戦国巨神タロス

千葉和彦

第1話

 駿河愛鷹山麓の一角に、風魔一族の隠れ里がある。かつて執権北条氏に仕えた忍びの者の末裔で、風魔半月斎を頭領と仰ぐ百人余りが農耕と狩猟で生計を立てていた。

 里のはずれに小さな洞がある。大陸から渡ってきた神が、仙人の勧請によって、この地に鎮座したと伝えられる。

 洞の奥に、その神を祀っている青銅製の神像がある。立っている姿で身長七尺、羽根を広げているので、京都の民なら「天狗さんや」と口走るところだ。

 事実この神像は、天狗と同一視され、「太郎坊大権現」と呼ばれることが多い。ただ、これは訛っているので、もとは「タロス」と呼ばれていたという。

 半月斎の祖父が鎌倉の都を逃れ、執権北条氏の末裔と別れて移ってきたのと同時期に、この洞は掘削されていたようだ。

 ある日、この太郎坊の神像の目から雫が、いや涙がこぼれ落ちるのを、里の若者が見つけた。山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎の悪童三人組だが、怪異な出来事に首をひねるばかり。

 半月斎が孫娘の千鶴とともに現われる。神像を見た半月斎は、「また、いくさがあるかもしれぬ」と呟いた。二十年前にも同じ怪異が見られたが、その日に京の都では、細川、山名の両軍が激突して、世にいう「応仁の乱」が起こっていたのである。

 悪童三人組は「われらが世に出る好機ではないか」とはしゃいでいたが、千鶴は妙な胸騒ぎを感じていた。


 長享元年十一月十五日。

 駿河守護代・小鹿刑部は、駿府の居館を出て、舎弟・孫五郎をはじめ一党を従えて、焼津の小川郷に向かった。行く先は、長谷川大膳が主を務める小川館であった。この館には、今川龍王丸とその母・北川殿が、今もなお庇護されていた。

 龍王丸の父であり、刑部には従兄にあたる駿河守護・今川義忠が、国内の動乱を収めようとして、流れ矢にあたって落命して、すでに十一年。数え十五歳になった嫡男・龍王丸が守護職を継ぐのが筋だったが、刑部が異を唱えていた。

 この日も、北川殿が「龍王丸襲封のこと、堀越公方さまを通じて幕府に上申を」と迫ったのに、刑部は曖昧な返事で言葉を濁そうとした。


 この頃、京都の将軍家は足利義尚である。義尚の伯父の足利左馬頭が堀越公方として、伊豆堀越から関八州に睨みを利かせている、はずであった。

 しかし現実には、関東執事・上杉伊予守が実権をふるっていた。この上杉伊予守が小鹿刑部の亡妻の父であることから、駿河国の守護職人事も伊予守の掌中にあったのだ。


 龍王丸の母の訴えも、刑部は馬耳東風で済まそうとしていた。

 ところが、このとき、小川館の表で、小鹿孫五郎と旅装の武士二人との間にひと悶着あったのだ。兄・刑部を「お屋形さま」と孫五郎が呼んだのを、年長の武士が「それは非礼」と決めつけたのだ。駿河国で「お屋形さま」と呼ばれるのは、龍王丸ひとりのはず、という。

 カッとなった孫五郎は抜刀したが、年若の武士(大道寺太郎)に、あっさり刀をもぎとられてしまう。長谷川大膳が騒ぎを聞きつけて止めに入るが、年長の武士の顔を見て驚いた。

 「これは、伊勢新九郎さま」――北川殿の弟であり、京都で幕府申次衆をしているはずの伊勢新九郎であった。  


 龍王丸の御座所に入った新九郎は、「このたびお役御免、天下の素浪人となったので、ぜひとも居候したい」と言う。龍王丸が苦笑し、「元服も済ませないでいるわたしの元に、幕府申次衆であられた叔父上が居候とは?」と訊き返す。

