兄さん、いつもありがとう

吉乃直

兄さん、いつもありがとう

 兄さんと出逢ったとは、私が七歳のときだった。


 きっかけはお父さんの再婚。当時の私はお母さんを亡くしたばかりで塞ぎ込んでいて、そんな私をひとりにしたくないという思いが決め手だったらしい。


 そうしてお父さんの再婚相手と一緒に家にやって来たのが、私と同じく連れ子である兄さん――陽斗はるとさんだった。


 兄さんは私より六つ年上で、初対面のときからしっかりした印象だった気がする。


 そんな兄さんは、学校を休んでまで私と一緒にいてくれて、言葉をかけてくれた。人と話す気になれなかった私は当然無視したけれど、それでも兄さんはイヤな顔ひとつせず私にかまい続けた。


 どうしてそんなに私にかまうの、なんて生意気に聞いたとき、兄さんは、


「つらいときは、誰かが一緒にいてくれたほうがいいからな」


 なんて笑顔で答えてみせた。


 あるとき、兄さんは「なんの動物が好き?」なんて聞いてきた。なんとなく気まぐれで犬と答えると、兄さんは部屋から紙と鉛筆を持って目の前で描き始めた。


「……絵、かけるの?」


「少しね。母さんとか友達は上手いって褒めてくれる」


 なんて会話をしているうちに完成した絵は、幼い私でもわかるくらい上手だった。驚く私を見て、兄さんは得意気に笑ってみせた。


「ふふん、ほかにも描いてほしいものがあったらなんでも描くよ」


「なんでも?」


「……なんでもは盛ったけど」


 そう言って目をそらす兄さんに、私はお母さんが亡くなってから初めて笑った。


 特別な言葉や行動があるわけでもない、なんてことないその瞬間のおかげで、ほどくして私は立ち直ることができた。


 その後、いつだったかなんとなく「兄さん」と呼ぶと、嬉しそうにはしゃいでお義母さんとお父さんにそのことを伝える兄さんの姿が、今でも記憶に強く残っている。




     ◇   ◇   ◇




 朝。時計の針が九時を過ぎても兄さんは姿を見せず、私は事前の取り決めどおり兄さんを起こしに行った。


 ノックしても反応はなくドアを開けると、案の定兄さんは机にうつ伏せて安らかに寝息を立てていた。電源のついた液タブには可愛らしいイラストが映し出されている。


 頬っぺたをつんつんとつついてみても反応はない。


 はぁ、あまり無理しないでって言ってるのに……。


「兄さん起きて! もう九時すぎてるよ!」


 私は兄さんの肩を力いっぱい揺らして声をかける。


 短く「うぅ……」と唸り声が聞こえてから、少ししてゆっくりと兄さんの目が開いた。


「あぁ、おはよう奈々香ななかちゃん」


「おはよう兄さん。また徹夜してそのまま寝たでしょ。せめて寝るときはお布団でって言ってるでしょ?」


「ごめんごめん、納期が近くてさ。次からは気をつけるよ」


 クマのある顔で兄さんはにへらと笑う。


「まったくもぅ。ご飯できてるから一緒に食べよ」


「うん」


 起きたばかりでふらふらしている兄さんを引っ張ってリビングに戻る。


 それから兄さんは私が用意した朝食をぺろりと平らげると、「それじゃあ仕事があるから」とひと息つく間もなく部屋へと戻っていった。


 今日は祝日、しかも勤労感謝の日だというのに、兄さんは休もうとしない。


 兄さんはプロのイラストレーターだ。高校のときから活動していて、業界内ではそれなりに有名らしい。兄さんの絵は好きだけど、業界についてはさっぱりだから具体的にどれくらい、とは知らないけれど。


 そんな兄さんは、去年お父さんとお義母さんが亡くなってから大学を辞めて今のように休む暇もなく仕事をこなすようになった。


 せめてお小遣いくらい自分で稼ぎたいけど、また中学二年だからバイトもできないし、兄さんみたいになにかを作るセンスや技術がないので、兄さんの厚意に甘える他ない。


 せめて無理はしないでとお願いするけど、依頼の納期には勝てないことをもどかしく感じる。


 でも、今日くらいは休んでくれないかなと、つい考えてしまう。先週の土日も、兄さんはほとんど休まず仕事をしていた。


 なにか私にできることはないかな。


 なんて考えて、ふとカレンダーに目がいく。


 そうだ、今日は勤労感謝の日なんだから、思いっきり兄さんを労ってあげよう。


 そう思いついた私は、さっそく兄さんを労うための作戦を練ることにした。



 そして夜。


「兄さん、晩ご飯できたよー」


「わかった。ちょうど仕事終わったところなんだ、すぐ行くよ」


 本当にちょうどいい、なんて内心で考えながら疲れた様子の兄さんとリビングに戻って席に着く。


 テーブルには山のように盛られた唐揚げと炊き込みご飯、サーモンのカルパッチョというあまり一緒に見ない顔ぶれが並んでいた。


 目の前に並ぶ夕食に、兄さんは首をかしげる。


「あれ、なんか今日俺の好きなものばっかりだね。なんで?」


 誕生日でもないしな、と不思議そうな顔をする兄さんに思わずふふっと笑ってしまう。


「今日は勤労感謝の日だからね、いつも頑張ってくれる兄さんを労おうと思って」


「……めっちゃ嬉しい」


 見ると兄さんは目尻に涙を浮かべていた。それほどのことだろうか。


 いただきます、と合掌してから兄さんはすぐに箸を伸ばした。


 最初は炊き込みご飯から。続いてサーモンに唐揚げと口に運んでいく。


「美味しい……美味しいよぉ」


「なんか、そこまで喜ばれるとかえって恥ずかしいよ」


 すっかり大人な風貌になったというのに、まるで子どものように純粋な笑顔を浮かべる兄さんの姿に自ずと口角が上がる。


 兄さんが好物にはしゃいだ結果、今日の夕食の時間はいつも以上に早く終わってしまった。


 それから二人で洗い物を済ませたところで、兄さんが「奈々香ちゃん」と呼んできた。


「ごちそうさま。今日は本当にありがとう、嬉しかったよ」


「……じつは、もうひとつあるんだ」


 そう言ってから兄さんに屈んでほしいと伝える。


 兄さんは不思議そうな表情を浮かべながらも、疑うこともなく屈んでくれた。


 普段はそれなりに見上げないといけない整った顔が、ほとんど変わらない高さにくる。


 羨ましいくらいに睫毛がきれいに伸びていて、髪だって特別手入れしているわけでもないクセに艶があって恨めしい。


 なんてことを考えながらも、私の心臓は速く鼓動していた。緊張で手に汗が滲む。


 そんな異常事態を悟られないよう平静を装いながら、


「兄さん、いつもありがとうね」


 そう言って私は兄さんの頬っぺたに軽くキスをした。


「――え?」


「それじゃ、おやすみっ」


 困惑した表情を浮かべる兄さんを残して、急ぎ足で私はリビングを後にした。


 部屋に戻ってからも、私の心臓はバクバクと高鳴っている。それに顔が熱い。


「あくまで感謝を伝えるため、あくまで感謝を伝えるためなんだから……うぅ」


 何度も自分に言い聞かせても、胸の鼓動が収まる気配はない。


 それにしても、頬っぺたなのにこんな恥ずかしいなんて……。


 気づけば唇を指で触れていて、余計に羞恥心が込み上げてくる。



 けど、いつかは――――



 なんてことを考えていたせいでなかなか寝つけず、翌日私は寝坊した。

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兄さん、いつもありがとう 吉乃直 @Yoshino-70

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