第2話

「アンタたち、ホントくだらない」

 小学校五年生の時だった。

 その一言が、萌絵との出会いだった。


 亡き父にならい、幼少から空手を習っていた私は、公園で男子数人にいたずらをされている、同じ赤いランドセルを背負った少女を発見。その異様な集団の輪に駆け付け事態を察した私は、皮肉と呆然を織り交ぜそう吐き捨てると、激昂した一人の男子が「んだと! てめえ!」と叫び、私に対し殴り掛かってきた。だが――その見誤った彼の勇姿を習いたての突きと回し打ちで一蹴すると、男子たちはたちまち情けない有り様を露呈させ、離散。私は残された少女のもとへと向かい、その手を差し伸べる。

「ありが、と……」

「ううん、気にしないで。もう大丈夫だから」

「それじゃあ」

「あ、あの……」

「ん?」

「その……あたしと……。とも、だち……っ、に……」

「えっ?」

 懸命に振り絞った心情――「友達になりたい」

 はじめてだった。それが、当時の萌絵からの言葉だった。


「うん、いいよ。じゃあこれからは――」

「ずっと一緒」


 この日を境に、萌絵との関係が始まった。

 聞けば、萌絵は同じ学校に通う同い年で、さらに住まいも自宅から徒歩五分圏内の近所だという。

 そしてもう一つ、二人の共通点。

 それは、共に母子家庭だということだった。

 母と二人暮らしの萌絵は、病で父を亡くした私とは異なり、両親が離婚。彼女の父は家を出ていったとのこと。萌絵の父は普段から酒癖が悪く、職場で同僚と揉めた末クビになり、それから粗暴が悪くなっていったという。その結果、遂には母や萌絵に対し暴力までふるうようになり、やむなく母と共に市の相談窓口へ。その後弁護士の仲介を経て、離婚へと至った。当時の萌絵が語ったその経緯は、自分とは別の意味で壮絶なものだった。




「いくよ、萌絵」

「うん!」

 それから萌絵とは、いつ何時でも共に過ごすようになった。いつしか姉貴とみなすように、彼女は私の後ろをついて来るように。まるで懐いた仔犬のように、常に私の傍をくっついては離れようとしない。そんな萌絵の対し当時の私は、可愛い妹ができたみたいで内心愛らしい思いだった。


 この子は。

 私がいないと、ダメな子――。


 けれどそんな萌絵も、中学に上がるにつれ徐々に変わっていった。初めは無口で臆病だった彼女もしだいに自我を発現させるようになり、元々備わっていたであろう天真爛漫、純真無垢なキャラクターが小学校六年の暮れには大いに開花していった。


「おはよう萌絵」

「あっ、おはよう! チカ」

 中学一年の春。萌絵と私は一度も交わることなく、中学でも別のクラスに。

 入学して間もないにもかかわらず――萌絵は既に、私とは別の新たな友人を増やしていた。一方の私は、別に他人とのコミュニケーションは苦手ではない。苦手ではないが、この頃からはもう面倒にも感じ始めていた。