 「いや、そのことで、将軍家の御教書を預かっている。駿河一国を守護不在のままにしておくのは、何かと不用心。そこで龍王丸を元服させ、併せて守護を継がせたいという内願を、堀越御所より差し出されたい。これは間違いなく、将軍家から堀越公方さまへのお指図である。この書状を届けるのが、わしの最後のお役目となったわ」

 新九郎は、御教書の巻物を自分の襟から出してみせた。小鹿刑部は何か訊ねようとしたが、新九郎の威厳に気おされて下がっていった。

 「小鹿どのも、昔はあのような方ではなかったが」と北川殿が安堵まじりに言うと、新九郎は「権力は人を盲目にさせる。わしとて分からぬよ」と言い放って、龍王丸と北川殿を驚かせた。


 駿府居館への帰路の途中、小鹿刑部の一行を地侍の一団が襲った。「譜代の方々や、われら地侍をないがしろにする守護代どの、お命ちょうだいっ!」と地侍は喚く。

 刑部一行は瞬く間に斬り殺される。刑部も孫五郎も死を覚悟した。だが、そこに疾風のように飛び込んできた一個の人影。総髪の青年だが、その太刀筋は妖しく、地侍をことごとく斬り捨てていった。

 われに返った刑部は、青年に名を訊いた。「桑原鬼平太」というのが青年の名乗りである。


 その日の夕刻、刑部と孫五郎は、居館に鬼平太を招いての酒宴になった。

酔いが進むにつれて、孫五郎の口は軽くなる。ついに「あの伊勢新九郎さえ亡き者にしてしまえば、龍王丸や北川殿など赤子の手をひねるようなもの。駿河一国、われら兄弟の手中に収められる」と口走った。

 それを聞いた鬼平太が、「それがしが伊勢どのを始末してもよいが」と平然と言った。さすがに刑部は酔いをさまして、弟・孫五郎と鬼平太を諭した。

 「十一年前、義忠の急死の混乱に乗じて、斯波義良の軍勢が押し寄せてきた。そのとき、二千の兵が石脇の小城ひとつ落とせず、引きあげていった。そのときの石脇城の守将は、義忠の食客であった伊勢新九郎だった」

 だが鬼平太は、そんな昔話を意にも介さない。「いくさ上手な大将が、剣をふるっても一流とは限るまい」と言ってのけた。刑部はさすがに考えこんでいたが、やがて静かに口を開いた。

 「あの者はいま、伊豆の堀越御所に出向いている。駿河に戻るより前に片づけてほしい。恩賞は望みのままに取らせよう」


 伊豆の堀越御所。

 堀越公方・足利左馬頭に、正装に身を固めた新九郎が、将軍の御教書を差し出した。拝読した左馬頭は大いに頷く。

 「わしは、足利の連枝として関東の仕置き一切を任された身であるが、後詰ともいうべき駿河への気配りを欠いていた。これは、わしの手抜かりであった」

 左馬頭は、執事の上杉伊予守を呼び出して、龍王丸元服の烏帽子親になるよう命じた。それと共に、龍王丸を駿河守護職に任じたいという内願の書状を左馬頭から将軍家に送るので、それに副署するよう命じた。

 これによって、今川龍王丸の地盤は確固たるものになるだろう。小鹿刑部の義父であった伊予守には、内心忸怩たるものもあったが、左馬頭の裁断はすでに下っていたのだ。


 そのあと、新九郎は、左馬頭の所望に応じて、流鏑馬の腕前を披露した。

 馬場を囲んだ見物人の中には、近くの市に獣皮を売りに来た山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎ら悪童三人組の姿もある。

