第3話

 それから一週間後の昼休み。

「ありがと久美ちゃん!」

「久美ちゃんのおかげでテスト、八十点も取れた! はじめてだよこんなの!」

 眼前で咲き誇る笑顔。高校三年生とは思えないその幼子のような振る舞いに、平静を装うもまんまと相好そうごうを崩されてしまう。

「ぐーー」

 と、その瞬間。萌絵の腹の虫が鳴り響いた。

「もしかしてお昼、それだけ?」

「あ、うん。お母さん、昨日も遅くまで仕事で帰ってくるの遅くて……。だから悪いと思って、お弁当いらないって言っちゃった」

 萌絵はそう言うと、購買で入手したクリームパンを恥ずかしそうに頬張った。

「はいコレ」

「え? いいの?」

 無言で頷くと、私は箸で挟んだ唐揚げを萌絵の目の前に浮かせて見せる。

「ありがと! あむぅ」

 萌絵は嬉しそうに口を開き、パクリと箸ごと口に入れる。空腹で垣間見えた苦悶が、一気に満開になった。


 まったく。おかず一つでここまで喜ぶなんて。お手軽なんだから。

 そんな内心を、そっと放った鼻息の内に留める。

 

 ……っ。


 じっと、箸の先端を見つめる。食欲を満たす萌絵の微笑みを脇目に、私はさりげなくわざと空気を掴み、二つの先端を舌に這わす。そうして、食欲とは別の欲求を体内へと流し込んだ。

「ねえ久美ちゃん」

「っ、……うん?」

「今日の放課後、寄り道しよ!」

「えっ? 寄り道?」

「うん。久美ちゃんに勉強付き合ってもらったお礼、したいんだ。だから、ね?」

「いいよ別に」と、そう言いかけたが。気付けば無意識に、私は頷いていた。


 今日は特別。ルーティンの中に、こんな日があってもいいだろう。

 彼女を前にすると私は、どこまでも自分に甘かった。




 迎えた放課後。萌絵に連れられやってきたのは、近所のショッピングセンター内にあるフードコートだった。萌絵曰く、最近テナント出店したカフェのコーヒーが人気らしく、私に御馳走したいとのこと。

「アイスコーヒー一つと、イチゴオレ一つ、お願いします」

「萌絵、コーヒーにしないの?」

「ああ、あはは……。あたしじつはコーヒー、まだ苦手で」

 本当、子どもね。じつに萌絵らしいと思った。

 その後各々おのおのドリンクを受け取ると、私たちは開けた空席スペースへと向かう。

「またそんな、甘ったるいモノを」

「だっておいしいんだもん。久美ちゃんも飲んでみる?」

「いや、いい」

 私はイチゴオレがあまり好きではない。

 けれど――。微笑ましくストローを咥えている彼女を見て、私は噴泉した衝動を抑えることができなかった。


 また、あの感情が。

 胸の中で。脳内で……目を覚ます。


 ほのかに漂う甘いイチゴの香り。その甘みが誘引剤となって、私の感情を揺らした。

「やっぱり……ちょっとだけ、もらってもいい?」

「フフッ。うん、いいよ。はい!」

 疑いも無く、屈託ない笑顔で差し出す萌絵。

「じゃああたしも、もーらおっと」

 すると合わせるかのように。彼女は不意打ちで私のアイスコーヒーを手に取り、ストローを口に含んだ。

「……ぁ」

 萌絵にとっては、何の変哲もない行為。だが私には違った。

 冷たくドロっとしたピンク色の液体が舌から中へと伝う。なのに体温は上昇するばかり。

「苦手かなと思ったけど、結構イケるかも。はい久美ちゃん」

「……久美ちゃん? 聞いてる?」

「っ、あ――うん」

 連呼に気付くまで、奇妙な間が生まれていた。

 テーブルの上にテスト用紙を広げ始める萌絵を他所に、私はずっと、彼女が口を付けたアイスコーヒーのストローを見つめていた。茶色がかった先端にしがみついた雫が、ゆっくりと滴り下降する。その一滴ひとしずくがキラキラと万華鏡のように広がり、空想の激流へといざなった。


 や。

 間接だけじゃ……いや。


 ルーティンの中に組み込まれていた、もう一つのルーティン。

 ルーティンと言いつつ、それはいつもイレギュラーで。

 だからこそ大切で、愛おしくて。


 けれど。

 いつからかそれは、私の心を乱し始めていた。


 目の前で咲いた花。

 それはあの日。私が咲かせた笑顔だ。

 だから、お願い。私の願いを。

 いや……ダメ。そんなこと。

 ダメなんだ。


 ずっと感じていた。自覚していた。

 いつしか自分の中に、背徳色の感情が荒々しく芽生え始めていたのを。


 いつからだろう。

 小学生の時? それとも中学? 最近?

 もうわからない。

 そんな彼女に漬け込んで。

 私は……。


 傷つけたくない。

 だから――終わりにしないと。

 この気持ちに、終止符を打たないと。


 そう思った。

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