 そんな真意が知らず知らずに内から外へ漏洩していたのか、私は人を寄せ付けず、一人で過ごす事が常となっていく。


 私は基本、一人。けれど、苦ではなかった。

 この頃からはもう、今の「ルーティンライフ」の基盤も、盤石に築き始めていたから。

 私は萌絵にとって、数ある友人の中の一人に過ぎない。

 彼女と私は、別々のルートへと分岐していった。



 ――に、みえた。



「ねえ久美ちゃん」

「運動系の中だと、どの部活が良いかな?」

 だが萌絵は相変わらず、私によく絡んできた。その眩しい満面を……絶やすことなく。

「自分で決めなよ」

「でもぉ~。どう思うどう思う?」

「うーん……。萌絵には陸上部が良いと思う。足も速いんだし」

「そう?」

「うん。まあ」

 ‟異”の濃度が増していた私。普通ならもう距離をとってもおかしくない。なのに。その優しさは生粋なのだと思った。

「わかった! じゃあ陸上部にする!」

 どうしてだろう。萌絵は変わらず私に接し、大事な局面ではいつも私に意見を求めた。

 そうして萌絵は陸上部に所属を決め、中学から現在の高校に至るまで部活動を続けていた。


「ずっと一緒」

 あの頃のその言葉を、色濃く体現するかのように。

 時を経ても萌絵は、私が思う「萌絵」のままだった。


 それが。

 嬉しくて。

 ――しくて。



 ◆



「あ、いた!」

「ねえ久美ちゃん!」

 高三の夏休みが目前の、とある日の昼休み。遠巻きで、耳馴染みのある声が私を背後から抱擁する。

「明日、数学のテストなんだけど……。正直ちんぷんかんぷんでさぁ……。それで」

「わかった」

「え?」

「皆まで言わなくていいわ。どうせ勉強を教えてほしい――そうなんでしょ?」

「さすが久美ちゃん! うん!」

 これも今では、テスト前では茶飯事のこと。私にとってルーティンの一つだった。多くを語らずして、私は萌絵と約束を交わすと、彼女はスキップをして自室へ戻っていく。

 あどけなくこぼしたその笑顔と上機嫌な吐息。そうして感情を露わにする彼女の姿に、自然と頬がほころぶ。


 猫なで声を交え、甘え。

 摺り寄るその姿を、もっと見たい――。


 自室へと戻りながら私は、会話を中断させたことを後悔した。




「ピーンポーン」

 その夜、午後七時。

 玄関の戸が開かれ、制服姿のままの萌絵が陽気に出迎える。

「お母さん、まだ帰ってないの?」

「うん。今日は仕事で遅くなるみたい」

「そう。それで、夕飯は食べたの?」

「あ、ああ……。じつはまだで。勉強の後にカップ麺でも食べるよ」

「そんなこと言って……ダメよ。持ってきて正解だった。これ、良かったら食べて」

 これもルーティーン。もしかしたらと思い、得意の筑前煮を多めに作っておいて良かったと安堵する。

「えっ? いいの?」

「うん。残り物だけど」

「ありがと! いつも助かる! じゃあ勉強終わったら、お母さんと一緒に食べるね!」

 萌絵はそう言うと、手渡したタッパーを親鳥のように両手で抱きしめる。

 そんな彼女が私には、餌を求め懸命に口を開ける雛鳥のようで。慈悲にも似た熱い感情で、その雛鳥を見つめ続けた。


 その後私たちは、萌絵の部屋で一時間ほど勉強に励んだ。明日のテスト範囲で萌絵が苦戦しているという箇所を一つ一つ丁寧に教えていく。

「はあ~、なるほど! ありがと久美ちゃん。やっぱ久美ちゃんだよ」

「何よそれ。ひとまず一段落したんだし、夕飯でも摂ったら?」

「ううん。もうあと三十分頑張る! ってあっ、そうだ!」

「ごめん久美ちゃん、ずっとお茶も出さないままで」

「いいわよ、別に気を遣わなくて」

「ダメダメ! 今お茶入れて来るから、ちょっと待ってて!」

 萌絵はそう言うと、せわしなく階段を駆け降りて行った。


「ハア」

 一人残された部屋。

 自室のように気が緩み、吐息が漏れる。


 ――今のうち。


 私はじっと目を瞑り、ゆっくりと息を吸うと、全身で深呼吸をした。

 萌絵の匂いだ。優しくて、温かくて……。ふともたれかかった瞬間、その濃度がグッと増した。

 ベッド。そこには萌絵のベッドがあった。

 萌絵がいる。妖艶なその蜜に誘われるように、私はその境地へと視線を落とし、身を乗り出し――そして。


「……っ」

「……ぇ」


 もう一度、深呼吸を。

 違う。一度でなく何度も、何度も。

 深く。もっと深く。


 真っ暗な眼前。けれどもそこは、楽園だった。

 シャンプーのニオイに、かすかに入り混じる汗のニオイ。きっと部活に疲れてすぐに寝込んだりもしたのだろう。そんなことを妄想しながら、自分の顔が熱を帯びていくのがわかった。


 ガチャ。


「お待たせ! ……って、あれ」

「久美ちゃん?」


 楽園内でのひとときに、私は時を忘れてしまっていた。警戒し巣穴から飛び出す小動物のように、慌てて枕元から起き上がる。

 明順応の先に見えたのは、両手にグラスを抱えあっけらかんとした表情の萌絵だった。

「あっ……ちがっ。その……これは」

 熱い。

 熱い。

 ああ……私もう。ダメだ。

 おわった。


「ゴメンね、久美ちゃん」

 だが。放たれた言葉は、想像とは違った。

「そうだよね。流石に疲れちゃったよね。遅くまで付き合わせちゃって、ゴメン」

 彼女は勘違いをしていた。けれど私は、心中の慟哭どうこくをどうにか収めるのに精一杯だった。


 そうだ、相手は萌絵だ。

 良かった。これが萌絵。


 どこまでも彼女は、ピュアな子。

 なのだから。

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