 又次郎など、「お稽古ごとの馬術など、見ていてもつまらん」と言っていたのだが、いざ目のあたりにすると、新九郎の妙技に見とれるばかりだ。

 左馬頭の小姓の中から、荒木兵庫頭と在竹兵衛尉が進み出て、「伊勢流ではなく関東流の流鏑馬をお目にかけよう!」と新九郎に挑戦したが、あと一歩のところで及ばなかった。

 「無用の長物の堀越公方に仕えるには、まことに惜しいつわものたちだ」と新九郎が大道寺太郎に耳打ちした言葉は、エビス顔の左馬頭の耳には入らない。

 そういった光景を、鬼平太がひとり見つめていた。鬼平太の姿を認めた山中才四郎は、「あのお方は?」と呟いた。後をつけてみたが、その姿は上杉伊予守の屋敷で消えていた。


 堀越御所から遠くない韮山村の丘陵の上に、置き忘れられたような山城がある。そのふもとの古い屋敷に、執権北条氏の末裔である桑原氏が住んでいた。

 とはいっても、当主はすでに病没、嫡男の鬼平太は出奔して、行方が知れなかった。いま屋敷には、鬼平太の姉の登与姫が、老僕、下女と共に寝起きしているだけ。

 ただ、かつての主従の縁を忘れない風魔一族からは、登与姫に物心両面での合力があった。この日も、千鶴が屋敷を訪ねてきて、話し相手になっていた。

 そこへ、荒川又次郎が駆けこんできて、「鬼平太さまを才四郎が堀越で見かけたと申しております」と注進した。

 鬼平太がいっとき風魔の里にあって、忍びの術を学んでいたときの相方であった才四郎の目に狂いはないはずだ。

 「探して、連れてきてください!」と登与姫は叫んだ。鬼平太の出奔は、執権北条氏の再興を目指してのもので、いま戻ってきたからには、お家再興のめどが立ったに違いない。「あの子に会いたい」と登与姫は叫んでいたが、又次郎は言葉を濁していた。


 後刻、悪童三人組が風魔半月斎と千鶴の前で顔を合わせたとき、山中才四郎の口から、鬼平太に対する懸念が聞かれた。

 鬼平太が修練を続けていれば、ひとかどの忍術使いになったに違いない。ところが三年前に鬼平太は、死と仰いでいた老女を殺害し、秘蔵されていた呪術の巻物を奪って逃げていた。その老女は半月斎の実の妹にあたる。千鶴から見れば大おばだ。

 主筋にあたる鬼平太に、半月斎も討手を向けるわけにはいかない。かつて登与姫も師事していた老女の死の真相も、登与姫に伝えられないのだ。鬼平太の風魔の里への出入りを禁じるしかなかった。のち鬼平太が韮山村を出奔したらしいと半月斎は耳にしたが、重ねての処分は言い出せなかった。

 その鬼平太が、上杉伊予守の屋敷に出入りするようになったという。だが、鬼平太は元来、仇敵である足利将軍も堀越公方も「あの裏切り者の子孫かよ」と言って憚らなかった。その鬼平太が、堀越公方の執事にゴマをする?

 「これは何かある」と半月斎も胸騒ぎがしたが、とりあえず事態を静観することにした。


 新九郎と大道寺太郎の主従二人が、堀越御所を出立して、小川館への帰路についた。その途中、修善寺の温泉に立ち寄った二人は覆面姿の騎馬武者の一団に襲撃された。新九郎も太郎も太刀をふるって防戦、何人かを斬り倒した。残った人数が馬首をめぐらすと、「逃がさん!」と太郎は離れ馬にとびのり、追っていった。

 新九郎が斬り倒した数人の身元を調べようとしたが、その数人の体には火薬が仕掛けられていた。体が吹き飛ぶ数人。新九郎も茫然としていると、街道に鬼平太が現われた。そして、妖刀をふるって、新九郎を林に誘い込む。

 「おぬし、何者だ?」と新九郎が問うと、鬼平太は「執権北条氏の末孫、桑原鬼平太」と、その真の素姓を明かした。

 これには新九郎も驚く。「北条高時公とは同族でありながら、足利幕府に仕えるわしを許せないというのか?」執権北条氏も伊勢平氏から繋がっているのだ。だが鬼平太はそれには答えず、奇妙な呪文を唱えだす。

 密林をかきわけて、体高八尺におよぶ巨大猩々が姿を見せた。人面獣身の獣神である。「うわっ!」――さしもの新九郎も、この怪物に抗するすべはなかった。太刀を弾き飛ばされ、さらに牙で食いついてきたのを避けようとして、崖から転落して狩野川の急流に呑まれた。

