。寝ぼけ眼で眺める時計は午前二時を指していた。
「ダメじゃないかヨウコ、制服のままで」
玄関のすぐ横にあるヨウコの部屋にノックもせずに上がり込んだ父親は、既に相当酒臭いにもかかわらず、ぐしゃぐしゃとコンビニのポリ袋から酎ハイを取り出すとおぼつかない手つきでそれを煽って、言った。
その全てがヨウコの憂鬱を容赦なく引き出していく。
「自分だって人の事言えないじゃん」
よれよれのシャツの襟は黒ずんで、髪はぼさぼさ、無精ひげも目立つ父親に身なりの事を言われる筋合いはない。そして何より……
「ねぇ、仕事行ってる?」
「はぁ? 何頓珍漢な事を、仕事じゃなきゃなんでこの時間まで外にいると思ってるんだ?」
へらへらと酒の力を借りた笑顔でそう言う父親の態度は、発した言葉と真反対の現状をよく示していた。
「どうせ浮気相手のとこ行ってたんでしょ?」
「なんだぁ、ヨウコにはもうバレてたかぁ」
実の娘から浮気を指摘されたというのに父親の態度は崩れない、相も変わらずへらへらとした笑顔で深刻さの欠片も無い態度で言葉を受け流す。
ああ、この人はずっとこうやって生きてきたのだ、とヨウコは初めて自分の父親が実践してきた人生の攻略法を理解した。家族が順調であった一ヶ月ほど前までは一切見る事のでき無かった父親の窮地に陥った時の行動方針。
目の前の難題がどうにも無視できなさそうなとき、目を瞑って耳を塞いで、お酒で思考を潰して、安心できる場所に逃げ込んで、嵐が過ぎ去るのを、誰かが何とかしてくれるのを待つ。逃げて逃げての人なのだ。
「ま、まあでもユリさんはヨウコもきっと気に入ると思うよ! 良い人だし! 今度三人でディズニー行こう! だからんそのためにもな……? リビングのアレを……」
安心できる場所はどうやらユリという名前らしいという事をヨウコは理解した。そして忌々しいが何とかしてくれる誰かとしてキャスティングされているのが自分であるという事も。
「リビングの小分けにされたお母さんの死体なら、今まで通り、私が何とかするよ」
「ほ、ホントか? ごめんなぁお父さん何もできなくて……」
「謝るくらいならさっさと部屋から出て行って、私の部屋は私の部屋で、お父さんが酒を飲むための所じゃない」
「とはいってもなぁ……なんか圧迫感があるんだよ。リビングのその……アレが……」
「はぁ、今日は5袋処分したよ」
「そっか……てことはジップロック一つ大体1リットルだから5リットル。5キロ分母さんが居なくなった……」
「そう。だから5キロ分圧迫感は減っているし、5リットルまではお酒を飲む容量があの部屋に空いた。だからさっさと出て行って」
何の理屈にもなっていないただ数字を合わせただけの物言いでも父親が満足するには十分な様だった。酒を持ったまま立ち上がり、ヨウコの部屋を後にする。
「ヨウコありがとなぁ、こんな事してくれるなんてヨウコはできた娘だぁ……処理は頼んだぞぉ。そして早くユリさんと三人で暮らそうなぁ……!」
そんな無責任な言葉を残して父親は部屋を後にした。去り行く背中に聞こえないようため息を一つ、そのかすれた音が部屋に溶けきる前に、背後からとても聞き覚えのある声がヨウコの耳に届いた。
「今のがヨウコの秘密かい? 随分とまあシンプルでわかりやすいじゃないか。興味深いね」
*
慌てて振り向いた先に居たのはその勿体つけた喋り方で一番最初に思い浮かんだ人物、畔原ミカその人だった。
「おや、どうしたんだいそんな意外そうな顔をして」
「アンタ、なんでここに、何を聞いて……いや……その……」
「ふふ、感情の起伏に乏しいヨウコにしては珍しく狼狽えてるね。話は窓の外で全部聞かせてもらったよ。話が終わりそうだったから驚かそうと窓から入らせてもらった」
「驚かそうって……」
「なんならヨウコが〝処理〟をしている一部始終も見させてもらったよ。帰り道で様子がおかしかったからね。得意満面で私に向かって吐いた言葉も聞いたよ。『嘘はこうやってつくんだよ』だったかな? 心外な話だよまったく」
次々と聞いてもいない事を喋り続けるミキ。プライベートもクソもあったもんじゃないなと呑気な事をヨウコは考えていた、いや、あまりに異常な状態にその程度の事しか考えられなかった。
「さて、ヨウコの取るに足らないというには少し大きな秘密を知った私は次にどうすればいいだろう。もしくはヨウコは秘密を知った私をどうしたい?」
そんな回らない頭で突然質問をぶつけられ、ヨウコは面食らった。
「どうって……」
「そりゃあ気になるだろう。ヨウコは今、死体損壊、遺棄の真っ最中の犯罪者だ。法律的には死体領得罪で裁かれることになるのかな? それを知った第三者の私としては、口封じだとか、共犯だとか物騒な言葉が付いて回るものじゃないか」
ごくりとヨウコは唾を飲んだ。別に意識していなかった訳では無いが、改めて罪状と犯罪者という言葉を受けると何かキツイものがあった。
「口封じは……しない。人殺しにはなりたくないから。共犯も別にいらない。私の家の問題で他人に関わって欲しくない」
「へぇ、じゃあヨウコは何がしたいのかな?」
「何が……したい……?」
「そうさ。もしかして何も考えてないのかい? はぁ、いいかい? そもそもヨウコはエゴが薄くて流されがちな所が良くないと前々から思っていたんだ。もしかして今回のこともなんだか流されるままにここまで来たんじゃないだろうね?」
当たりだ。とヨウコは思った。
それが顔に出ていたのかミキは大きくため息をついた。
「はぁ、それじゃあさっきの君のお父さんと同じじゃないか。いや、目の前の困難に対して逃げを打っているだけお父さんの方がマシかな。なんせ流されるままってのは何もしてないのと同じだからね。そんなんじゃ、せっかくの非日常に失礼だよ」
「失礼……?」
「そうさ。非日常の中で主導権を手放して状況に迎合するなんて馬鹿げてるとは思わないかい?」
「は、この状況を楽しめとかそういう事? 馬鹿言うねミカも」
「別に楽しまなくてもいいさ。ただ主導権だけは手放しちゃいけないって話さ。非日常の、そして人生の。恐れずに主体性を持つんだ。さあこの非日常の中でヨウコは何がしたい?」
ヨウコは少しだけ考えた。頭の中で冷凍庫の肉片と、酔っぱらった小汚い父親と、維持すべき学校生活と、畔原ミキが少しだけ輪になって踊って、ミキサーで混ぜられた。ドロドロになったそれらを咀嚼して、えづいたヨウコが吐き出したものが言葉となって狭い六畳の女子高生らしい白とピンクを基調とした可愛い部屋の大気を揺らした。
「お父さん、殺したいかな」
「よし、じゃあそれをやろう」
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