 それから四半刻後、この街道を急いでいた山中才四郎と多目権兵衛は、新九郎の名を呼びつつ半狂乱の大道寺太郎を目撃した。

 

 その晩、小川館の外郭で大勢の人馬が騒ぐ物音が聞こえ、龍王丸は目を覚ました。濡縁に出て、長谷川大膳に訊ねると、小鹿孫五郎率いる駿府館の手勢に館を包囲されたようだという。

 朝になれば、孫五郎を先頭に斬り込んでくるだろう。もはや袋の中のネズミ、華々しく散るしかない。龍王丸は、覚悟を決めて、母・北川殿の寝所に駆けこんだ。「母上、お覚悟を」と龍王丸は唇を噛んで言う。北川殿も頷いた。

 ところが、「早まれるな」と声がして、天井から大道寺太郎が落ちてきた。茫然とする龍王丸と北川殿。天井の羽目板から顔をのぞかせている山中才四郎と多目権兵衛。


 払暁。小川館から下女たちが逃げてくるのと入れ違いに、孫五郎を先頭に突入する郎党。ところが館はもぬけの空だった。顔色を失う孫五郎。長谷川大膳は涼しい顔をして、龍王丸母子は墓参のため留守にしていると口上を並べている。

 孫五郎は慌てて駿府館に逃げ帰ったが、その狼狽ぶりが刑部にも伝染し、兄弟そろって見苦しいさまを鬼平太は冷たく見て、「龍王丸が館に戻る前に片づければよかろう」と言った。

 「しかし、墓参とは口実だろう。あの母子がいずこに逃れたか分からぬ」と刑部は蒼くなっている。だが、鬼平太は「見当はついている」と立ち上がった。


 一方、新九郎は、屋敷内の居間で、意識を取り戻していた。枕頭に付き添っていた千鶴に、「わしは、どうして、ここに?」と訊ねる。

 新九郎は、昨日の夕方、狩野川の河岸に打ち上げられて気を失っていたのを、この屋敷に仕える老僕が見つけて、千鶴とふたり屋敷にかつぎこんだという。

 ここ一昼夜は生死の間をさまよっていたが、風魔一族に伝わる塗り薬の効き目は上々で、「もう大丈夫です」と千鶴は胸を張った。

 登与姫が現われ、「北条一族の末で、登与と申します」と名乗った。新九郎は驚き、「では、桑原鬼平太どの姉君であられるか」と口走ってしまう。「鬼平太をご存じか?」と身を乗り出す登与姫に、「いや、旅先でお名を耳にしただけ」と言葉を濁す新九郎。

 大道寺太郎が戻ってきて、龍王丸と北川殿はぶじ風魔の里に逃れたことを報告した。そこには登与姫や千鶴もいたので、「すべては風魔の衆の助力のおかげ」と言いながら、太郎は安堵していた。

 だが、太郎と二人きりになると、新九郎はその耳にささやく。「わしを襲ったのは、この屋敷のあるじであった桑原鬼平太よ。風魔一族にとっては主筋にあたる方ぞ!」


 風魔の隠れ里の洞で、あの神像に参詣する龍王丸と北川殿。二人は「太郎坊大権現」に祈った。山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎が従う。

 「何を祈った」と訊かれた龍王丸は、「わたしが早く守護になり、この駿河国を治めることができるよう、お願いした」と神像を仰ぎつつ、悪びれずに言ってのけた。

 半月斎の屋敷に戻ってみると、別の客人が来ていた。「鬼平太さま?」と才四郎以下、首をかしげた。風魔の里への出入り禁止の処分は解かれたのだろうか?

 いずれにせよ、才四郎以下への鬼平太の態度はそっけない。それに対して、離れ座敷に向かう龍王丸と北川殿を見る目は、尋常ではなかった。

 「あの二人の身柄を、わしに預けよ」と主殿で鬼平太は半月斎に迫った。「それが執権北条氏の再興への早道」と鬼平太は言うが、半月斎はかぶりを振った。

 「それは、ご本心ではありますまい。おまえさまの心の歪み、この爺にはよく分かります。もはや北条氏再興などどうでもよい。天下万民が塗炭の苦しみをなめようと、知ったことではない」

 「おお、そのとおりよ」と鬼平太は居直る。小鹿刑部に恩をきせ、その食客として安逸な生活を送って、そのどこが悪い。執権北条氏を再興すれば、この世を正せるというのは、姉上の世迷い言だ。

 「その世迷い言に爺もたぶらかされたか」と鬼平太は笑う。「どうやら、若には死んでいただくほか、なさそうだ」と半月斎は仕込み杖を抜いた。

 だが、そのとき主殿の床板を突き破って、巨大猩々が姿を現わす。飛び退いた半月斎の体勢が崩れたところに、鬼平太の妖剣が一閃、半月斎は崩れ落ちた。「心は歪んでも、術のほうはこのとおりよ」と鬼平太はうそぶいた。


 主殿に駆けつけようとする山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎にも、巨大猩々が襲いかかる。床板を踏み抜き、柱を砕く巨大猩々に、三人組は手も足も出ない。

 この間に、離れ座敷に走る鬼平太。茫然としている龍王丸を当て身で昏倒させ、「慮外者っ」と懐剣で突きかかってきた北川殿は一刀のもとに斬り捨てる。「新九郎……お願い……あの子を」と虫の息で北川殿は喘いだ。


 風魔一族が恐慌をきたしていた。巨大猩々に半月斎屋敷が潰され、里の者は逃げ惑うばかり。半月斎と北川殿が殺され、龍王丸が鬼平太に馬で連れ去られたことまで気が回らない。

 巨大猩々に若者が向かっていくが、そのつど弾き飛ばされる。山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎の三人が、負傷者を庇いつつ、じりじりと後退していった。

 ところが、あの洞に一族が退くと、巨大猩々の足が止まった。洞の奥にある「太郎坊大権現」の神像と向かい合う巨大猩々。やがて洞の奥から突風が吹き荒れ、巨大猩々はその突風に圧されて尻を向けた。


 新九郎、太郎、千鶴が馬で駆けつけた。千鶴は、祖父・半月斎の最期を知って愕然とする。才四郎以下を「大の男が三人そろって」と責めたが、危うく風魔一族は全滅の危機にあったと知って黙り込む。

 新九郎は、半月斎屋敷で北川殿の亡骸を見つけ、男泣きに泣いた。だが、龍王丸がまだ生きていると知って、太郎と奪還に向けての策を練った。


 駿府館の座敷牢に放りこまれた龍王丸の前に小鹿刑部が現われ、明日の夕刻に

は、「龍王丸の首を刎ねるつもりだ」と公言する。

 堀越公方の命により処断するという形を取るわけで、そうすれば地方豪族の面々も、駿河守護に刑部を推さざるをえなくなる。「わたしについて、あることないこと、堀越公方さまに吹き込むつもりと見たが」と龍王丸が言い当てる。

 刑部は頷いた。先年成敗された太田道灌の遺児と龍王丸が結託、堀越公方に謀反を企てていることを証拠だてる書状を、刑部が入手した。もちろん偽手紙だが、この手紙を披露すれば一体どうなるか?

 刑部は、龍王丸が首を刎ねられる様子を夢想して、からからと高笑いをした。対する龍王丸の両目では、めらめらと炎が燃えていた。


 堀越御所で、問題の書状を読んだ足利左馬頭は、刑部の目論見どおりに激怒して、控えている孫五郎や桑原鬼平太に、「龍王丸を処刑せよ」と命じた。荒木兵庫頭や在竹兵衛尉は、「これは茶番だ」と苦々しく見ていた。

 その晩、桑原屋敷を訪ねた兵庫頭と兵衛尉は、自分が実見した様子を登与姫に話した。それを聞いた登与姫は、悪寒がしている。「本当に鬼平太が足利左馬頭どのの前で、庭先に控えていたのですか?」「間違いありませぬ」と兵庫頭と兵衛尉が声を揃えた。

 かつての鬼平太は「足利左馬頭の頬げたなど張り倒してやりたい」と公言して、左馬頭の小姓を務めながらも、この屋敷に出入りしている兵庫頭と兵衛尉を困惑させたものだが、それに較べていまの鬼平太は……。

 荒木兵庫頭や在竹兵衛尉は、龍王丸処刑の上使になった上杉伊予守に随行して明日にも駿府に発つという。それを聞いた登与姫は念を押す。

 「もしも鬼平太に、北条の名を汚す振舞いのあった時は」というのだが、兵庫頭や兵衛尉はどう答えていいのか分からない。


 次の日の朝。新九郎、大道寺太郎、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎の五人は、風魔隠れ里から駿府に向かった。

 千鶴も「一緒に行きたい!」と懇願したが、千鶴には巨大猩々に襲われた人々の手当てがあると新九郎が諫めた。人数の多くは老人や子供たちである。その言葉に納得した千鶴は、五人を見送っている。


 夕刻。千鶴は「太郎坊大権現」に詣でて、新九郎たちの武運を祈った。気がつくと、自分の後に老人や子供たちも続いて、一心に祈っている。

 やがて歌う声が聞こえた。「登与姫さまの歌声だ」と千鶴は聞き分けられたが、登与姫のいる韮山村から、ここ隠れ里には距離がある。しかし、声はますます近くなるのだ。

 (タロス、タロス、起きなさい)とその声は言っていた。「奇妙なことだけど…」と千鶴が顔をあげる。すると、神像と目が合った。

 (……!)

 太郎坊大権現、いやタロスの両目が開いたのだ。青銅の肌の冷たいところは同じだが、やはり青銅の目はギロギロと瞼の奥で動いている。

 そして、タロスは台座から下りた。千鶴はじめ里の者たちは絶句して逃げ出す。みな、自分がいま見たものが真実とは思えない。だがタロスはまっすぐ前を見て、洞から表に出た。そしてタロスは翼を広げて宙に舞った!


 夕焼けの空に舞うタロス、韮山村の上空を旋回する。桑原屋敷の庭先に出てくる登与姫、(あなたにすべてゆだねます)と精神感応で語りかける。頷いたタロス、反転して駿府浜に向かった。


 その駿府浜では、いま陽が沈みかけていた。夕焼けの浜に引き出された龍王丸は、斬首されようとしている。今川家に忠誠を誓っていた地方豪族の面々は、その今川家の若き当主が処刑される場への陪席を強要されて困惑していた。

 床几を据えている上杉伊予守の側に、小鹿刑部と孫五郎、鬼平太がいる。荒木兵庫頭と在竹兵衛尉は、伊予守の指図で首切り役を務めようとしていた。龍王丸自身は瞑目していた。

 そのとき、十数頭の裸馬がなだれこんできた。慌てた面々が恐慌をきたした間隙をついて、馬腹に隠れていた山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎の三人組は、龍王丸の縄を解いて馬に乗せる。龍王丸の顔に生気がよみえった。

 兵庫頭と兵衛尉は反射的に抜刀、それぞれ権兵衛、又次郎と斬り合った。一方、鬼平太は龍王丸に殺到し、才四郎と刃をまじえた。


 「謀反人ども、皆殺しにせよ!」と叫ぶ伊予守の足元に向けて、沖の小舟から矢文が射込まれる。その矢文を思わず開いた伊予守は、愕然として傍の刑部に詰めよった。

 「これは何事じゃ! あの書状と同文だが、筆跡はおぬしのものだ!」

 絶句する刑部にかわって、小舟を下りた新九郎が答える。「こたびの一件が守護代どのの作り話という、動かぬ証拠でござる」

 大道寺太郎が旅の書家らしい男を浜に突き飛ばす。龍王丸逆心の動かぬ証拠とみられていた書状が、実は刑部が書家に贋作させたものと分かったのだ。

 それを聞いた兵庫頭と兵衛尉は、刀を返して刑部の手勢を斬りまくった。


 一方、鬼平太は妖刀で才四郎、権兵衛、又次郎に迫ったが、やはり圧され気味である。「潔く自裁なされよ」と兵庫頭が声をかけたが、鬼平太は冷笑した。

 「執事どのや守護代どの、そして、おぬしらを討ち果たせば、後はどうにでも言いくるめるわ」と物騒な話をして、鬼平太は呪文を唱え、巨大猩々を呼び寄せた。

 敵味方なく暴れまわる巨大猩々の前で、逃げ惑う武士たち。龍王丸も新九郎も手が出ない。新九郎の配下となった六人も同様である。


 皆を嘲笑する鬼平太。そのとき、月光をさえぎって、タロスが飛んできた。タロスの巨剣の一撃で倒れる巨大猩々。タロスが優勢のうちに、格闘戦が続き、その様子に蒼ざめる鬼平太。

 だが、一瞬の逆転劇が待っていた。タロスが巨大猩々を散々に踏みつけたが、その一瞬、巨大猩々がタロスの片方の踵にかじりついたのだ。タロスが苦しみの叫びをあげる。タロスの片方の踵から体液が滝のように噴出した。そして、タロスの体にひび割れが走ったのだ。ひび割れがタロスの全身に広がり、青銅の神像に戻ったタロスは崩れ落ちた。


 味方と思って声援を送っていた新九郎も配下もこれには驚いた。ただ、龍王丸がひとり、タロスの巨剣を拾いに走った。タロスの巨剣は小さくなって、龍王丸が使える程度まで縮んでいる。

 巨大猩々もタロスに斬られて、絶息している。あとは人間同士の戦いになった。


 鬼平太は、自分が執権北条氏の末孫であると明かした。地方豪族たちがどよめく。鬼平太は、自分が駿河国主に最もふさわしいと豪語し、その明かしとして、偽の国主である龍王丸の首級を頂戴すると言った。

 だが、龍王丸に殺到しようとした鬼平太は、タロスの剣の反射光で一瞬ひるんだ。そして、タロスの剣はまっすぐ鬼平太の心臓をえぐっていた!

 さすがに息が荒い龍王丸。小鹿刑部と孫五郎の兄弟は、この隙に龍王丸を討とうとしたが、新九郎と太郎が逆に斬り捨てている。

 新九郎は血刀を提げたまま、上杉伊予守の前に進み出た。そして、「反逆の徒である桑原鬼平太、ならびに小鹿刑部と孫五郎の兄弟を、駿河国主である今川龍王丸の命によって成敗いたしました」と言ってのけた。「たしかに……ご苦労であった」と伊予守は言うしかなかった。地方豪族の間から歓声があがった。


 翌日の桑原屋敷。鬼平太の遺髪を届けにやってきた新九郎を、登与姫は仏間に案内する。北条高時公の位牌に向かった新九郎は、一族同士で殺し合った実情を述べたが、その頸すじに登与姫が懐剣を当てた。

 「おやりなさるか?」

 「やらいでか!」

 だが、懐剣は新九郎の首の皮を薄く削いだだけ、そこからこぼれた血を舌で舐めた登与姫は、「北条の血は絶やせぬ」と新九郎をみつめた。

 次の間に控えていた太郎と千鶴は、仏間の中の妙な雰囲気に、顔を合わせて赤面した。


 この日の夕刻、今川龍王丸と伊勢新九郎は「太郎坊大権現」に詣でている。

 何とタロスの神像は、元の通りの青銅の巨神として再び立っていた。ただタロスの巨剣のみが欠けていた。龍王丸が持ってきた剣を奉納すると、それは元の大きさに戻って、タロスの鞘に収まっている。

 そして次に、伊勢新九郎、大道寺太郎、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、荒木兵庫頭、在竹兵衛尉の七人は、洞の湧水を盃に集めて、それを神水として酌み交わしたのである。

                                完


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